黄昏の逃走
「……死ぬ……死ぬかと、思った……ッ!」
学園の時計塔、その中層にあるテラスの石床に、レイモンドは這いつくばっていた。
先ほどまで彼らがいた三階のダクトは、今や遠く眼下にある。セオドリックが放った爆風と浮遊魔法の強引な組み合わせにより、二人は追っ手たちの頭上を飛び越え、この高所へと「着岸」したのだ。
セオドリックは、ダクトで付着した埃を優雅に払い落とし、満足げに声を上げる。
「楽しんでもらえたようで何よりだよ。君の心拍数は今、平常時の1.8倍だ。実にいい運動になっているね」
「楽しいわけあるかッ! 心臓が口から飛び出るかと思ったぞ!!」
「あははは! それだけ口が回るなら大丈夫そうだ。さあ、次はどこに逃げようか。追っ手が螺旋階段を登ってくる前に」
セオドリックはレイモンドの腕を強引に引き寄せ、走り出した
夕陽が学園の白亜の校舎を長く、赤い影で染め始めている。
「……待て、出口は反対側だ」
「出口は駄目だよ。剣道部の精鋭たちが『肉』の横断幕を掲げて待ち構えているからね」
「何? なぜ、そんなことが分かる」
「さっき上から見えたじゃないか」
「あの状況で見えたのか?」
「僕は目がいいんだよ。さあ、レイ、こっちだ。僕しか知らない、秘密の通路がある。そこを通って逃げよう」
レイモンドは躊躇ったが、背後から迫る「肉! 肉!」というプレッシャーに押され、駆け出した。
しかし、時計塔を出て約十分。レイモンドは困惑していた。
二人が今いるのは、旧校舎の三階にある、古文書の保管室だった。窓の外は断崖絶壁で、入り口以外に逃げ場はない。
「……おい、セオドリック。これは本当に『逃走』なのか? どう考えても、逃げるための経路ではないように思えるが」
だが、セオドリックは優雅に首を振る。
「心配はいらない。これはれっきとした『逃走』さ。……ああ、懐かしいね。ここは僕たちが、初めて共同で魔法言語の解読をした場所だ。あの時の君の集中力には、実に胸を打たれたよ」
「思い出話をしている場合か! この先は行き止まりだぞ!」
「ふふ、そうだね。じゃあ次は、僕たちが学園祭の準備で徹夜した第六実習棟へ行こうか」
「実習棟だと? だが、あそこは……」
「いいから」
背後に、生徒たちの怒号――「副会長を逃がすな!」「ステーキ!」というシュプレヒコール――が迫る。
そこから逃れるように、レイモンドはセオドリックに導かれるまま、渡り廊下を駆け抜け、中庭の噴水を飛び越えた。
セオドリックの魔法は、追っ手を傷つけることはなかった。だが、氷の床を作って滑らせ、あるいは突風を吹かせて女子たちのスカートを捲り上げ、時間を稼いでいく。
しかし、その後のセオドリックの、逃げ場のない場所ばかりを渡り歩く様子に、レイモンドは苛立ちを覚えていった。
「お前、さっきからふざけているのか! 行き止まりの場所ばかり選ぶとは、一体どういう了見だ!」
「行き止まり? ははっ、そんなことはないよ。僕の進む道は、最初からずっと隣にある」
「――は?」
(何だそれは。なぞかけか?)
レイモンドは更に文句を言おうとしたが、セオドリックのあまりにも眩しい笑顔に、何も言えなくなった。
制限時間が残り十分に迫ったとき、セオドリックはようやく足を止めた。そこは旧校舎の裏手にある、今は使われていない小さな温室だった。
「はぁ、はぁ……っ、もう、一歩も……動けん……」
限界を迎えたレイモンドが、温室の床に座り込む。
「……仕方ない、少し休憩にしようか」
セオドリックは、当たり前のようにレイモンドの隣に座った。
そして、抵抗する気力も失ったレイモンドの頭を、自らの膝の上へと有無を言わさず引き寄せる。
「……!? おい、何をする……」
「大人しくしていなよ。……あと少しだ。もう十分逃げ切れば、僕らの勝ち。……そうしたら、僕が君に『最高のご褒美』をあげるからね」
「褒美、だと?」
「そうだよ。だから、それまで休んでいたらいい」
その囁きは、甘い猛毒のようにレイモンドの脳を溶かした。
外では、生徒たちの探索魔法の光が、サーチライトのように温室の壁を撫でていく。
静寂と、喧騒。
(……すべては、この男のせいだと分かっているのに……なぜ……)
レイモンドの心臓の音と、セオドリックの膝から伝わる鼓動が、交じり合っていく。
意識が、微かな安らぎと共に微睡みへと沈みかけた――その時だ。
「――見つけたぞ! 旧温室だ! 副会長と会長が、二人でイチャついているぞ!!」
無粋な叫び声と共に温室のガラスが振動し、レイモンドが慌てて身を起こすと、温室が、肉に飢えた生徒たちに包囲されていた。




