楼閣
警察の他にも、千尋を陥れようとした人間がいる。
秋葉原にあった新築準備中のビルから、割と間一髪気味に逃げ出した千尋は、現在渋谷の道玄坂に来ていた。
ここには警察署で千尋を弁護するどころか、なお一層泥沼に引き込んでくれた弁護士が事務所を構えている。
指摘されるまで弁護士の存在を完全に忘れていた千尋は、冷静になって接見の時の事を思い出し、次に燃え上がった。砂漠並みの温度差である。
「言われてみばド畜生……月番の国選(弁護士)なんてデフォルトであんな感じかと思ったけど……」
『本気でそう思ったのなら、君はこの社会におけるサバイバル能力に酷く不安があるわね……ハードが良くてもソフトが心配だわ』
千尋は弁護士の名前すら知らなかったが―――弁護士も名乗らなかった―――、居場所も名前も何故か『声』がメールで送ってくれた。千尋が拾ったばかりの、アドレスも知らない筈の携帯電話に、だ。
『機種と基地局と居場所さえ分かれば、個別端末の特定なんて難しくもなんともないわよ』
「オレが聞きたいのはどうしてそんな事が出来るのかって事でそんなのどう考えたって犯罪チックな匂いしかしねーって事なんですけど―――――」
弁護士の詳細を知っていた事に関しては突っ込まなかった。また『電話帳にだって載ってるわよ』とか言われるだけだろう。だから千尋が聞きたいのは『どうやって』ではなく『どうして』と、以下略。
◇
赤坂英夫。50歳。弁護士。
刑事、民事、企業、離婚、その他、と専門を持たずに広く訴訟を手掛ける弁護士。そう言えば聞こえは良いが、節操無くなんでも手がける割に勝率はそれほど高くない。
専ら依頼人を宥め賺して、もっと酷い負け方をしなくて良かった、と思い込ませるのがやり口だ。
そんな弁護士にまともな仕事が来る筈もなかったが、そんな弁護士なら弁護士で相応の仕事はあるもの。
千尋のように、依頼人が冤罪をゴリ押しされるのなど序の口で、訴訟の相手側と通じて依頼人の情報を流し、ワザと裁判を不利に運んだり、酷い時には家族や友人の醜聞まで利用して、依頼人に涙を飲ませる。
その成果が、この事務所と青山の一戸建て。妻と二人の娘の他に、六本木の飲み屋に愛人がひとり。車はBMWのロードスターだ。
今回もいつものように仕事を終わらせ、特別報酬を稼いだ後には出張と称してマカオへ旅行に行く予定だった。無論、家族とではない。
判例を調べたり、依頼人の為に足を使って証拠を集めたりというのはこの弁護士の仕事ではなかった。
しかし、法の同業相手には非力でも、法律学校で居眠りしながら聞き齧った法律知識で、素人を煙に巻く口にだけは多少の自身があった。
だから今度も、十分に相手を改心させる自身があった。
射殺されるまでは。
◇
口髭に小太りの弁護士、赤坂の弁護士事務所は、道玄坂から一本裏手の通りにあった。
道路に面するの正面玄関脇に、堀のような一段下がったスペースがあり、階段を使って下りる事が出来る。
レンガ風のタイルを全面に張った、渋谷らしく小洒落た地下1階地上1階の建物。それが、〝赤坂弁護士事務所〟だ。
(で、こっからどうしよう……)
勢い込んで来たものの、ここから先は千尋にもノープランだった。
『電気は付いてるし、件の弁護士さんはまだお仕事中みたいね。意外に仕事には熱心なのかしら?』
その方向は大分明後日の方向へと行っているが。
(つーか帰れよ……いや、出来れば帰っていて欲しかった……)
弁護士から、千尋を追い込むように依頼した依頼主を聞き出す。某24時間戦える対テロエージェントや、英国製女泣かせ諜報部員なら苦も無いのだろうが、こちとらRPG(対戦車ロケットではない)好きのただの高校生である。どうしろというのだ。
『そこはキミ、日本の若者特有の無軌道な若さをこう溢れんばかりの若さをチカラとして相手に、ねぇ?』
「なんでも若さにまかせりゃいいってもんじゃねーぞ……。だいたい若者みんなが後先考えずに暴力に訴えるもんだと思うなよ」
と言いながらも、過剰なまでに許されなくなった力の行使が、今の若者から熱を奪っている気もする、と千尋は埒もあかない事を考えているのだが、今はその力の行使が求められている。
「弁護士……弁護士ぶん殴るって……なんかこ、公務執行妨害的なアレがあったりするのかな?」
『学校の先輩レイプして殺しちゃった逃亡犯が今更何言ってるの』
「殺してねぇしレイプもしてねぇ―――――!!!」
何故かグレードアップしている罪状を大音量で否認した後に、周囲の事に思い至って千尋は声を抑えた。
時刻は夜半。帰宅ラッシュが終わったとはいえ、人通りが皆無なワケでもない。間違って弁護士にでも聞かれようものなら本末転倒だ。
しかし幸か不幸か、千尋の魂の叫びを聞いていた者はいなかったようで。つまり千尋の弁護士事務所突入作戦にも、スケジュールの遅延を認めなかった。
『ふぅん、腐っても弁護士の事務所ね。お金かかったセキュリティーだわ。でもパニックルームは無いみたい。つまらないわね』
「今更あんたの正体がどうとかいうつもりはないけど、何が目的かくらいは教えといてくれない?」
警察から逃げるのを手伝ってくれたからと言って、それだけで信頼するつもりも千尋にはなかった。というより今は、世の中の全てがちょっと信じられない。
謎の天の声も、千尋を困難にブチ当てて、単に楽しんでいるだけなのかもしれない。相手の物言いを聞いていると、千尋にはそんな風に感じられてしまうのだ。
だからと言って、孤立無援の少年には、選択肢など無いのも事実。
『屋上の入口なら簡単に入れるようね。電源の経路を切るだけでそこのセキュリティーを無効化できるわ』
「それ以前にどうやって屋上に……」
『そこまで面倒見切れないわ』
自力でどうにかしろ、と言うことらしい。
事務所は地上1階地下1階。両隣りには2階建ての美容院と同じく2階建ての本屋が並ぶ。どちらも千尋の地元と違って外面からお洒落感が漂っている。
美容院、本屋共にもう本日の営業は終了している。だからどうという事も無いが。
どうせ中に入って2階から弁護士事務所の屋上に出ようなんて、土台夢物語だ。
(となると……後の手段は一つしかないんだな……)
美容院と弁護士事務所の境にある細い通路に入った千尋は、何か足掛かりになりそうな物が無いかと前後左右を探る。
梯子なんて当然在る筈も無く、雨樋のように手摺になりそうな物も無い。
通路は千尋が両腕を伸ばせる距離より少し狭い。地面から屋根までは6~7メートル。
(映画なんかじゃ壁に挟まるみたく登ってたりするけど……この高さならオレでもやれるか?)
両方の壁に手足を突き、自分の身体を押し上げる。理屈は分かるが、ちょっとしたアクションだ。一生普通の人間が行わないスタントである事は間違いないだろう。
「…………ッと……」
9月ともなると、夜の空気もそれなりに冷たさを含んでくる。冷気に浸された赤レンガのタイルとコンクリートの温度が、千尋の手の平にも染み込んでくるようだ。
弁護士事務所のレンガタイルは、凹凸があっても体重を支えるほどの出っ張りは無い。美容院の壁は全く平坦で、指先さえ引っ掛けられない。それでも、千尋は少し感動するほど簡単に壁を登る事が出来た。
体重120キロと、それを容易に押し上げる事が出来るパワーの事は考えないようにした。
屋根の縁に手がかかると、美容院側の壁面を蹴飛ばし弁護士事務所の屋上へ飛び込んだ。手摺が無いのはこの際有難い。
屋上には出入り口となる小さな建物の他、水色のビーチチェアーとパラソル、それにテーブルスタンドがあった。弁護士の小さな憩いの場所、というワケだ。
自分のような犠牲者の上に、そんな優雅な生活があるような気がして、千尋は少し吐きそうになった。
「……どこブッ壊せばいいって言ったっけ?」
『いっそ建物ごと壊せばスッキリするんじゃないかしら』
その提案は酷く魅力的だった。
いや、ここだけではない。自分を陥れた者、先輩を殺した者、真実を事実と勘違いして囃し立てる者。
その全てを、跡形もなく吹っ飛ばしてやれたらどんなに爽快か。方法と実行の事はまた別の問題として。




