#02-04 メゲるなよ、少年【SIDE:葉月明日佳】
葉月明日佳が佐藤恭吾先生に呼び出されたのは、不出来な結果に終わったアンサンブルコンテストの翌々日であった。「――これな。昨日、渡されてもうてなぁ……」
――退部届。
ドラマで見る退職届みたいに、封筒の表にでかでかと書かれている。字は綺麗なほうではないみたいだ。
「どう思う?」と、葉月明日佳の顔色を窺う恭ちゃん先生。「本人の意志が固いんならどうにもならんと思うけど……」
「『許さん』」
きっぱり、はっちゃん先輩は言い切る。玉城マイクの先輩として。あいつ……。昨日、部活サボったと思うたら……退部届ぇ?
「誰が、認めるか!」と、玉城マイクの、入部してからの努力を知るはっちゃん先輩は声を荒げる。音を聞けば分かる。どれだけ努力してきたか。「あいっつ……あんなに、『楽しんで』おったがに」
そう、それは。
『許される』べきでは、ないのだ。
「もう一日、時間をください」と、はっちゃん先輩は頭を下げる。「出来るだけのことは、してみます」
頼もしい二年生の姿に、恭ちゃん先生は目を細めた。「えーよ」
アンサンブルコンテストの準備に明け暮れた時期は、昼休みも無駄にはしまいと、クラリネットのメンバーはみんなで本番の曲を歌合奏していた。
場所は、一年一組。
足を運ぶのは、最後の歌合奏以来となる――。
しんと空気の冷えた廊下にて。合間に手をホッカイロで温めながら、何度も何度も練習を重ねたことを思い起こす。
本番とは、――残酷だ。
どんなに練習を重ねたとて。結果を出さねば意味がない――そう考える者は多い。
だが。
いま、一歩一歩を踏みしめるはっちゃん先輩が伝えたいのは、そのようなたぐいのことでは、ない。
既に、部活動開始の時間だ。掃除は既に終了している。遅れる旨は、同じクラスで同じパートの深見恭子に伝えておいた。事情を理解した深見は、「頼むわね」と伝えてきた。彼女とて、玉城マイクに言いたいことが山ほどあるに違いない。けど……
開きっぱなしのドアから、はっちゃん先輩は、教室に入った。真っ先に見えるのは――机に突っ伏した男子の姿。雪よりも眩しい銀髪。
声をかけようと思ったのだが、傍にて、よしよし頭を撫でている男子の姿がはっちゃん先輩の目に映る。――梅村洋平。これは。
慰めている、というやつでは……?
「よお明日佳」気づいた梅村洋平が顔をあげる。「こいつに用あんねやったら、ちょっと廊下で話さんか?」
「あいつなあ。空気の抜けた風船みたいになってもうてなあ……どうにもならん。
話しかけてもなーんも答えんし、休み時間のたんびに、勇気凛りん三人娘んとこ行っておったがに。机に突っ伏すか、トイレに行くかだけになってもうて……。
『ゆうりん』たちも、気にはしておるよ? ほんでも、話しかけても手応えがないっつうのはおれらもおんなじで。なんやろなあ……」
手をかけられた、生徒たちに癒やしを提供する、色彩豊かな中庭を見やり、
「どうすればええかって、おれらも悩んでおるとこ」
にぃっ、と梅村洋平は白い歯を見せて笑う。「――ほして。明日佳は? あいつどうにかする手立てかなんか考えてきたんか?」
「――無い」
『本番』は、常に一発勝負。事前にあれこれ、粘土をこねくり回すみたいに考えるタチでは無い。
ほんでも、と葉月明日佳は言い足す。
「――あいつを『突き動かす』もんが、なにかは分かっておるつもりや」
――歌が、聞こえる。
なんだろう。どこかで聞いたことのあるような……。
幾度も幾度も繰り返したフレーズ。
玉城マイクは、自然と口ずさんでいた。ひとつだった音が、ふたつ。みっつ。重なり、壮大なハーモニーを奏でていく。
練習を重ねると、人間は、自分の保有する能力に開眼し、その可能性の無限さに驚かされる。
いま、玉城マイクが体感しているのはまさにそれだ。
彼は、顔を起こした。目は、閉じたまま。ただ――この世界に生まれいでた喜びを、全身に、感じていたい。
最後まで、彼は甘美なる幸せを、奏でた。脳が溶けるほど繰り返した八分音符。最後に響かせる長音。――
彼は、まぶたをあげた。目の前には、喜びを共有した仲間全員が、立っていた。……練習は?
「そんなん。どっちが大事かって、決まっておるがいね」目でマイクの疑問を読み取る、はっちゃん先輩。「恭ちゃん先生に出した『あれ』。あんなん、うちらは、認めんよ」――やってあんた。
吹奏楽、好きやろ?
感動を作り上げた余波が、からだのなかにまだ残っている。震える。感じる。
生きていることの尊さを。
この世に生まれ出たことへの、喜びを――。そう。
楽しむために、人間、生きているのだ。
「『おれ』、は……」玉城マイクは目元を拭った。「『自分』に『負けて』しもて。取り返しのつかん過ちを犯してしまいました……ほんでも。『こんな』人間でも、音楽を楽しむ権利が、あるっちゅうもんでしょうか……」
「マイたま」そっと、三島由里子が玉城マイクの肩に手を添える。「『あんた』が教えてくれてんよ。音楽が好きっつう、前向きな気持ちから逃げたらあかんて。ほやのに」
三島由里子は口許だけで笑い、「あんたが逃げるてどーゆーこと?」
「プレッシャーに負けそうなときなんて、誰にでもあります……」か細い声の深キョー先輩。先輩が喋るのは何故かいつも標準語寄りだ。「でも。うちの部活は、『本番』を重ねるチャンスが多いので……『慣れ』ますよ。ましてや、玉城くんは、入部してたった二週間で、あれほど完璧に歌い上げたではないですか……。
『自信』、持ってください」と、深キョー先輩は背中を押す。主旋律を担当することが多いゆえ、プレッシャーのかかりがちなその先輩が。「みんな……玉城くんのことを、待っています」
「先輩……」
玉城マイクは、鼻水を垂らし、涙を流した。
その様子に、はっちゃん先輩が、苦笑い。「ちょっつ。あんた。その顔どうにかしましいね。せっかくの美男子が、台無しやわ」
差し出されるティッシュで、遠慮なく鼻をかむ。ちーん。
大きな音で、みんなが弾かれたように笑う。――あはは。心配しておったけど。大丈夫そうやね。うし。いまから恭ちゃん先生んとこ行こ。先生も気にしておったし……。
全員が納得したように、職員室へと向かいかけるのだが――
ふと疑問。
玉城マイクは、はっちゃん先輩の背中に、呼びかける。――あの。
「なんよ」顔を歪めて先輩が振り返る。迷惑そうに。けれども、いま、訊かなければ、後悔する――そう思った玉城マイクは、
「『今度』自分に負けそうになったら、いったい、どうしたらええとですか?」
マイクの疑問を受け、窓から入り来る冬の淡い日差しを受けて先輩は微笑した。栗色の髪が、きらめく。「――心配せんでも、来月は、あんたに1stやらす予定やから。小川原小学校の招待演奏な。チェスフォードポートレイトっちゅう曲。考える暇もないくらいに、『本番』の連続やさけ。あんたかて。知らんうちに、『慣れる』わ」
自信を持って、先輩は断言する。あのプレッシャーを。孤独を。知りうる先輩だからこそ。
つん。
と、玉城マイクの鼻の頭を突くと、
「メゲるなよ、少年」
艶やかなツインテールを揺らし、はっちゃん先輩は笑った。「『期待』しておるんやから、あんたには。なんせ――見目形の麗しい少年やさけ、来年、あんた目当てで入ってくる女子がいっぱい、おるかもしらんなあ?」
「――ありえんとです!」と、玉城マイクは叫ぶ。「『おれ』。そんなん、ありえんとです。おれ、自分の見た目がどんなんやか、自覚、しておるつもり、とです……」
「これやから困るんよねえ、マイたまは」
「そーそ」
「無自覚も大概にしぃ」
可愛らしいクラリネット少女軍団はかく言い切り、少年を、『この道』へと促していく。
かつて、孤独のなかで震えていた少年は、少女たちと向かう。
あかるいほうへと。
ひとびとのこころを照らし出す――その道を。
険しい道だけれど、ひとりでは無い。みんなと一緒だから――戦える。
振り返れば、親友が手を振っていた。マイク! 気張れやぁ! ……と。
玉城マイクは、そのエールを受けて、微笑んだ。
「ありがとなあ、ヨーヘイ」
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