第十話「本能寺」
報せは、あまりにも唐突だった。
本能寺の変。
その一言で、空気が止まる。
誰も動かない。
誰も言葉を出さない。
ただ、“何かが終わった”という感覚だけが、そこにあった。
「……真か」
低く、誰かが問う。
だが、その問いに明確に答えられる者はいない。
情報は断片的で、確かなものは何一つない。
だが――
分かっていることが一つある。
主が討たれた。
それが事実ならば。
この瞬間、すべてが敵になる。
沈黙が続く。
重い。
息が詰まるような静けさだった。
視線が、一人の男へと集まる。
徳川家康。
その男は、動かない。
顔も変えない。
だが、その内側では、確実に何かが動いていた。
(遅れれば、死ぬ)
その判断だけは、迷いなく下されていた。
状況は最悪だった。
ここは敵地に近い。
味方は少ない。
誰が敵に回るかも分からない。
そして――
守るべきものが、多すぎる。
「……戻る」
家康は、静かに言った。
大きな声ではない。
だが、その一言で、空気が変わる。
ざわめきが広がる。
「戻る、とは……」
「三河へだ」
短く答える。
当然の帰結だった。
だが――
その道が問題だった。
「道は……」
誰かが口にする。
安全な道はない。
どこを通っても、危険がある。
敵に見つかれば、終わりだ。
しばしの沈黙。
考える時間は、ほとんどない。
だが――
家康は、迷わない。
「伊賀を通る」
その一言が落ちた瞬間、空気が凍る。
伊賀。
山深く、道は険しい。
そして何より――
誰が潜んでいるか分からない土地。
落ち武者狩り。
地侍。
あるいは、すでに敵に通じた者たち。
すべてが敵になる可能性があった。
「危険すぎます」
声が上がる。
当然の反応だった。
だが、家康は首を振る。
「他に道はない」
それが結論だった。
安全な道など、最初から存在しない。
ならば――
最も読まれない道を選ぶ。
それだけだった。
「急ぐぞ」
短く言う。
その声に、迷いはない。
動く。
全員が、一斉に動き出す。
準備など整っていない。
だが、止まれば終わる。
誰もが分かっていた。
これは、戦ではない。
だが――
戦以上に過酷なものになる。
生きるための行動。
ただそれだけが、すべてになる。
外へ出る。
空は、変わらない。
だが、世界は変わっていた。
どこに敵がいるか分からない。
誰が味方かも分からない。
その中を、進む。
家康は振り返らない。
見るべきは、前だけだった。
(待つだけでは、足りない)
かつて学んだこと。
それは今も正しい。
だが――
それだけでは、生き残れない。
動く。
だが、崩さない。
その選択が、今ここで試される。
伊賀への道。
それは、生と死の境界だった。
一歩でも誤れば、終わる。
だが――
進むしかない。
この夜。
すべてが、変わる。
そして――
この夜のすべてを、知る者は。
まだ、誰もいない。




