巣立ちを待つ翼
ルシアンが見ていたのは一枚の張り紙だった。どこかに貼り付けられていたものを剥がしたのだろう、少し黄ばんだ紙の四隅が欠けている。帝国の紋章が透かしで入っているのが見て取れた。逃亡中のマグノリア王家の二人の子供について、捕縛する必要はなく、帝国民と同等の権利を認めると書かれている。意図して害したものには罰を与えるとまであり、その下に二人の情報が記されていた。
「なにか気になることでもありましたか?」
クラリスが声を掛けると、ルシアンは首を振った。
「いや、なんでもないよ。集中していたから少し疲れたみたいだ。上に戻って休憩しようか」
ルシアンはそう言って一人で書庫を出ていく。クラリスを一瞥もしない余裕の無い振る舞いは明らかに不自然で、何かを誤魔化しているようだったが、それを追求できるほどまだ二人は親しくない。クラリスは黙ってその後に続いた。
地下から出て、クラリスは身体が冷え切っていたことに気づく。次からはもっと暖かい格好をして行く必要があるだろう。
「温かいものを淹れて貰おう。座って待っていて」
クラリスが暖まろうと腕をさすったことに気づき、ルシアンが使用人に指示を出す。クラリスはソファに向かおうとして、その場で立ち尽くした。先客がいたからだ。長い脚を組んでソファに座っていた男はクラリスをちらりと見たが、それ以上の反応はせず手元の紙に視線を戻した。
「どうしてここに?」
応接スペースでくつろいでいたのは皇帝だった。クラリスを捕らえ、この塔に閉じ込めている張本人である。
「ジェラルド、来てたのなら呼んでくれればよかったのに」
戻ってきたルシアンが皇帝に声をかけた。この国の最高権力者に対して、あまりにも気安い応対だった。やはり二人は親しいらしい。
「急ぐ用でもない。ルシアン、クラリス王女の様子はどうだ」
「本人に聞きなよ。目の前に居るんだからさ」
対する皇帝の方もルシアンに向ける口調は柔らかく、昨夜クラリスを詰問した厳しさとはかけ離れた様子だ。
「ほら、座って」
ルシアンに促され、クラリスは皇帝の向かいのソファに座った。ルシアンはクラリスの隣りに腰を下ろす。こうして相対すると二人の印象の違いが際立つ。皇帝ジェラルドは闇を写したような黒髪にアンバーの瞳が月のようで、冷たい冬の夜を思わせ、笑っていてもどこか硬質なものを感じさせる。ルシアンは柔らかな金髪に明るいエメラルドの瞳、黙っていてもその口元は微笑みをたたえ、優しい春風を思い起こさせる佇まいである。しかし一見対極にいるようでいて、二人は根底に何か似通ったものがあるのではないかとクラリスは直感した。
クラリスは渡されたカップを両手で包み込んで、ほっと息をつく。皇帝と向き合うことには緊張感が拭えないが、ルシアンが隣りに座っていることで勇気づけられる。
「あの、マリウスたちはどうしていますか」
思っていたよりもしっかりとした声が出て密かに安堵する。刹那、クラリスの問いかけに反応した皇帝と視線が合った。クラリスはその瞳に吸い込まれそうな引力を感じて息を呑む。
「聞きたいことは聞いて、答えるべきことは答えた。この後どうするかは彼ら次第だ」
皇帝は視線をそらし、つまらなさそうに答えた。尋問の内容には全く触れておらず、皇帝はクラリスが何も知らないことを理解していてそのように言ったのだ、とクラリスにもわかってしまった。皇帝はマリウスたちの今後は彼ら次第だと言ったが、今のクラリスでは彼らの選択に関わらせてもらえるのかすら怪しい。クラリスは自分の不甲斐なさに耐え難く、俯いて両手を固く握った。ルシアンが慰めるようにその手を上から軽く叩く。
「ルシアン、そんなに彼女が気に入ったのか? 随分親切じゃないか」
揶揄する皇帝の口調は楽しげだが、クラリスはその中に僅かな苛立ちが混じっているのを感じ取った。
「僕はジェラルドみたいに過保護じゃないもの」
それはルシアンも同様、いや彼はもっと正確に皇帝の機微を読み取ったことだろう。二人の応酬はにわかに張り詰めた気配を帯びる。
「だから地下書庫に彼女を入れたのか」
「そうだよ。クラリス殿下には知るべきことがある」
二人はクラリスを脇に睨み合った。
「知らなくていいこともある。とくに――もう起きてしまって、どうにもならないことはな。知ることは時にしがらみや足かせになる」
「それはあなたの勝手な意見だ。彼女だって関係者だろ」
ルシアンの声が鋭くなる。穏やかな彼らしくない言動にクラリスは身を固くしたが、皇帝は動じなかった。
「知りたいのは彼女か? お前なんじゃないのか?」
冷徹とさえ思える落ち着いた声音が響く。その言葉にルシアンは息を呑んだ。それは彼自身が自覚していなかった真実を言い当てられてしまったように見えた。
きっとルシアンも真実を知らずにいて後悔した経験があるのだ。だからここまで親身になってクラリスを助けてくれるのだろう。
「陛下。私が知りたいんです。私がマリウスたちと離れてここにいるのは、私が何も知らなかったから。知ろうとしなかった。だけど知らないままではそばにいることすら選べない」
声を上げたクラリスに皇帝は目を細めた。彼の眼差しは、獲物を見定める獣のように静謐で、逃げ場がない。その視線をクラリスは正面から受け止めた。緊張に喉がひりつく。
しばらくの沈黙の後、皇帝はちらりとルシアンを見た。ルシアンもまたまっすぐに皇帝を見返す。
「そこまで言うのなら、好きにすればいい。クラリス殿下にはまだしばらくここにいてもらうことになるからな」
皇帝は呆れたように言うが、その声はどこか面白がる色を隠そうともしていなかった。




