殺処分
「―――するとも、今やっている仕事が片付いたら……ああ勿論だ、フゥ……君の言う通りマカオに……え? パラオ? あ、朱美ちゃん店では、フッフゥ! 『マカオ』って言ってたじゃないか!?」
茶色のカーペットに、白い壁紙の壁には値が張りそうな絵が、細かな細工を施した額縁に入れて飾ってある。どこか成金趣味を感じさせる内装の部屋だった。
赤坂弁護士事務所は、主に正面玄関のある待合室と、短い廊下から続くメインのオフィス、小さな会議室に、地下室から成っている。会議室は、その建造目的と一致して使用された事は一度も無い。
地下は仕事用ではなく、全体が趣味の空間になっていた。
最新のオーディオ機器に大画面テレビ、クイーンサイズのベッド等が置かれており、依頼人、またはその知人が魅力的な美人だったりすると、その弱みに付け込んで如何わしい行為に及ぶ事もある。
この弁護士は、控えめに言っても人間の屑だった。
「フォゥ!? そんな、もうチケットは予約が………いや、良いじゃないかマカオでも、フゥ……。良いところだよマカオ……そんな、何を言ってる!? 酷いじゃないかそんな事……い、いやもちろん愛して……それは違う話しだろう! フゥッ! 妻の事はいいって君も……」
毛足の長い絨毯が敷かれ、重厚な作りのデスクの前には、ガラステーブルと革張りのソファーが向かい合って置かれている。
それらしく壁際の本棚には法律関係の書籍が敷き詰められていたが、本棚の扉の鍵を大昔に無くすそれ以前から、ほとんど活用されてはいない。
飽くまでそれらしく設えただけの弁護士のオフィスだった。それはこの弁護士事務所全体に言える事だったが。
小太りの弁護士、赤坂英夫は誰が見ているワケでもないのに、携帯電話を手の平で隠すようにしながらボソボソと通話相手に話しかけていた。相手は六本木の飲み屋の女。旅行の予定に不備があったらしい。
この弁護士に関して、こんな事は別にプライベートに限った事ではない。
「フゥ……今日はダメだよ。大事な電話が来る事になってる……店じゃ仕事なんて出来るか。……そんなワガママを言わないでくれ、フゥ……。大事な事件の打ち合わせなんだよ………今日警察から逃げた少年の………そうなんだよ、同じ学校の女子生徒を………そう、酷い事件だ、フゥ」
そう言った時、それまでのウンザリした表情に嘲るような色が混じった。知能の低い、あるいは弱い存在を見下す目だ。
いったい誰を思い、その境遇を憐れむでもなく侮蔑しているのだろうか。
「わたしだって少年事件を扱うんだよ、フゥ? それが終わればボーナスが出るからマカオに………わかったもういい、パラオでもグアムでも朱美ちゃんの好きな所に行こう、フゥ………それは君にはどうでもいい事だろう?」
この弁護士にとってはひとりの少年の人生より、来月に迫る愛人との旅行の方が大事と見える。
交渉は結局いつもの如く赤坂弁護士の方が折れたが、手に入る報酬の事を考えれば、どこへ旅行に行くのも大して違いは無かった。どうせ自分は愛人に連れ回され、金を使わされるだけだから、その意味でもどこに行くのも違いは無い。
その旅行の為にも、今回の仕事は間違いなく迅速に片付けねばならなかった。
しかし、警察も検察も世論もこちら側。無力な少年をひとり、社会的に抹殺するだけの簡単なお仕事だ。
「フゥ、間違いなく行けるよ。もうほとんど終わった事件だし……フフッ。犯人ももう決まってるんだ。フゥ………本当かどうかは関係無いんだよ、所詮世の中は権力を持つ人間の一番都合の良い方に回るように出来ているんだ。フゥ……そんな人間が犯人を決めたんだから、今回の事件はそれで終―――――――」
そこまで世話話でもするように喋っていた赤坂英夫弁護士だったが、急にその舌が硬直してしまった。
何故ならば、
「…………」
応接セットを挟んで、赤坂弁護士の座るデスク向かいにあるメインオフィスの扉。観音開きになっているその扉が少し開いており、その向こうから表情の無い白い顔が覗いていたのだから。
「――――――ウフヒィイッッ!!!」
受話器を取り落とし、小太りの男が椅子から転げ落ちる。
今まで食い物にしてきた依頼人やらその家族やらに恨みを買う覚えが有り過ぎた弁護士は、年に一回はお祓いを受けるほどだ。
今まで一度も幽霊に逢っていないのは幸運としか言いようがなかったが、残念な事に今回も悪徳弁護士の前に現れたのは怨霊の類ではない。
「……今の……オレを『犯人に決めた』ってヒトの事、もうちょっと詳しく教えてほしいんスけど……」
「フゥ!? き、君は――――!?」
しかし、怒りのあまり顔面蒼白になっている千尋から溢れる怨念は、怨霊のそれと比しても劣る所が無い。思わず赤坂弁護士が勘違いするほどに。
屋上でビビりながらコンクリをほじくり、出入り口のセキュリティーに通じる電源ケーブルを切断し、事務所内に侵入するまでは千尋の腰も引けていたが。
「何故ッ!? こ、こここに君が!? わ、わわ、私を怨むのは筋違いだぞ! 私は弁護士として君の為に出来る限りの事をしようと――――――!!」
「『ボーナス』って? 個人で事務所開く弁護士に誰がボーナス払ってくれんですか? なんで? 『ホントの事なんて関係ない』、『犯人を誰かが決める』っておかしくない?」
言葉がスラスラ出てくるが、千尋も考えながら喋っているワケでもなかった。
正直な話、警察も弁護士もグルになって、いち高校生でしかない千尋を嵌めようとしている、と言う推測を自身信じ切れず、弁護士を前にしてもどう話をしたものかと思い悩んでいた所に、先ほどの電話の会話である。
基本的に気が弱く、根性も人並少し下の少年をして、弱気が宇宙まで飛んでいくほどの激怒だった。
「ヒッ!? ち、近づくな!! 弁護士に暴力を振るえばもう誰も君を弁護してくれる弁護士なんていなくなるぞ! レイプ魔の殺人逃亡犯なんて―――――!!?」
「だ・か・ら……先輩に何もしてないし殺してもないって何度も……言ってんだろうがぁあああああああ!!!」
怒りのあまり平衡感覚を無くし、フラフラと幽鬼のように近づいてくる生贄の少年。
それに対し、恐怖が極まった弁護士は床に転がったまま逃げる事も出来ず、胸倉を掴まれ引き上げられた。
「ギヒィイぃイいイイ!!?」
耳障りな悲鳴を上げる弁護士の身体が、少年の細腕で宙に持ち上がる。
瞳孔が開いて無表情なままという常軌を逸した千尋の貌に、本気の殺意を感じた弁護士は脚をバタつかせてもがくが、床に付かない爪先が空を切るだけだった。
「それで、オレを先輩殺した犯人にしたのは何処の誰? どんな得があるってんだよ!」
「ヒギィイ! た、たしゅけ――――――」
『キミ、殺すと情報が引き出せないわよ?』
率直に言って、そのまま死んでも構わないと白熱した頭で思った千尋だったが、ここでは小心な性根が幸いした。
手掛かりが消える事を始め、本当に殺すことで自分の主張が弱くなったり、モチベーションが低下したりを不安視しただけで、別に弁護士の命を慮ったのではなかったが。
それでも、ちょっとでも冷静になって目の前を見てみると、顔色が紫色になってきているヒト一人の存在に怖気を振るわれ、反射的にスーツの胸元を握っていた手を放していた。
「―――――ゲヒィ!?」
『どこまでも見るに堪えないブタね。プロなら殺さず半殺しに出来るんでしょうけど、キミじゃぁね』
「………」
床に転がり大きく身体を膨らませる姿は、容姿云々を脇に置いても、醜いの一言だった。
弱ったヒトを食って傲慢に肥え太る、〝ブタ〟そのもの。と思ったが、
(……ブタに失礼だな)
肉をいただいている身としては、ブタに敬意を払わねばならない。トンカツもチャーシューも大好きだ。つまり、この弁護士はブタと比べられるのも恐縮しなければならない存在だった。
「でもあんたは挽肉になる権利くらいはある。スーパーでグラム当たり500円で売られるか、冷凍庫で出荷待ちになるか、選べよ!」
『キミそれじゃどっち道食肉工場行きじゃない。しかも100グラム当たり500円ってかなり良いお肉だし』
興奮のあまり若干ワケが分からなくなって来ているのは否めないが、とりあえずホントに屠殺しかねない殺気だけは伝わったようで、
「ゆ、許してくれ! そんな事話したら、私が先生に殺されてしまうではないか! ブフゥ!?」
弁護士はまさに動物のように千尋に腹を見せて許しを乞う。それでも、まだまだ自己保身に走る元気は残っているようだ。
「トンカツと生姜焼きとアスパラ巻きと、後何があったっけ?」
『わたしはビーフよりポークカレーの方が好きなのよ』
「ブヒィッ!?」
足首を掴まれ、少年の片手一本に易々と100キロを超える肥満体を持ち上げられると、その姿はまさに解体寸前の食用家畜。
弁護士は生きた心地がしなかったが、そこは腐っても口先三寸で生きて来た腐れ弁護士。
「わ、私を殺したりすれば君は自分の罪を認めたも同じだぞ、ブハッ! だから君には私を殺せないし、乱暴すればするだけ君の罪は重くなる! それに、せ、先生の事を知ったところで君なんかにはどうにもならん! わからんのか!? もう君が身代りに刑務所に入る事は決まってるし、今の時点で君の言う事に耳を貸す者など誰もいないんだ、ブファ!!」
説得なんだか挑発なんだか分からないが、今の発言のおかげで千尋は陰謀の存在を確信する。
強気に出て千尋を諦めさせるつもりだったのだろうが、完全に逆効果だった。所詮この男は三流の三下だ。
「結局キミは無駄な時間を使って自分の容疑を確定させただけなんだよ、ブホッ! さあ分かったらこの手を放したまえブフッ! 私は何も話さないから無駄だ! 君は絶対に女子生徒を殺した犯人である事に変わりはないが、弁護士殺しまで加わったら未成年でも死刑――――――!!」
吊るされたブタ―――もとい赤坂弁護士の頭に血が上り、説得することを忘れた弁にも熱が入ってきたその時だった、事務所の電気が一斉に消えたのは。
そして直後に、
「―――ブキィッ!!?」
暗闇の中で、千尋はハッキリと見てしまった。
コーラのボトルを空けた時のような気の抜ける音と共に、自分が吊り下げていた小太りの男、その頭部が弾ける瞬間を。
「――――は?」
『…………』
人間の頭部が欠ける、という現象を、普通の人間が一生の内に見る機会はまず無い。
当然千尋には何が起こったのか理解出来ず、突然認識出来なくなった元ヒトの頭から零れ落ちる固形物を、呆然と眺めていて、
「―――んゴッ!!?」
突然何者かに腕を取られ、真っ正面から床へ押し倒された。
(なに!? 弁護士! 頭!? 脳! 痛い? 誰!? 死! 捕まった!? オレも!?)
「対象〝1〟確保。対象〝2〟は処分」
頭の上から声がする。感情の感じられない冷血な男の声だ。
毛足の長いカーペットの上で、顔面から圧し付けられる千尋の目の前に、僅かな光を照り返してくる黒い革靴があった。
千尋に見える範囲で足は四足二人分。
いったい何時の間に現れたのか。千尋には全く分からなかったが、恐らくは『先生』と呼ばれた黒幕の手によるものだと、混乱する頭の片隅で思った。
「クルマは裏に。移動する。それをしっかり押さえておけ」
『このままじゃ捕まるけど、倒すか逃げるかしないの?』
謎の声に言われるまでもない。正体不明の、躊躇なく人を殺せる人種に拉致られた日には、どんな目に遭わされるかわからない。
「は、放せ――――!!」
「ッ……!?」
「大人しくさせ――――!!」
上から体重をかけ、千尋の頭を押さえ付けていた男はかなりの巨漢という事もあり、年端もいかない少年が自分を振り払う力を持っているとは思っていなかった。
しかし現実には、千尋の脚がカーペットを引き剥がす程の踏ん張りを利かせて、全体重をかける巨漢を逆に持ち上げる。
「クッ! 大人しくしていろ!!」
「んグッ―――――!?」
千尋の後頭部と背中に、ガツンと重い衝撃が来た。殴られたのだと分かったのは、大分後になってからだった。
だがそれよりも、驚かされたのは殴った男の方だ。それなりに人を殴り慣れている黒いスーツの男をして、まるで高密度の木材か粘りのある鋼でも殴ったかのような手応え。
それに、殴られてもなお、無我夢中で暴れる少年の力は徐々に増して来ており、男ひとりで抑えきれなくなるのは自明だった。
「殺しても良いという命令だ、処分しろ!」
「―――――!!?」
チキッという音が千尋の耳のすぐそばで聞こえた。
『処分』というオブラートに包んだ卑怯な言いまわし。陰謀の為に淡々と、簡単に命を奪う事を良しとする独善的な人間ども。
(銃、頭!? 殺される!? オレも――――ふざけんな!!)
怒りで、再び千尋の胸に火が入る。
「んガァッッ!!」
「うぉあ!?」
「なに―――――――!!」
突然目の前で人が死んで、一時停止していた思考が爆発的に加速した。
裏でこそこそ悪巧みをしているようなヤツに、その手先として平然とヒトを『処分』するような奴らにだけは絶対に殺されたくない。
「コイツッ―――押さえろ! さっさと撃て!!」
「ガァアァあぁアア!!!!!」
ガッ! と千尋の頭が固い靴底で踏み付けにされた。同時に千尋の視界が真っ赤に染まり、後頭部から全身が冷たくなる。
そして千尋の首筋に目がけて、鉛の弾が時速数百キロの速度で撃ち出された。
◇
『対象』こと牧菜千尋の確保、ないし抹殺を命じられた黒スーツのひとりは、赤坂弁護士事務所の正面に黒塗りのセダンを停めて待機していた。
消耗品の弁護士をひとり『処理』し、逃げた生贄を連れ戻すだけの簡単な仕事に、4人も玄人が送り込まれている。
正直、正面を見張る男はそれほど気構える必要も感じず、一服しながら人気の無い道玄坂を眺めていると、
その背後から、ガシャンドゴンッ! と立て続けに派手な音が響き、衝撃波が背広の背を叩いた。
「うぉ!?」
首を竦めて見張りの男が背後を見ると、弁護士事務所正面のガラスが派手に割れて、破片が歩道上に散らばっていた。
ガラス片はクルマまで達しており、更にフロントフェンダーが凹まされていた。
「――――――!?!?!?!?」
激突して凹ませた張本人である千尋は、ボンネットに手をついて目を丸くしていた。自分でも何が起こったのか良く分かっていない。
弁護士事務所の入口と割れたウィンドウの穴からは、黒スーツの仲間が泡を食って飛び出してくる。
「押さえろ! 殺せ!!」
「―――バカここじゃ拙い……!」
我に返った見張り役の男が、煙草を投げ捨て千尋へと走る。事務所側からも黒服達が来る。それぞれが手にはサイレンサー付きの拳銃を手にしている。
それが、今の千尋にはハッキリ見えてしまった。
「ふォ――――!?」
慌てふためく千尋は無様にも前のめりに倒れかけ、地面を手で突きとばしてその場から飛び退く。背後からはまたもパシュッと空気の抜けるような音がし、直後に千尋の少し斜め前のアスファルトに火花が散った。
音は立て続けに鳴り、空気の裂かれる音が千尋の耳元を掠め、一発が千尋の背に直撃する。
「――――いッ!!?」
直撃した、筈だった。
撃った男にも手応えがあった。だが、その瞬間に千尋の逃げ足が、カタパルトに載せられた戦闘機並みの加速を見せる。
「――――なぁ!?」
「え? お、追え!!」
それは人間離れした、という言葉さえ生温い速度。
クルマに乗り込んでいたひとりが仲間を置き去りにアクセルを踏み込み、タイヤに金切り声を上げさせ爆走する少年を追った。
千尋は道玄坂を、商業ビル〝109〟と逆の登り方向へ走る。
スローになった視界に、車道両脇に並ぶ街路樹が流れていく。
ほぼ直線に近い緩やかな登り。千尋の速度が人間を超えていても、特別な仕様の黒塗りセダンはエンジンを嘶かせて少年の背に迫った。
事故でも任務は果たせる筈だ。警察はどうとでもなる。そんな計算がドライバーの頭の中で組み立てられる。
道玄坂の終端に差し掛かる所で、黒塗りは相手を撥ね飛ばすまであと僅かという距離まで接近し、
ドライバーが轢き殺せると確信した時、追っていた相手の姿が消えた。
「―――――は? なぁアァアあ嗚呼!!!」
土壇場で目標を見失ったクルマは、この時点で時速110キロを超えている。
千尋の背しか見えていなかったドライバーの男は、目の前に首都高速を支える柱が迫っていたのを、認知するのが致命的に遅れてしまった。
猛スピードの黒塗りセダンがノ―ブレーキで首都高の支柱に激突し、爆音と炎を上げていた頃、千尋は20メートル上を走っている首都高速道路を、世田谷方面へと突っ走っていた。