21.凍てつく怒り
——怒りとは、燃え盛る炎のような感情だと思っていた
その炎は瞬間的に生じ、燃え盛り、やがて時間が経てば消えてしまう、そんなものだと。
だけど私の心の中では絶えず怒りが込み上げてくる。その怒りは時間が経てば消えてしまうなんて生易しいものではない。
この燃え盛る炎は誰かを——火をつけた本人を燃やし尽くさなければ一向に鎮まる気配がないのだ。
——こんなにも怒りで全身を支配されているのに、頭だけが凍てつくように冷えている
不思議だと思った。
ただ、そのお陰で、私はいつも以上に冷静に感情を抑え込むことができた。
屋敷は静まり返り、窓の外には深い闇を照らすかのように星が瞬いている。
コツコツコツ…と足音に合わせて、肩の上で揃えた亜麻色の髪が静かに揺れた。
——コハルはお人好しがすぎる
私がキーストン家で働き始めた頃からそうだった。
キーストン家で働き始めた頃、私の物怖じしない性格に加え、はっきり意見する姿が癪に障ったのだろう。可愛げがない、と先輩の使用人からの風当たりが強かった。
風当たりが強いだけでなく、わざと間違った仕事の手順を教えられ何も知らない使用人頭に怒られることもあった。
くだらないことをするのね、と思った。
キーストン家で働く人たちは皆優秀だと思っていたので、実際はこんな低俗なことをする人もいるんだなと拍子抜けしたものだ。
そんな思いを隠すつもりもなかったので、ますます先輩達から冷たく当たられるようになった。
当たりがきつくなるのは平気だったが、唯一困ったことは、嘘を教えられて仕事がなかなか覚えられないことだった。
ある時、両手いっぱいに大量の洗濯物持って先輩に指示された場所へ向かうと、そこには誰も何もなかった。またやられた、と思っているとコハルが走ってきた。
『洗濯物はこっちだって』
私も半分持つよ、そう言って一緒に洗濯物を運んでくれた。遅れて到着した私たちを、事情を知らない他の先輩がイライラしながら待っていた。
私が違う場所を教えられたと口を開きかけると、コハルが割り込んできた。
『す、すみません!キーストン家が広くて迷子になっていました』
先輩からは、屋敷の配置くらい早く覚えなさい、と小言を言われた。
『先輩に嘘を教えられて遅くなったのよ。私たちが…あなたが謝る必要はないわ』
コハルはキョトンとした後、気まずそうな表情を浮かべた。
『実はね、こっちよ、と言いながら本当に少し迷っちゃったの。だから、間違ったことを教えられたレイさんは謝らなくてもいいけど、本当に道を迷ってしまった私は謝った方がいいかなと思って』
イタズラがバレた子供のように苦笑いをしたコハルに対し、その時の私はため息を吐いただけだった。
同じ頃にキーストン家で働き始めたコハルは、この一件で馬鹿なお人好しという印象になった。
その後も私が何かと困っていると助けてくれたり、食堂で一人でご飯を食べていたら隣に座って話しかけてくれたりするようになった。
コハルは明るく素直で愛嬌がある。使用人の輪の中にも自然と溶け込んでいった。一方私はというと、輪の中に入ることなくいつも一人で、時々コハルと一緒に居るくらいだった。
ある時、使用人数人とコハルで、私の話をしているのが聞こえた。私の性格がキツいこと、見下しているような態度と言い方が嫌だという内容だった。
『コハルってなんであの子と仲良くしてるの?』
誰に何をどう言われてもいいと思っていた反面、コハルが一体どう返事をするのか、少し緊張して聞き耳を立てている自分がいた。
『うーん…レイさんは言い方は冷たいけど、案外優しいと思うけどなぁ。私が勝手にレイさんの隣に押しかけてご飯を食べているだけなのに、私がご飯を食べ終わるのを自然と待ってくれていたり、私が調子悪い時に掃除を変わってくれたりするし…それに同期だし、せっかくなら仲良くしたいじゃない?』
コハルの答えに他の使用人は不服そうだった。
『あのねぇ、同期と言っても友達じゃないんだから。仕事さえしていれば仲良くする必要ないんじゃない?怖い先輩にコハルまで目をつけられちゃうよ?』
私と一緒に居てはコハルに迷惑がかかると思った。
『…そうよ、たまたま働く時期が同じだっただけ。同期だから、なんて理由で仲良くする必要はないわ』
咄嗟に姿を現しそれだけ言ってその場を後にすると、後ろから、何あれ感じ悪い!コハル、大丈夫?という声が聞こえた。これでいいと思った。私と一緒に過ごすことでコハルまで嫌がらせの巻き添えにしたくなかった。
その日の夕方、使用人全員が食堂に集められた。アカツキ様の眠る別邸の担当者が辞めるという。黒魔術や呪いといった噂がある別邸を掃除するのは気味が悪く、限界だったらしい。
本来なら家令や使用人頭が適当な人材を決めて振り分けるものだが、別邸の担当はいまや慎重な扱いを要する役割になっていた。
希望者を募るも誰も手を挙げない。当たり前だ。変な噂のある気味の悪い場所へ好んで行く人はいない。
『レイならいいんじゃない?』
誰かが声を上げた。
『あの子、いつでも淡々としているもの。この間、黒魔術や呪いといった噂について鼻で笑ってたのを聞いたわ』
内心ため息を吐いた。確かに黒魔術や呪いは御伽話の世界の話だと思っている。だけど噂について鼻で笑ってもいないし、そもそも噂について誰かと話をしたことがない。話す人もいない。
それならば、と新しい別邸の担当者を私に任せようという雰囲気が生まれた。
押し付けられて別邸の担当になるのは癪だが、別邸の担当者は一人だけ。むしろ今より気楽に仕事ができるんじゃないか、そう思っていた時だ。
『あの、私を別邸担当にしていただけませんか?』
コハルが挙手をした。
『あなた、何を言っているの?』
思わず声に出してしまっていた。私に構わずコハルは家令に話し続ける。
『眠りについておられるとはいえ、天才魔術師とも言われるアカツキ様の近くで働ける機会なんて二度とないかもしれませんし』
『…待ちなさい、これは私に』
『それに私、魔力が少ないせいか、黒魔術とか呪いとか平気なんです』
そう言ってコハルはニコリと笑った。
黒魔術や呪いを気にしない、という言葉が決定打となりコハルはアカツキ様の別邸担当になった。
『あなた、私を庇ったつもり?私は平気だから、今からでも担当の交代を言いに行くわよ』
『庇ったつもりわないわ。だって希望制だったし、レイさんは手を挙げてないでしょ?それに私、本当に黒魔術とか平気なの』
『嘘おっしゃい!私こそ平気よ、私は代わってくれなんて頼んでないわ!』
『…私は、私のしたいようにしているだけよ』
『いい加減にして!仲間外れの憐れな同期を助けて自己満足に浸っているだけでしょう!』
周りの空気が一気に冷たくなる。
『っくしゅ!』
やってしまったと思った。普段は風の魔力しか使えないが、私は気持ちが昂ると無意識に冷気を放出してしまう。
原因は私に氷の精霊がついているかららしい。らしい、と言うのは、私には精霊が見えるほどの魔力を持っていないため実物を見たことがないからだ。
精霊が気に入った人間に自身の魔力を分け与えることがある。精霊に気に入られた人間を『精霊の愛子』と呼ばれることもあるらしいが、自分で制御することができない力は厄介なだけだった。
過ぎたる力は身を滅ぼす。
そう言われて育ち、小さい頃から不意に感情を昂らせないようにと、感情を押し殺す練習をさせられた。
お陰で感情の起伏は乏しくなり、可愛げがないとまで言われるようになったが、精霊の魔力を暴発させることはなくなった。
キーストン家で働く際も精霊のことは言わなかった。使えない力は持っていないに等しいと思ったからだ。
それなのに、久しぶりに精霊の魔力を暴発させてしまうほど、私はコハルの行動に憤っていた。
『…いい気になってない。ただ、あんなやり方で別邸の担当を押し付けられるが見てられなかったの…』
だって、とコハルは声を落とした。
『レイさん、泣きそうな顔をしてたから…』
また一段と空気が冷えた。コハルがくしゃみをした。私は俯いて唇を噛むことしかできなかった。
私は自分の馬鹿さ加減が身に染みて嫌になった。結局コハルを巻き込んでしまった。嫌な態度を取る私にさえ優しい、お人好しのコハルを。
感情の起伏を少なくしなければならないにせよ、もっと周りとうまく溶け込めるようやりようはいくらでもあったはずだ。
私は唇を噛み、手を硬く握り込んだ。涙がでないよう堪えていたので、きっとコハルを睨みつけている表情だったと思う。
『下手な笑顔ね、怖いの、バレバレなのよ…コハル』
ごめんなさい、もありがとうも言えなかった。
ただ、コハルに迷惑をかけることなくコハルと一緒に居たいと思った。苦手な先輩にも下手に出ずとも歩み寄る努力をした。
始めは態度の変化に気味悪がられていたが、コハルが傍にいて助け舟を出してくれるお陰で嫌がらせは減り、だんだん使用人の輪の中に入ることができた。
コハルはお人好しだ。
明るくて素直で愛嬌があって、のんびりしてるかと思いきや予想外の行動をしたり、しっかりしてるのかと思ったらうっかりしていたり。
私が精霊につかれていることを気づいてないみたいだけど——もしかしたら気づいてるかもしれないけれど、何も聞かないでいてくれる、優しい人。
——こんなに優しい人が、どうして理不尽な目に遭わないといけないのか
ベッドに横たわるコハルの姿は痛々しいものだった。全身の至る所に当て布をされ、手首と足首には包帯がしっかりと巻かれていた。言葉を失い、怒りに震えた。
その時、ブルっと体を震わせてコハルが目覚めた。
『…ふふふ、寒いなって起きたら、レイがいた』
そう言って柔らかく微笑んだ。
コハルの声を聞いたら次から次へと涙が溢れた。私はベッドの側に膝をつき、コハルの服をそっと掴んだ。生きていて良かった——そう伝えようとしても嗚咽で言葉にならなかった。
『レイ、大丈夫だから。私は大丈夫——』
コハルが服を掴んでいた私の手を優しく握った。そして上半身を傾けて内緒話をするような仕草でこう言った。
『大袈裟に治療されてるけど、実は痛みはあんまりないの』
そう言ってまた笑顔を見せた。
私はコハルの怪我が治るまで、コハルの身の周りの世話をするよう言い渡された。コハルと親しい人の方が良いだろうとの判断らしい。
コハルは昼間は気丈に振る舞っていたが、夜になるとうなされる姿もあった。傍に駆け寄ると、震えて目に涙を溜めていた。
『…大丈夫、心配かけてごめんね、レイ』
そう言って遠慮がちな笑みを浮かべた。
少しくらい愚痴を言ってもいいのに。少しくらい弱音を吐いてくれてもいいのに。
——少しくらい頼ってくれてもいいのに
くすんだ深緑色の絨毯が敷かれた階段を静かに登る。絨毯の毛足に残る足跡の上に、薄く白い結晶が月明かりに照らされチラチラ光る。
——コハルが一体何をしたっていうの
手に持つ水差しの水面に、パリパリと音を立てて薄い氷が張り始めた。
——ただ、真面目に仕事をしていただけなのに
窓の前を通り過ぎると、窓硝子一面に白い氷の結晶が広がる。
——勝手にコハルを巻き込んで、挙句の果てにこの仕打ちとは
そして急激な温度差に耐えきれず、窓硝子にピシピシ細かな亀裂が走った。
——許さない
パリンッと後ろで窓硝子が割れる音がした。そして、他の扉とは違う豪奢な造りの扉を前に、凍てつくような眼差しを向けた。




