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第5章 国家

日本では国会が荒れていた。死刑制度を維持すべきか、凍結すべきか、ただちに廃止すべきか。だが本当の争点は理念ではなかった。誰が次に署名するのか。そこだけが、異様に現実的だった。


答弁に立つ与党議員は、いつも抽象語を使った。法秩序、国民感情、重大犯罪への厳正対処。しかし野党議員は、演説の途中で単語をひとつ差し込むだけでよかった。

――「では、あなたが署名しますか。」

その瞬間、議場は静まる。理念を食い破るのは、たいてい具体だ。


世界ではすでに、死刑廃止の潮流がさらに強まっていた。現実でもアムネスティは2023年時点で、全面廃止国一一二か国、法または慣行上の廃止国一四四か国と報告していた。そこへこの現象が重なったなら、死刑を維持する国家は、倫理より先に自衛のために制度を放棄するしかない。そう理解する官僚は多かったし、口に出せないだけで、閣内にも少なくなかった。


榊原は議場の片隅から、与党席に座る同僚たちの横顔を見ていた。誰もが「法を守る」と言う。だが彼らの本音は、もっと単純だ。人間でいたいのだ。言葉を持ち、家に帰り、家族の名を呼び、自分の罪を言語として抱えていられる側に残りたい。その卑小さを、榊原は笑えなかった。自分もまた、同じだからである。


「死刑廃止は人道主義ではありません」

榊原は記者会見でそう言った。

「それは、国家が自分の限界を認める手続です」


記者たちはその表現を面白がり、見出しにした。だが彼の胸中にあったのは別の風景だった。三枝航の事件記録の余白に、赤鉛筆で残された短いメモ。

〈映像差替の可能性。上に上げるべき〉

その字を書いた検察事務官は、すでに退職し、所在不明になっていた。逃げたのか、消されたのか、あるいは沈黙を選んだのか。わからない。だが国家とは、誰かひとりのためらいを、組織の慣性で踏み潰す仕組みにもなり得る。そして今、その仕組みのどこかが、毛むくじゃらの巨大な身体となって会議室を歩いている。

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