第187話 新たな闇の幕
八王子市の一角にある一軒家。
和風の門扉には「井口」と刻まれた表札が掲げられている。
瀧生は外門を開け、ゆっくりと敷地内へ足を踏み入れた。
玄関の鍵を開けて中へ入り、靴を脱いで棚へ収める。
廊下は真っ暗だった。
その奥の部屋から、かすかな灯りが床へと漏れている。
――カリ、カリ……
静まり返った家の中に、削る音だけが響き、廊下を伝ってくる。
藍染の作務衣をまとった男が、作業台に向かっていた。
髪はほとんど白く、人中と顎に無造作な髭を蓄えている。
彼が彫っているのは――等身大ほどの人魚像。
卵型の美しい顔立ち。
肩から胴へと続く滑らかな曲線は、まるで本物の肌のような質感を帯びている。
髪や鱗に至るまで、狂気的なほど精緻に彫り込まれていた。
瀧生は、その背中に声をかける。
「ただいま、親父」
男は振り向かない。
彫刻刀を動かし続けたまま、短く応じる。
「……おう」
「先に風呂、入ってくる」
返事はない。
わずかに首が動いただけだった。
瀧生は肩をすくめる。
(……いつも通りか)
そのまま自室へ戻り、ベッドに腰を下ろした。
深く息を吐く。
「……今日は、二件しか上げられなかったか」
苛立ちが滲む。ディバイスを操作し、未解決案件の情報を検索する。
「締切まで、あと五日……実績、あと十五件――」
舌打ちが漏れる。
「くそ……夏休みで暇な異能者が増えたせいで、案件が全部持っていかれる……」
右足が無意識に揺れる。
焦りが募る。
その時、通信音が鳴った。
《MASTER Q》
表示を見た瞬間、瀧生の背筋が強張る。
すぐに通話を接続した。
ノイズのない、無機質な声が響く。
「……元気にしているか?」
瀧生は姿勢を正し、応じる。
「はい……ご無沙汰しております、マスターQ様。締切は五日後だ。今期の実績数が足りていないな」
淡々とした声。
だが、その一言一言が圧力となってのしかかる。
「体調でも崩したか?」
「いえ……問題ありません」
「そうか」
間を置いて、続く。
「お前の腕なら、毎月に九十件は不可能ではないはずだ。怠けたか?」
「……違います」
「ならば証明しろ」
声がわずかに低くなる。
「君の命を救い上げた代償として」
マスターQの声は、抑揚がないまま淡々と続く。
「君の異能で社会の平和を守るために使うものだ。自らの生命の価値を見出せなければ――」
わずかに間が空いた。
「救い上げた意味がなくなるよ」
瀧生は、わずかに息を詰めながら応じる。
「……分かっています。しかし、先日のレナタの件での協力、そして日野陽太の情報提供は……功績として認められませんか?」
「――あの少年は選んだ道を違えた」
即答だった。
「UCBDの駒として使われるなら、どれほど稀有な才能を持とうと価値はない」
淡々と続ける。
「ただし、レナタ討伐に関する情報は有効だった。その点は評価する」
一拍。
「だが、決定打を与えたのはお前ではない。あの件が解決したが方は日野陽太だった。その一連関与として、三件分を認めよう」
冷たく言い放つ。
「それでも――実績は足りていない」
瀧生の喉がわずかに鳴る。
「……分かっています。ですが……この時期は案件が他の異能者に奪われてしまい、介入できる案件が少ない……」
「手が鈍ったか?」
静かな一言だった。だが、その圧は重い。
「ならば、人の倍は働け。お前の底力は、その程度ではないはずだ。残り五日、条件を満たせなければ、ペナルティを科す」
瀧生は歯を食いしばる。
「……必ず達成します」
「そうか、武運を祈る」
通信が切れた。
その瞬間――
頭痛が襲う。瀧生の視界が歪み、像が二重、三重に重なる。
「……くそ……っ」
右手で額を押さえ、首を強く振る。
やがて残像は消えたが、鈍い痛みだけが残る。
「また……発症か……」
瀧生は冷蔵庫から炭酸飲料を取り出した。
氷を入れたグラスに注ぐ。
メロン色の液体の中で、細かな泡が光を受けて煌めく。
一口を飲む。
グラスを机に置き、ジュースに意識を集中させる。
液体がわずかに持ち上がる。
五本の細い水流が、一本にまとまろうとする。
だが――
形を保てない、揺れ、崩れ、元のグラスへと戻った。
「……ダメだ、これじゃ戦えない……」
事務椅子を掛け、机のパソコンでネットで検索を続ける。
ネットで異能者の持病、あるいは体調異常の治療法を検索する。
だが表示されるのは、ほとんどが
異能者専門クリニックでの相談、
あるいは特殊検査プログラムの受診案内ばかりだった。
治療費はケースによって異なり、自費負担となる可能性が高い。
異能医学はまだ発展途上だ。
異能者ごとに身体構造や能力特性が異なるため、
統一された治療基準を確立するのは困難だと言われている。
治療法も千差万別。
完治する保証はなく、回復までにどれほど時間がかかるかも不明。
さらに、料金体系も明確ではない。
“特殊医療行為”扱いとなるため、
高額になるケースも少なくない。
──金も時間も、余裕はない。
瀧生は画面を睨みながら、舌打ちした。
正規ルートでは間に合わない。
だからこそ、
彼は即効性のある“裏の方法”を探し始める。
スクロールを繰り返す中、
ひとつのリンクが視界に引っかかった。
――力が欲しいか?
足りない力を補いたいか?
誰にも言えない不調を抱えていないか?
ある“方法”で、すべてが解決する。試してみないか?――
怪しさはある。
だが、今の彼にとっては魅力的すぎる文句だった。
クリックする。
画面は黒を基調としたデザイン。
深緑の植物モチーフが浮かび、
どこか神秘的で洗練された印象を与える。
異能を強化したいか?
眠っている才能を目覚めさせたいか?
失われた力を取り戻したいか?
一般医療では治らない不調に悩んでいないか?
“種――ポッジ”が、その可能性を開く。
医療費は不要。
1000ND(約一万円)+送料のみ。
ただし――
効果は体質によって異なる。
リスクはゼロではない。
発生する代償は使用者本人が負う。
弊社は一切の責任を負わない。
他者への使用は禁止。
本人のみ有効。
販売元:青いルーレット社
その名は、異能者界隈では知らぬ者のいない商社だった。
武具、機器、健康食品、異能サポート用品──
あらゆる分野を網羅する巨大企業。
信憑性は、ある。
瀧生はしばらく画面を見つめ続けた。
リスク。
代償。
責任は自己負担。
だが、選択肢は他にない。
──一か八かだ。
彼は購入ページを開き、身長、体重、健康状態、異能ランク、既往歴まで
すべて正確に入力していく。
最後に確認画面が表示される。
しばらく指が止まった。
だが、躊躇は、ほんの数秒。
「……やるしかない」
購入ボタンを押す。
注文コードが表示され、“手続き完了”の文字が浮かび上がった。
静まり返った部屋の中で、画面の光だけが、彼の顔を照らしていた。




