芝居
「人が多いですね……」
江戸の町中を統一郎と共に歩く小春は、行き交う人々の活気に元気づけられながらも、あまりの人の多さに戸惑っている。
「はぐれるといけないので手を握りましょう」
統一郎がさもそうすることが当然だというように、手を差し出す。
小春は若干の躊躇いを見せつつも「はぐれるといけない」という意見をもっともだと思い、おずおずと差し出された手を握った。
男女が町中で手を繋ぐなんてことはそこそこ恥ずかしくて破廉恥な行いだと世間では思われている。しかし、統一郎は周りの目など気にしない。
小春も小春で世間の常識に疎いので、こうして手を繋いで歩いていても、ちょっと照れるな、程度の認識である。
まあ、江戸ほどの都会であれば"例外"もそれなりの数存在するので、それほど白い目で見てくる人もいない。
いつの時代も路上でチューするカップルが絶滅することはない。
男の人と手を握るなんて家族以外では初めてだ……小春は思わず片方の手を頬に当てて、熱を冷ますようにペチペチと指で叩く。
しかし、統一郎に手を引かれて江戸の町を進むうちに、小春は既視感を覚え始めていた。
私は遠い昔に、誰かとこうして手を繋いで町中を歩いたことがある——。
どうもそんな気がしてきた。ただちょっと違うような……。
そうだ。私が誰かの手を引いて先を進んでいたんだ。迷いのない足取りですいすいと。
誰だった? あの時私と手を繋いでいたのは——。
「着きましたよ」
統一郎の声に、小春の意識は現実へと引き戻される。
小春は目の前の建物を見上げて、目を丸くする。
「ここって……」
「今日はまず芝居を見物しようと思います」
立派な顔をして佇んでいるのは、三階建ての芝居小屋だ。
芝居見物は昔両親に連れられて行ったことがある。
演目が始まると瞬く間に芝居に夢中になった子ども時代を思い出して、懐かしく思うと同時に、もうこの世にいない両親を思って切ない気持ちになった。
そうして幕が上がった。
***
「行ってきます」
そう言って妻に微笑むと、妻も仕事に向かう夫に笑みを返す。
「今日は結婚してちょうど三年目だから、早く帰ってお祝いしようね」
「ええ。楽しみに待っているわ」
どこにでもいる夫婦の微笑ましい日常。
しかし、そんな日常はなんの前触れもなしに壊れる。
夫を見送った後、家で針仕事をしている妻のもとに、頭から角を生やした男が押し入ってきた。
「あなた……手配書で見た顔……!」
狭い家の中を動き回る女の姿を見て、殺人鬼は歪んだ笑みを浮かべる。実に楽しげに。
殺人鬼は妻に襲いかかり、叫び声がうるさいからと扼殺した。
その後、家中を荒らして金品を探し回る。
「ふぅん……これは金になりそうだな」
殺人鬼は箪笥の奥に大切にしまってあった、結婚して一年目の記念日に夫が少ない給料を貯めて妻にプレゼントしたかんざしを見つける。
殺人鬼はそれを懐に入れて、その他現金などを奪い取った末に家を後にした。
それから間もなく、夫が帰ってきた。
妻の変わり果てた姿を目にした夫は、冷たくなった愛しい人の体を抱きしめて、慟哭する。
「許せない……! この恨み、晴らさずにいられるものか……! 絶対に仇をとってやる……!」
妻を殺したのが殺人鬼だとわかった彼は、その瞳に復讐の炎を燃やす。
それから五十年の月日が経った。
彼は老人になっていた。一度も再婚することなく、ひたすら妻を殺した殺人鬼に復讐することを考えて、一人きりで暮らしてきた。
殺人鬼を殺すためだけに剣術を磨く毎日だった。血反吐を吐くような悲壮な生き方だった。
そんな苦労の果てに、とうとう彼は仇である殺人鬼の住処を突き止める。
単身その場所に乗り込んで、五十年前の恨みを口上に乗せながら刀を振り回す姿は、正義のヒーローのごとく格好良く映った。
凄まじい剣技だが、殺人鬼の方がリードしている。人間と鬼の力の差はなかなか埋め難かった。
「人間風情がいくら努力しても無駄だ。せっかく五十年間頑張ってきたのに残念だったな」
「グッ……!」
心が折れそうになる。
もういい。もう逃げてしまおうか。仇討ちなんて諦めてしまおうか。——そう思った時だった。
鬼の懐から古いかんざしが落ちた。
遠い昔、妻にあげたものだと気づく。
その瞬間、奪われてしまった妻への愛情と強い復讐心が再度燃え上がる。
「お前みたいなやつが存在していいわけがないんだ!」
そう叫んだ彼の一閃が、殺人鬼の体を裂いた。
「ぐあああ!!!」
断末魔の叫びが響き、巨体が後ろへ倒れていく。
「はーっ……! はーっ……!」
仇討ちを達成した男は、心臓に手を当てて荒い呼吸を整える。
ふと、彼の視線が正面——"観客側"に向いた。
「俺は……やったぞ。やり遂げたぞ」
彼の目に見えているのは何なのだろう。
人々の営みを見守る神か。理不尽に殺された妻か。はたまた何も見てなどいないか。
あるいは、彼の目に見えているのは過去や未来にいる全ての人間なのかもしれない。
しかし、視線だけは観客を見ていた。観客に視線を向けたまま、彼は言う。
「俺は勝ったんだ……鬼畜な殺人鬼に。悪に勝ったんだ」
正しいことをした時に浮かべる誇らしげな笑みを、彼はゆっくりと首を動かして観客たちに見せる。すべての観客たちに見せるように。
観客たちから、自然と拍手があがった。
復讐の完遂と同時に大義を果たしてみせた彼に、惜しみない拍手を送る多くの人たち。彼が殺人鬼という悪を討ち取ったことで世の中が一つ良くなった。
これぞまさに勧善懲悪だ。善が栄え悪が滅びる。
正当な怒りのもとに殺された敵役は、舞台の上で死体をさらす。
拍手はいつまでも鳴り止まなかった。




