#02-02 一抹の不安【SIDE:三島由里子】
音楽室でのウォーミングアップ及びロングトーンが終わると、三島由里子はベークラ(B♭CL)とバスクラ(Bass.Cl)を手に教室へと向かう。
移動中も、時間は無駄には出来ないので、歌合奏をする。何事かと見てくる好奇の目線も、慣れた。――『アイネクライネナハトムジーク』。モーツァルトが31歳のときに作曲したこの曲は、バーカバーカエヘン虫。のど薬のCMで歌詞をつけて歌われており、また、『マリオブラザーズ』の起動時に立ち上がる音楽としても有名である。
パートごとに割り当てられた教室に入り、一旦楽器を置き、机や椅子を移動させ、譜面台もろもろをセットすると、個人練習の始まり。三十分程度。この間、三島由里子は、指慣らしのために『あるフレーズ』を練習するようにしているのだが、当初は、驚かれた。玉城マイクのみならず一つ上の先輩、はっちゃん先輩や深キョー先輩たちにも。――なにそれ。
『『ダフクロ』の鬼の七連符に『シンフォニー・ポエム』の六連符ぅ? ちょっとゆりっぺあんた』
ずい、とはっちゃん先輩は顔を近づけ、
『『下手下手詐欺』やないけあんた。ふっつーに上手いやん。なんやのあんた、そのフィンガリングテクの持ち主で……』
あっもー! と頭を抱えたそのときのはっちゃん先輩の様子を思い返すだけで、三島由里子の口許に笑みがこぼれてしまう。
現在、来年三月の定期演奏会で十二曲も演奏するゆえ、そちらも見越した練習が必要なのだが……特に、玉城マイク。二ヶ月で十二曲とは流石に無茶である。ゆえに、合間合間で彼はそっちの練習もしているのだが――
いま、吹奏楽部部員が最も力を入れているのは、『アンサンブルコンテスト』の準備。来たる一月に行われる大会である。編成は、木管楽器なら楽器ごとにアンサンブルを組む場合が多い。フルート。クラリネット。サックス。……クラリネットは現在五名ゆえ、クラリネット五重奏で出場予定である。
一方。
金管楽器は、『組み合わせた』金管六重奏と八重奏で出場予定である。どういうわけだか、金管楽器の場合は楽器単体のアンサンブルが存在しない。
パーカッションはパーカッションのみ。彼らはいつも音楽室で練習している。
以上が緑高吹奏楽部の状況であり、クラリネットのアンサンブルといえば、バスクラが一本入るのが主流である。エスクラが入る場合もある。緑高吹奏楽部では、バスクラ専門の部員が居ないゆえ、ベークラ担当の誰かが必ず受け持つこととなるのだが……今回は、三島由里子が、志願した。
消去法でもそうなっていた。深見恭子は、高音を綺麗に出せるので、エスクラ向きであり、葉月明日佳は、低音が上手いので、先輩としてどっしり4th辺りで支えるべし。
夕向京歌は、中音を得意としている。よって2nd辺り。
玉城マイクは、初心者ゆえ、1stや4thを避けるべきである。
三島由里子は、バスクラの演奏経験が、無い。だが、長い人生、経験しておいて損なことなど、なにひとつとて、無い。ゆえに、一通り、ベークラで基礎練習やパッセージを吹き終えた彼女は、バスクラに持ち替える。イメージするのは、深キョー先輩の奏でる、軽やかなメロディ。
頭のなかにあの旋律を再生させ。自分は『引き立てる』側に徹す。これが、いつもの、彼女の、音楽に対するアプローチ法である。
『万年3rd』の名は、伊達では無い。3rdは辛いのだ。1st辺りがピーヒャラ楽しい主旋律を奏でているさなか、懸命に自分を追い込む。八分音符やら四分音符やら出しにくい音やらなかには十六連符も。なんでこんな難しいことやらされんだ。誰だって目立ちたいのが本音。吹けるものならメロディを吹きたい。
……が。
三島由里子が、緑川高校吹奏楽部に入部して気づいたことがひとつ。
ときどき深キョー先輩が、廊下や屋上に姿を消す。その姿を不思議に思った三島由里子がはっちゃん先輩に訊いてみたところ、……思いのほか先輩は暗い顔をして、
「『苦しんどるんよ。あの子も』……みぃんなみんな。あの子なら出来る』と期待するやろ。難曲であっても。どんなに――難しいフレーズであっても」
期待される側には応える義務が、確かに、ある。が、それは、三島由里子の、想像をはるかに超えた世界であった。
この部活に入ると、先ずは、みんな、全員で吹くロングトーンが『一本の音』に聞こえるように、感覚を研ぎ澄ませ、ピッチを整え、腹筋を呼吸をコントロールし、調律する。なお、吹奏楽部は平日以外は体操服で登校し、筋トレをしている。
そのうえで、クラシック曲を念入りに練習する。恭ちゃん先生曰く「弱奏が出来なきゃ駄目だ」とのこと。「自分と同じ音を吹いているお友達を探して、その音と一本に聞こえるようにすること」――これが吹奏楽の基本。ハーモナイズは、それからの話だ。
そして、メロディを吹けるのは『選ばれたひとたち』。特にチューバやホルンなど、様々な音楽の支えあって、初めて成立する。……仮に、行進曲をホルン抜きで吹いてみたら、どれだけ間が抜けて聞こえることか。ホルンの偉大さが身に染みて分かることであろう。
ゆえに。
1stを吹く者は並々ならぬ責務を背負っている。絶対に失敗してはならない。華やかにフレーズを吹きこなすうえで、更に、伴奏を聞いて、正確精密にコントロールせねばならない。その難しさといったら。……
みんなが『揃う』こと。アンサンブルコンテストでは、これが出来ているか否かが、残酷なほどに暴かれる。……
ちらり。
楽譜をめくり、はっちゃん先輩を挟んで隣の玉城マイクに目をやる。銀髪が目に眩しい。きらめく頭髪を持つ彼は、まだ、『理解していない』。おそらく、三島由里子の見立てが正しければ、自分の音がどんな意味を持っていて、『本番』には、なにが起こりうるかということを……。
華麗なる舞台に潜む、魔物というやつの正体。……
三島由里子は、自分の音に集中した。それは、誰かが事前に説明してどうにかなるたぐいのものではない。舞台に立って初めて分かる――そういうことが、あるというものだ。残念ながら。
今月は畑中高校の定期演奏会があり、交流を持つ緑高は互いにゲスト出演する間柄だが。玉城マイクは、アンサンブルコンテストと緑高の定演を優先するゆえ、不出場。このことが、どんな余波をもたらすのか、薄々皆が認識していたが……他方、部員のあいだには、『マイたまなら平気やわいね』という、暗黙の了解も生成されていた。入部二週間で皆の前であれほど堂々と歌い上げたのだから。
だが、『歌』と『吹奏楽』は、違う。
「はい、合わすよー」
はっちゃん先輩の掛け声でいよいよ合奏開始。『この意味』を知る三島由里子は、ひたすらに練習した。皆の音を聞き、玉城マイクが無事に本番を終えられるだろうことを祈りながら。……しかしながら。 他人の与えうる『評価』というものは常に、残酷なものである。
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