飢えた群衆と逃亡者
「……正気か、あいつらは」
開始から十五分。レイモンドは、校舎三階の男子トイレの換気ダクトの中に身を潜め、通気口の隙間から覗く、眼下の光景に戦慄していた。
中庭を埋め尽くすのは、優雅な制服を翻して歩くエリート学生たちの姿ではない。
「肉だ……ワイバーンのステーキ肉はどこだ……!」
「副会長を見つけろ! 奴を捕まえれば、一ヶ月は食費が浮くぞ!」
「命令権よ! 私は副会長に、魔導倫理のレポートを書かせるんだから!」
血走った眼、振り回される杖。普段は高潔な理論を戦わせている魔導才媛たちが、今は一枚のステーキ肉のために、あるいは積もりに積もった課題の代行のために、獣のごとき咆哮を上げている。
「ミレイとリヴェールは案の定、開始五分で『捕獲』されているな。……あの薄情者ども、わざとらしい悲鳴を上げおって」
手元の魔導デバイスで状況を確認し、レイモンドは毒づいた。残る獲物は、自分とセオドリックの二人だけ。
レイモンドは自身の魔力波長を偽装するジャミング・コードを起動させ、暗いダクトの奥で息を潜める。このまま誰にも見つからなければ、勝利を手にできるはず。
しかし。
レイモンドの背後、閉ざされたダクトの先から、この世で最も不遜で優雅な声が響いた。
「おや、レイ。こんな埃っぽい場所に隠れるなんて、君の潔癖症も随分と改善されたようだね」
「!?」
心臓が跳ね上がった。振り返れば、セオドリックが一点の汚れもない笑顔で背後に迫っていた。それも――狭いダクトの中だから当然と言えば当然だが――匍匐前進のポーズで、である。
「……セオドリック! なぜここが分かった! 波長は偽装したはずだ!」
「残念ながら、僕の魔力は君の波長を『覚えている』んだ。磁石が鉄を引き寄せるようにね」
「――っ」
セオドリックは至近距離まで詰め寄ると、レイモンドの頬についた煤を、指先で愛おしげに拭う。
「それより見なよ。彼らは本気だ。君を捕まえて、その細い指にペンを持たせ、夜通しレポートを書かせる気満々だ。……そんなの、僕が許すと思うかい?」
「……お前が一番、俺に無理難題を命じているだろうが!」
その時、ダクトの外から凄まじい衝撃音が響いた。
『見つけたぞ! このダクトの中から副会長の匂いがする!』
『物理破壊魔法用意! 肉のためだ、校舎の修理費は後で考えろ!』
「……チッ、野蛮な肉食獣どもめ……!」
生徒たちの「食欲」は、いまや魔導騎士団の突撃にも匹敵する暴威だ。もはや、ここに留まるのは自殺行為。
「さあ、レイ。ここからは僕の独壇場だ」
セオドリックが、レイモンドの腰を強引に引き寄せた。
「僕と一緒に逃げよう。君をあんな連中に渡すくらいなら、僕が君を――地の果てまで連れて行ってあげるよ」
「離せ! 誰がお前なんかと! 俺は一人で逃げる!」
「照れなくていい。……さあ、心の準備はできたかい?」
「は? 何を――」
レイモンドが問うより早く、セオドリックが壁面に向けて高純度の魔力を叩きつけた。
爆風と共にダクトの壁が吹き飛び、二人の身体が夕空へと放り出される。
爆風の推進力を浮遊魔法で巧みに制御したセオドリックは、驚愕に目を見開くレイモンドを抱いたまま、黄金の放物線を描いて空中を爆速で滑走した。
レイモンドは「ひいぃっ」と情けない声を上げ、セオドリックにしがみつく。
「――おっ、お前! スピードを落とせ!! この速度で突っ込んだら即死だぞッ!!」
「ははははっ! 嫌だよ、レイ! こんなに楽しいのに!」
眼下を飛ぶように過ぎ去っていく校舎の屋根、豆粒のように小さくなっていく追っ手たちの叫び声。
そして、絶叫にも近いレイモンドの悲鳴を、セオドリックの高笑いが上書きしていった。




