第6章 廃止
死刑廃止法案が可決した日、雨は降っていなかった。空は曇っていたが、妙に高かった。榊原は議員会館の廊下を歩きながら、拍手がこんなにも疲れた音に聞こえるものかと思った。勝利ではない。安堵でもない。大きすぎる事故を、ようやくこれ以上拡大させないと決めただけだった。
法案の附則には、再審請求中の死刑囚を全件再審査すること、既決死刑囚を終身拘禁刑へ切り替えること、そして2020年以後に発生した「身体変容事象」の調査委員会を設置することが明記された。新聞はそれを『ゴリラ法』と俗称した。品のない呼び名だと榊原は思ったが、否定する気にはなれなかった。品位を失わせたのは言葉ではなく、ここに至る経緯のほうだ。
数日後、彼は非公開施設を訪れた。元・古賀検事正が収容されている場所だった。厳重な扉の向こう、ガラス越しの居室には、若い雄のローランドゴリラがいた。毛並みは艶を失っていない。筋肉も、まだ旺盛だ。ただ、どこかひどく静かだった。飼育員が置いた果物には目もくれず、コンクリート壁の一点を見つめている。
榊原はしばらく立ったまま、その視線の先を考えた。古賀に人間の記憶はない。冤罪という概念も知らない。自分が何をしたか、理解できない。にもかかわらず、そこに残っている静けさだけが、妙に人間的に見えた。
「あなたはもう、反省すらできない」
言ってから、榊原はそれが誰への言葉なのかわからなくなった。目の前のゴリラか。かつての検事正か。あるいは、自分自身か。
施設を出ると、初夏の光が地面に満ちていた。社会は少しずつ平衡を取り戻すだろう。死刑はなくなり、再審は通りやすくなり、検察は慎重になり、裁判官は自分の確信を恐れるようになる。おそらく世界は、以前よりましになる。けれど、ましになった世界の入口には、必ず一群のゴリラが座っているのだ。彼らは原因を理解しない。だが人間のほうは、彼らを見るたびに思い出す。
正義が壊れる音は、判決文の紙鳴りではなく、骨と机が同時に軋む音なのだと。
その年の秋、上野の森に近い保護施設の前で、小学生の列が止まった。ひとりの子が、ガイドに尋ねた。
「このゴリラ、なんでこんなに悲しそうなの?」
若い飼育員は、少し黙ってから答えた。
「人間が、忘れないためだよ」




