表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/6

第6章 廃止

死刑廃止法案が可決した日、雨は降っていなかった。空は曇っていたが、妙に高かった。榊原は議員会館の廊下を歩きながら、拍手がこんなにも疲れた音に聞こえるものかと思った。勝利ではない。安堵でもない。大きすぎる事故を、ようやくこれ以上拡大させないと決めただけだった。


法案の附則には、再審請求中の死刑囚を全件再審査すること、既決死刑囚を終身拘禁刑へ切り替えること、そして2020年以後に発生した「身体変容事象」の調査委員会を設置することが明記された。新聞はそれを『ゴリラ法』と俗称した。品のない呼び名だと榊原は思ったが、否定する気にはなれなかった。品位を失わせたのは言葉ではなく、ここに至る経緯のほうだ。


数日後、彼は非公開施設を訪れた。元・古賀検事正が収容されている場所だった。厳重な扉の向こう、ガラス越しの居室には、若い雄のローランドゴリラがいた。毛並みは艶を失っていない。筋肉も、まだ旺盛だ。ただ、どこかひどく静かだった。飼育員が置いた果物には目もくれず、コンクリート壁の一点を見つめている。


榊原はしばらく立ったまま、その視線の先を考えた。古賀に人間の記憶はない。冤罪という概念も知らない。自分が何をしたか、理解できない。にもかかわらず、そこに残っている静けさだけが、妙に人間的に見えた。


「あなたはもう、反省すらできない」


言ってから、榊原はそれが誰への言葉なのかわからなくなった。目の前のゴリラか。かつての検事正か。あるいは、自分自身か。


施設を出ると、初夏の光が地面に満ちていた。社会は少しずつ平衡を取り戻すだろう。死刑はなくなり、再審は通りやすくなり、検察は慎重になり、裁判官は自分の確信を恐れるようになる。おそらく世界は、以前よりましになる。けれど、ましになった世界の入口には、必ず一群のゴリラが座っているのだ。彼らは原因を理解しない。だが人間のほうは、彼らを見るたびに思い出す。


正義が壊れる音は、判決文の紙鳴りではなく、骨と机が同時に軋む音なのだと。


その年の秋、上野の森に近い保護施設の前で、小学生の列が止まった。ひとりの子が、ガイドに尋ねた。

「このゴリラ、なんでこんなに悲しそうなの?」


若い飼育員は、少し黙ってから答えた。


「人間が、忘れないためだよ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ