第3章 法廷
4日後、東京地裁の104号法廷で、公判中の検察官が突然うずくまった。担当していたのは別件の殺人事件だったが、彼は2年前、三枝事件の証拠整理に関わっていた男だった。法廷内の時計は午前10時17分を示していた。ちょうど、古賀検事正のゴリラ化を受けて、三枝事件の再検証会議が最高裁で始まった時刻である。
検察官は最初、息を整えようとするみたいに膝をついた。裁判長が声をかけ、書記官が立ち上がり、傍聴席がざわめく。その、すべてが遅かった。男の背中は一度大きく反り返り、法衣の肩が裂け、次の瞬間には法廷の床に四肢で着地した。木槌より先に、ドラミングの音が鳴り響いた。
人間が逃げ惑うときの音は、紙のように軽い。椅子の転倒、悲鳴、革靴、ヒール、ファイル。対してゴリラの足音は重く、建物の側が記憶する種類の音だった。被告人は証言台の手前で立ち尽くし、弁護人は本能的にかばうように前へ出たが、裁判長が先に叫んだ。
「全員、壁際へ!」
その命令が意味を持ったのは1秒ほどだった。ゴリラ化した検察官は、傍聴席のアクリル仕切りに自分の姿を映し、それを別の雄と誤認したらしく、全力で突進した。強化板は砕け、粉雪みたいな破片が光の中を飛んだ。警備員は拳銃を抜かなかった。いや、抜けなかった。目の前で暴れているのが、つい5分前まで「検事」と呼ばれていたことを、身体のどこかが忘れてくれなかったからだ。
この時代の法廷には、いつゴリラ化が起きてもいいように、床固定の家具と簡易遮蔽板が導入されていた。それでも足りなかった。制度は超常へ追いつけないし、追いつこうとする姿はだいたい滑稽で、そして手遅れである。
後に法廷映像を見た者たちは、誰もが同じ一点で息をのんだ。
暴れるゴリラの向こうで、裁判長が判決文の束を抱えたまま、一歩も動かなかったことだ。
彼女は後に証言した。「逃げたら、この法廷で失われるものが多すぎると思った」。だが本当は違うのだろう、と記者たちは書いた。彼女は、自分の膝が震えすぎて動かなかったのだ。国家の中枢で起きた変容を、ついに法廷の床が受け止めた。あの日から、裁判所に入る人々は、火災経路だけでなく『ゴリラ発生時避難経路』を確認するようになった。




