リンゴのパイはいかが?
彼女は再び、にゃーんと可愛らしい声をあげました。まるで母猫か、恋人でも呼んでいるようです。
美しい彼女は爪をカチャカチャと鳴らしながら私の方へゆっくりと歩いてきます。
あ、あ、どうしよう!触れちゃうかも!
私は間抜けにもワクワクしていたのです。ワクワクしすぎてつい声を上げてしまいました。
目のない彼女はその音を敏感に聞き取り、私の方に飛びかかってきました。
前足から順番に床を蹴り飛躍する姿に惚れ惚れしてしまいます。でもここまでです。私は彼女に引き裂かれ、きっと食べられてしまうのです!あぁ、私がいけない子だったから。ごめんなさい、父さま母さま。
私はこの世に別れを告げて目を瞑ります。私のお役目は失敗です。
なんだか時がゆっくりに感じます。私はこの間にたくさんのことを思い出しました。今朝のベーグルはとっても美味しかったなーとか、買ったばかりのスケッチブックにもっと絵を描いてあげればよかったなーとか。
「…エニス…っ!!」
「えっ」
突然の声に目を開けます。目の前にはトムの背中がありました。トムは懸命にモップで彼女の鋭い爪を止めています。
いつまでたっても彼女が私に飛びつかないと思ったら、トムがここに戻ってくるだなんて!あの意気地なしのトムが!
「お祈りなんてやめて!はやく逃げてよエニス!もう僕の腕も、モップも限界だよ!」
「あ、う、うん!」
聞いたこともないトムの必死な声に私は急いで出口へ向かいます。こう見えても学校の女の子の中では2番目にかけっこが早いって、前も言ったかしら?出口に飛び込んだ私はすぐにトムの方を振り返ります。トムは逃げ出すタイミングがない様で、未だに彼女と押し相撲をしています。このままではそのうちトムの体力が切れて、ぱくっとされてしまうに違いありません。
なんとかしないと、今度は私がトムを助けなきゃいけないわっ!私の足元にはトムが使っていた掃除道具があります。私はバケツを勢いよく投げました。それはトムと彼女の頭上を越えて、後ろの床でガシャーン!と大きな音をあげました。彼女は大きな音に驚いて飛び跳ねながらトムから離れます。
「トム!走って!!」
トムはモップを捨てて急いで走ってきます。走ってるとは言っても私の半分くらいの速度です。ただでさえ遅いのに今はへとへとなのです。可哀想なトム。少しでも負担を減らすために私は手を伸ばし、トムを出口へ引っ張りました。彼女はトムを見失った様です。扉を閉めて、すぐにそこを離れました。
「エニス、怪我はない?どこかかじられなかったかい…?それにマスクはどこにやったんだい?はやく着けた方がいい…」
トムは汗でびしょびしょになった顔で私の体を観察します。変なトム。私よりトムの方が具合が悪そうなのに。
「私は大丈夫よ。あなたが来なかったら、今頃彼女に食べられていたわ。ありがとう」
「君がお礼を言うなんて珍しいな…彼女って、まさかあの怪物のこと?」
「そうよ。だって、たぶん女の子だもの」
やっと一息ついたところで、ごーんごーんと鐘がなりました。なんだか久しぶりに聞いた気がします。きっと私も緊張していたのでしょう。
「そうだ、ねえトム。焼いてきたパイ食べましょうよ。もうヘトヘトよ」
「え、あぁそうだねー。僕もお腹ぺこぺこだ」
トムは掃除用具と一緒に置いてあったカゴからお皿に乗ったパイとナイフ、取り分けるためのお皿2枚とフォーク2つを取り出します。パイはこんがりと焼けていてとってもいい色をしています。ナイフを入れるとサクサクと音がして、まるで焼きたてみたいです。私がパイを切り分けている間に、トムはポットの紅茶を入れてくれました。紅茶はまだうっすらと湯気がたっています。
先ほどまでの恐怖的な出来事が嘘の様です。まあ、私にとって彼女との出会いの全てをひどい思い出にはしたくなかったけれど、命が奪われかけたのですからどっちかといえば恐怖的な出来事と言えましょう。
私はすでに取ってしまっていたのですが、トムはマスクをしていたのでそれを外します。マスクを取ったトムはマスクの中の汗を服の裾でぬぐいました。白いお腹がちらりと見えたので、はしたないでしょと叱りましたがトムははいはいと返事をしただけです。
トムの母さまが作ったパイは外はサクサク中はトロトロで、月並みな表現ですが、ほっぺが落っこちそうなほど美味しかったので私はそれだけで幸せになってしまいました。トムの叔父さまの紅茶もいい香りがして、なんだか眠たくなってしまいます。
「美味しかったでしょう?ママのパイは」
トムはやっぱりいつものトムです。のほほーんとした笑顔は、私を安心させました。これも彼の長所かもしれません。
「うわ、パイ食べてる」
せっかくのんびりした空気が流れていたのに、再び緊急事態です。見たこともない男性が現れたのです。歳はパン屋のシェリーより少し上でしょうか。ちなみにシェリーは18なので、20歳くらいかしら?その男性はご飯でもおやつでも、プールの時間でもないのにマスクをしていません。それどころかどこにも持っていないようです。
私が呑気に彼を観察していると、トムがずいっと私の前に立ちました。その右手にはパイを切り分けたナイフが握られています。なんだか急に男らしくなったトムに、少しだけ、ほんの少しだけ、いえ、やっぱり別になんとも思っていません!
「あの、お兄さん。紅茶はいかがですか?すこしお話でもしましょう?」
「ちょっと、エニスそんな場合じゃないよっ」
これじゃあいつもと反対だわ。トムが焦って私がのんびりしている。お兄さんはちょっと驚いたように私たちを見ると、すぐぷっと吹き出しました。もしかしたら悪い人じゃないのかも。
「君たちは今年の掃除係だろう?よく来たね。大丈夫、この通り俺は武器なんてもってないよ。まるごしさ。」
お兄さんは両方の手のひらを見せて、次にポケットの中をひっくり返して見せました。ポケットからカランとネジが出た以外、特に何も入ってないようです。
「こんなところでパイを食べてるなんて、随分と度胸があるんだね。俺もご一緒していいかい?」
トムはまだお兄さんを信用できないようで、決して私の前から退きませんでした。でも私には分かるのです。このお兄さん、さっきの"彼女"と同じような匂いがする。きっとこの塔にずっと前からいるんだわ。
「ねえ、お兄さん。もしかして、扉の向こうの"彼女"とお知り合いではありませんか?」
お兄さんは一瞬目をおっきくして、すっと目を細めました。それは母さまがイタズラを見つけたときの反応に似ていました。怒られると身構える私に、母さまは決まって頭を優しく撫でてくれたものです。
お兄さんはそのまま床にあぐらをかいて座りました。そして少し悲しそうに、懐かしそうに言います。
「彼女は、俺の幼馴染だよ」




