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主遣い



『はい、本日の午後1時30分、神奈川県浜崎市の交差点で7台の車による衝突事故が発生しました。この事故により、当時警察が移送中だった容疑者が現場から逃走したとの事です。事件直後から警察は現場周辺を封鎖し、非常動員態勢で逃げた容疑者の少年を捜索中とのことですが、美濃さん』

『へー、どういった容疑者なんですか、杏ちゃん?』

『それはですね、先日起こりました〝女子高生ストーカー殺人〟の、第一容疑者として取り調べを受けていた少年ということですね。事故を目撃した方の証言によりますと、容疑者の少年らしき人物は事故直後にパトカーから出て走って逃げたそうです』

 5時の全国ネットニュースは、各局が白昼の交通事故から派生した大事件をトップニュースとして報道していた。

 ある系列のニュース番組では、軽妙なトークで鳴らす名物司会者が、視聴者投稿の録画映像を大写しにする画面の前で、身振り手振りに事件をお茶の間に紹介していた。

 テレビに出ている映像が、スタジオから事故の目撃者インタビューへと変わる。

『すごいガシャーンって音がして、振り向いたらもう車がグシャグシャになってたんです』

『車から人が投げ出されててぇ、死んだかと思いました』

『あの、ひっくり返ってる車から若い男が走ってったんですよ。スゲー足早かったですよ』

『手錠してました手錠! あっちの方に走って行って、もう見ても見えなくなってて―――――』

 何故か半笑いの目撃者達のコメントが終わり、映像がスタジオに戻ってきた。

『原因が信号故障だってんだから、まぁ移送していた警察には責任は無いんでしょうけど、早く……見つけて欲しいものですね』

『犯人じゃなくてまだ容疑者なんですよね?』

『そう、検察に行く途中だった。つい先日の事件でしたよね、前橋先生?』

『そうですねー、同じ学校の女子をストーカーしていた、と言われて殺人容疑で逮捕された少年ですねー。どちらも未成年だったんですねー』

『はい、ではどういった事件だったのかをもう一度……』

 司会者がカメラへ振ると、画面が先日の事件概要へと移る。

 ひとりの少女の人生を終わらせ、ひとりの少年の人生を狂わせた、欺瞞で塗り固められた真実・・が無差別に放送された。


 神奈川県浜崎市にある高校の生徒、美波楓は以前から同じ学校の生徒、少年Mから一方的に想いを寄せられ、学校の内外で付き纏われていた。

 2日前、美波楓をストーキングしていた少年Mは、彼女を改装中の雑居ビルに連れ込み、暴行した末に殺してしまう。

『―――知ってます、少し軽い感じの……明るいだった。***君の事は聞いたこと無いけど』

『よく知らないけど***ってイジメられてたとか……お金取られてたって聞いたことある。他にもいたと思うけど……』

『楓さんと***ってヒト、多分仲良かったと思うけど。ストーカーって感じじゃなかった』

『知ってるあいつ! 暗い奴。いつも一人でいて、誘ってやってもノリわりーの』

『美波さん、みんなにも人気があって……みんなの中心みたいな人だったのに……死ぬなんて信じられない……うゥ……』

『***って、何考えてるか分からない感じだった。暗くて……怖い、っていうか……』

『***君の事ってあんまり知らない……。友達? ……いないと思う。あの先輩は人気あったから、だからストーカーしたのかも……』

『やりそうだった。今日学校で聞いた時、やっぱりって思った』

『***は人殺しするような根性無いわよ! 警察もマスコミもなに調べてるワケ!?』

 顔をモザイク処理されインタビューを受けていたのは、その制服姿から千尋が通っている学校の生徒だと知れた。

 大して知りもしない癖に好き勝手テレビに向かって言う連中の中、最後にカメラに怒鳴りつけた女子生徒の声に、千尋の背筋が反射的に伸びた。

「か……あ、あれ、か……蒼鳴あおなりか……」

 自分の風評をほぼ主観オンリーで語っているテレビの映像は、どこか自分の住んでいた世界を外から見ているような、現実感の無いモノだった。死後に、自分の死について語り合う人を見下ろすのはこんな感じか。

 しかし、その少女の声は千尋の背に張り手を喰らわせ、現実に引き戻す。

 何故なら、これまでの千尋の人生で、この少女の存在はかなり大きな部分を占めていたのだから。非常に不本意な事だったが。

『知りあい? 付き合っていた娘とか?』

「……冗談はやめて……」

 ゾッとしない事を言う謎の『声』に心底ウンザリした様子で答え、千尋はニュースを見ていた二つ折りの携帯電話を閉じた。

 車の中に落ちていたのを、逃げるドサクサの最中でいつの間にか掴んでいた物だったが、その携帯電話がイヤらしい笑みの刑事の物である事を千尋は知らない。


 事故を起こした警察車両から逃げ出した千尋は、当初の警察の予想を遥かに上回る距離をひたすらに逃げまくり、気が付けば東京の秋葉原周辺にまで来ていた。

 蜃気楼の街。訪れた外国の人間からはそんな風に例えられる程(うつ)ろい易く、変化に絶えない街。東京。

 ましてやそこは名高き秋葉原。駅周辺の再開発はひと段落しても、順繰りに古い建物が取り壊されて新しい建物が立てられ始める。隠れる場所には事欠かなかった。

 偶然に、かねてより行ってみたいと思っていた場所までダッシュで来てしまった千尋は、ヒトの目を避けて、大通りより二本ほど奥の通りに接した無人の新築ビルに隠れていた。

 新築ビルは内装工事の最中らしく、天井からは赤や黒の電源ケーブルが垂れ下がり、壁面も壁紙が張られておらず、灰色のコンクリートそのままだ。

 秋葉原という街はこれで意外に店仕舞いが早く、駅前はともかく裏路地の店などは、8時にはもう閉店してしまう所が多い。

 住宅街ではないので、お客がいなくなれば人通りは極端に少なくなり、目下逃亡中の身である千尋には有難いことだった。

 それでも、この状況で落ち着ける場など、どこにもありはしなかったが。

『目撃者も監視カメラも関係無し。そうでなくても手錠をしたままで目立つのに、ここまで全力走行……。早々に警察もこの周囲でローラーを開始するでしょうけど、これからどうするのかしら?』

 それも含めて今後の事も考えねばならないが、それよりも何よりも、いい加減に千尋も何かがおかしいと感じていた。

 いや、もっと以前から感じていた疑問を、冤罪をかけられテンパって後回しにせざるを得なかった為に、今の今まで忘れていた懸案事項を思い出した、というところ。

 事故現場から現在の千尋の潜伏先まで直線距離で約20キロ。数字で見ると大した事はなさそうだが、これを終始全力で走ろうと思うと大変な体力がいる。と言うかプロのスプリンターでも無理であろう。

 そして、その走破に要した時間は約10分。速度換算で時速約125キロ。道路交通法上、人間に速度制限は課されていないので問題はないが。

「大ありだッッ!!!」

 唐突に千尋は、何かに対して突っ込みを入れた。

 足が速いとか、早すぎて目立つとかいう問題ではないのだ。ついでに道路交通法の問題でもない。

「何だこれ!? なんかオレ拙い事になってない!!?」

 一息ついた所で、我が身を振り返ってひとり、コンクリートの箱の中で絶叫する少年。

 テンションに任せて全力疾走してきたのは良いが―――あまり良くはないが―――クルマより早く走れるというのは尋常ではない。

 それだけなら、追い詰められた脳がリミッター解除して火事場の馬鹿ヂカラが出た、でギリギリ済まされようが、これで疲れてもいないし筋肉に負担もまるで感じないとなると、もはやこれが自分の身体でも得体が知れなく、気持ち悪い。

 現実感にも乏しく―――それはここ48時間ずっとだが―――眩暈がしそうだった。それに反して、身体は絶好調だったが。

 そう、絶好調。

 夏休みに入る前から暑いわダルイわ気分が悪いわフラ付くわ食欲はないわ節々は痛いわと散々だったのに、これが新学期が始まろうという時になって、急に体調が良くなるという。

 自分はそんなに学校が好きだったか、と首を捻ったが、生憎、秤にかければそうでもなかった。

 今の状況の兆候、と言うべきか、体調の改善を手放しで喜べない部分は所々あった。その最たるものが体重で、体形は変わっていないのに測ってみると120キロオーバー。何度計っても、こっそり保健室の体重計に乗ってみてもそれは変わらなかった。

 スポーツマンではない千尋は、体力は平均値より僅かに下と、いったところ。体育は疲れるからダルイ、と臆面も無く言う程度だ。

 だが最近は、体育にせよ何にしても、疲れというものを感じた覚えが無い。今までは、なんか知らんが調子が良くなったから、くらいにしか思わなかったが。

 しかも冷静になって思い出すと、ひっくり返った警察のクルマから脱出した際に、イヤらしい笑みの刑事を、クルマのドアごと吹っ飛ばしていたような気も。

「……………」

 ここに到り、世間知らずな高校生の少年は、ここ一連の事態と自分の身体に起こっている異常に、関連性がありやしないかと疑い始めていた。

「あ……あの……」

 美波楓『先輩』を殺したという濡れ衣。突然聞こえ出した『声』。自分の身体の異常。

 関係ががあるとしたら、身にまつわる後者二つであろうか。

 漠然とした要点に、考えがまとまらないまま千尋は胡乱うろんな眼を虚空に向け、

『もしかして、私を呼んでいるのかしら? 私の方は何度呼んでも答えてもらえなかったのに。さっきだって目立たないように動けと散々――――――』

「あんたさ……オレに、なんかした?」

 文句など取り合わず、謎の声にストレートな疑問をぶつけてみた。


 ストーリーはこうだ。

 ある日拉致られた平凡ないち高校生は、拉致った謎の組織に人体改造を施された。

 組織(笑)は少年を一般社会へと戻したが、警察が組織と、改造された千尋の事を察知すると、これを秘密裏に押さえようとする。

 警察は近場にいた少年の知り合いを謀殺。少年に罪を被せて合法的に逮捕。警察の意図を掴んだ組織は少年をサポートして警察から逃がす。

 そこまで聞いたところで、

『ストーリーに捻りはないしアイディアから面白くないし……そもそもお金かけて改造した相手を開放するってどうして? 改造人間か何かだとして、別に人殺しとか騒ぎを大きくしなくたって、警察もこっそり拘束すれば済む話じゃないの? ゲーム脳なの? 自分が改造人間だとか現実と空想の区別が付いてないの?』

「じゃあそもそもテメーはなんなんだこの……電波人間!!」

 自作の小説か漫画にダメ出しを喰らう勢いで、かなり恥ずかしい思いをさせられた千尋少年は空中に中指を立て再び絶叫した。今だけは自分が追われる身である事も忘れた。恐る恐る話してみた自分がバカみたいである。

 体重の増加。尽きない体力。ヒト一人を蹴り飛ばすパワー。耳のすぐそばで聞こえる誰かの声。強引な警察の取り調べ。

 千尋なりに揃った材料で料理してみたのに、謎の声にはたいへんお気に召さなかった様子。

「た……確かに房っぽいけど、一番今の状態に合ってると思ったんだ……」

 そもそも自分で自分をサイボーグ(死)とか冗談でも言いたくない。頭がおかしい。

 第一、千尋にだって悪の組織(恥)にさらわれた覚えなんか無いのだ。荒唐無稽もいいところ。

 拳を震わせてそう言い訳するのは、姿の見えない相手に対してか、それとも自分に対してか。

「……ほんとにあんた何なんだよ……もうワケわかんねーよ……ほんと……これからどうしよ……」

『…………』

 肉体的にはともかく、精神的にドッと疲れが出た千尋は、打ちっぱなしのコンクリート壁に背を預けてズリ落ちるように座り込んだ。

 先輩の無念を晴らす、などと思い上がった事を言うつもりはない。千尋は自分が何の力も無い、いち高校生に過ぎない事を知っている。出来る事など、何も無いのかもしれない。

 その上で、やれるところまでやってやろう、と。そんな曖昧な思いだけで、千尋は警察から逃げるという大それた事までやったのだ。

 箱の角っこにまで追い詰められ、押し込められ、絶望に潰されそうになって、それでも小さく灯った胸の火に突き動かされて、自由にならない手足をいっぱいに振り回し。

 自分の先行きは死ぬほど気になる。お先真っ暗だ。だが、既に死んでしまった先輩には、その闇すら無い。

 美波楓という学校の先輩。少し好きだった少女。彼女に対して、千尋は何を想って良いのかすら、まだ掴みかねている。

 悲しいとか辛いとかそんな単純なモノではない。ともすれば叫び出しそうになる、小さくても爆発寸前の、未だ意味を持たない感情の種。

 その小さな未分化の感情が、絶望に項垂れているのを許さなかったのだと、千尋はなんとなく思っていた。

『………もう分かってると思うけど、警察はキミをは嵌めようとしているようね。「超」が付くほど強引な捜査と取り調べで、キミを犯人にして事件を終わらせたいのは、何故か。誰がキミをスケープゴートにしようとしているのか。誰かがキミを社会的に抹殺しようとしている。それは、誰が、何故?』

 複雑な少年の心境をおもんばかる様子も無く、謎の声は千尋に当面の問題を迫る。それが分かれば苦労はしない。

「誰が……って、想像もつかない。『社会的に抹殺』……とか言われても、そんな事が出来そうな人間を怒らせたおぼえも無いし……」

『そうよね。そんな敵がいれば事前の調査で分かりそうなものだものね』

「『事前の調査』……って?」

 何かまた聞き捨てならない事を言われた気がしたが、問い質す気にはならなかった。正体に関わりそうな事を、この『声』が素直に答えるとも思えなかったからだ。

『でも、キミを嵌めようとしている人間はそこそこ権力ちからがある人間であると言う事は間違いないでしょうね。警察を動かせる……例えば政治家、大企業の社長や会長といった名士、それとも警察関係……』

「そんなのがどうしてオレを先輩殺しの犯人にしたいのさ……」

『それはあなた、真犯人だからでしょ?』

「……………は?」

 事もなさげに言われて、千尋の理解が追い付かない。だが謎の『声』は構わず続ける。

『いえ、正確に言うと、権力を持つ真犯人が警察を動かしているのか、それとも警察そのものが犯した殺人を隠蔽する為にキミが犯人だとでっち上げたか。とにかく警察が真犯人を知っている可能性はかなり高いでしょう』

 その上で真犯人を、本来法を順守すべき警察がかばい、あまつさえ無実の人間を犯人として仕立て上げる。

「…………ッ……ザケ……やがって……」

 自然と感情が吐露され、叩き付けた両の拳でコンクリート床に大穴を空けた。

 いい加減理不尽が過ぎるこの状況に、小心者の少年をして世界を業火で焼き尽くさんばかりの怒が全身を焦がす。して、その炎をどこにぶつけてくれようか。

 それを考えた途端に、怒りの炎はあっけなく勢いを殺した。

「って……結局犯人探しが死ぬほど難しくなったってだけじゃんか。……警察締め上げるワケにもいかんだろうし……」

 犯人が闇の中である事に変わりはなく、手がかりといっても情報源が警察では難易度が高すぎる。

 繰り返すが、牧菜千尋は平凡ないち高校生に過ぎない。補足すると、喧嘩は苦手で強いものには巻かれてしまうタイプ。気の大きい方でもない。

 そんな少年が、『警官』を『締め上げ』て情報を引き出す。考えるまでも無く、『無理』だった。

『例のねちっこく追い込みをかけて来た刑事なら何か知っているかもしれないわね。黒幕が何者であろうと、違法行為を警察にやらせるのはリスクが大きいわ。なら、事情を知る人間は最小限に止めようとする筈……。恐らく、現場の刑事と直属の上司、あと上に数名って所かしら』

 だからどうだと言うのか。もう一度あのニヤニヤ笑いの刑事に遭うことなど考えたくもない。出来る事なら、一生目に入れたくない顔だった。

 それは単にあの笑みが生理的に受け付けない、という事だけではなく、その笑顔の裏に感じる本性が、底冷えするほどに恐ろしく感じられたから。

 心理的に恐ろしいと感じる以前にも、現職の刑事、それも銃を携帯している可能性のある相手に千尋がかなうとも思えなかった。

 だが、

『ただの警官の一人や二人、適当に叩きのめしておあげなさい。キミの無罪を証明する近道よ』

「あんたヒトの話聞いてた? 格闘技歴ゼロで喧嘩も出来ない一般的な高校生を舐めないでくれるか」

 ヒトを平気で死地に誘うこいつはやっぱり自分のもう一人の人格なんかじゃないな、と千尋は改めて確信した。

 そうなると、もう一つの可能性が嫌なリアリティーを帯びてくるが。


 頭を事件の方へと戻す千尋は、実はもう一つ手掛かりがある事を知っていた。いや、『声』との会話で思いだした、と言うべきか。

 千尋を犯人にして事件を終わらせたい人間。警察を意のままに動かせる人間。そして、先輩を殺したであろう人間。

 千尋が思い出した手掛かり。それは、千尋が最後に生きてる先輩を見た時に、彼女と一緒にいた壮年の男の存在だった。

 少し遠目だったが、容姿を思い出してみる。

 歳は50~70代。頭髪は薄くスダレ頭。スーツ姿で、善し悪しは分からなかったが高級そうに見えた。スーツの襟もとに何か反射したのを覚えている。

 スーツの上から見た体形は、恰幅が良いとも太っているとも言えた。身長は美波楓と同じ程。つまり、千尋よりは低いという事になる。

 姿に関して思いだせるのはそのくらいで、後は先輩に向ける猫撫で声でも出していそうな軽薄な笑みと、対する先輩が薄っぺらい愛想笑いをしていた事だけが思い出せた。だがその関係までは、千尋は意図せずして考えないようにしていた。

 最後に先輩と一緒にいた男、であるかは分からず、当然その男が真犯人であるとも限らない。しかし、二人の様子はただの顔見知りという感じでもなかった。

 千尋には、どうしてもその男が真犯人であるという想像を棄てられない。

 少なくとも、自分より後に美波先輩と一緒にいたのは間違いないだろう。

(でもそれだけじゃな……。何者かわからんし、どう調べていいかもわからんし……)

 こういう時の為の警察で、こういう場合のモンタージュ作成じゃないのか、と千尋は歯噛みする思いだ。

 警察に頼れない理由は今更語るまでも無い。千尋は本気で税金を払いたくないと思った。所得税じゃなくて消費税。アレも一般財源だった筈だ。

 バラバラ、と音が聞こえて来たのがそんな時。

 風を叩くヘリのローター音で我に返った千尋は、背を預けるコンクリート壁に、いっそう強く身体を押し付けるようにして、保護シートが張り付いたままの窓の向こうを窺った。

 ヘリの飛行高度は手を伸ばせば届くのではないかと勘違いするほど低く、その直下のライトから伸びる光条は、建物を舐めるように照らしていく。探し物をしているのは明らかだった。

『たぶん今のでアタリ(・・・)を付けたわね。遠くないうちに警察の巡回がこの辺りを見回りに来るわよ』

 区画全体で再開発を行っているらしく、建築中の建物は千尋の隠れている一棟だけではない。それでも、区画全体が怪しいとなれば、警官がしらみつぶしに調べに来る事もあるだろう。そうでなくとも、千尋はここに来るまでに目立ち過ぎている。

 捕まるのが怖くて、警官に出くわすのが恐ろしくて、千尋は身を隠してくれるこの場所から一歩も動きたくなかった。立ち止まるのが自滅に等しい事だとしても、今、自分から安全地帯を捨てるのは抵抗があった。

 それでも、

「とりあえず……逃げる……」

 こんな中途半端なところで終わりたくない。何の答えを掴まずに、身動きが取れなくなる方が恐ろしい。

 何も考えず―――考えられず―――に千尋は暗い建物内を走り、階段を飛び降りた。追い詰められて八方塞がりになり逃げ場が無くなる前に。それしか考えられなかった。

『あー……待ちなさい』

 相変わらず正体不明な謎の声に、無言でテンパった千尋が身をすくませる。

 またも無自覚に、人間離れした速度で飛びだそうとする少年を、諦観混じりの声が押し留めた。

「なんだよ……アドバイスでもくれんの?」

 明らかに切羽詰まった貌の少年は早口で言い、ビルの入り口から下手な身の隠し方をしつつ、周囲を窺っている。

『ええ、まず一つ。手錠をどうにかしないと一発でバレるわよ。どこで警官と遭遇するか分からない以上、少しでも自由に動けるように見た目だけでも工夫すること』

 そう、時速125キロで突っ走っていた時から、千尋の手には黒い手錠が繋がっているままだった。私は逃亡中の犯罪者です、と喧伝けんでんしていたようなものだ。

「『どうにかする』って……どうするんだよ。鍵なんか無いし――――――」

『引き千切りなさい。鎖さえ切れれば、腕の部分は長袖に隠すでも何でも誤魔化しがきくわ』

「………それ以前に、そんな簡単に鎖が切れれば犯罪者も容疑者も苦労しねー―――――」

『いいからやりなさい。時間が無いんでしょ』

 声は相変わらず抑揚無く、常に物事を当然のように語る。まるで、然るに当然、出来て当然、とでも言うように。

 その言い様に、何故か千尋の常識の方が間違っている気にさせられる。ヒトの言うことに左右されやすい現代の若者のさがか。

(いやだって……これ、無理矢理したら鎖じゃなくて腕の方が切れんじゃないの……?)

 24時間着けていても馴染む事のない拘束具。表面が黒く塗られた鋼鉄の錠は、堅牢でいて脆そうな部分は皆無。例え重機で引っ張っても、壊れる所は想像できなかった。

 だが、『声』の言う通り時間が無い。千尋に残された時間は、もう幾ばくも無いのだろう。

 ならば、

「んぬッ………!!!」

『………そう、全力で力を込めて』

 手錠を繋げる鎖と鎖の間で、金属が擦れ合う高い音が小さく鳴った。

 拳を握り、痛みに耐えて力を振り絞る両腕の間で、黒い鎖が最大のテンションをかけられている。

「ッィ~~~~~~~~~~ッッ!!」

 痛い。物凄く痛い。

 歯を喰いしばり、眉間に深い皺を寄せる苦悶の千尋。腕の皮膚には手錠の輪っかが痛々しく喰い込んでいた。

 千尋の手首は血流が止まってうっ血し、薄い皮膚の下にある骨までを軋ませる。そうなのは当然だったが。


 ミチミチミチ……、と、鎖から湿った音が。


「………ハッ!!?」

『……フッ……』

 痛い事に変わりはなかったのだが、痛みに目を細める千尋の前で、黒い鎖の輪っかの一つが中頃から割れ始めた。

 鎖というのは、要は楕円の輪っかが繋がりあって出来ている。その小さな輪の接合部が、引っ張る力に負けているのだ。

 千尋には、腕の手錠を通じて鎖の金属が曲がっていくのがハッキリと感じられた。

「―――――ッアッッ!!」

 最後に、渾身の力を込めた千尋の呻きと同時に、メキリと低い音を立てて鎖の一輪が真っ二つに裂けた。自由を取り戻した腕が、勢い余って背後の壁に亀裂を入れる。

 ジャラ、と音をさせて腕から情けなく垂れ下がる鎖を、誰よりも信じられない目で凝視していたのは、当人の千尋だった。

「………なんだよ……」

『考えるのは後にしなさい。キミって目の前の現実すら理解するの時間かかりそうだし……』

 普通、手錠は切れないから『手錠』なんだ、と千尋は呆然と思ったが、気持ちの整理を付ける時間も『声』の主は惜しんでいるようだ。今までにない早口が千尋の背を叩く。

『さっきみたいに気持ちとスペックに任せた考え無しの走行はやめなさい。目的地をハッキリとさせて、最短距離を慎重に移動するの。目的無く走りまわったらあっという間に捕捉されるわ、キミの場合』

 謎の『声』に何と言われても、気持ちの整理に心が引っ張られる千尋に口を挟む事は出来ない。

 何故なら、それは決定的だ。千尋の身体は、明らかにおかしい。

『それがどうしたと言うの。警察出し抜いて真犯人捜すんでしょう? ただのボーヤにそんな事が出来る? だったら、今はその異常チカラを幸運に思いなさい』

 また頭が混乱しそうになる。一体自分の身体はどうなっている。誰が、自分に何をした? そう言ってうずくまってしまいたい。逃げる事なんてどうでもいい。今はただ、何でもいいから冷静になれる答えが欲しい。

「………二つ目のアドバイスは………?」

 それをこらええて、千尋は前を睨んだ。そこにいるのは、ニヤニヤと笑う刑事か、先輩を殺した姿無き黒幕か。それとも、答えを持つ姿なき『声』か。

『警察は後に回した方が賢明よ。今はもう一方から話しを聞きだす方が、まだ可能性があるわね』

「もう一方て?」

『いたでしょう? 警察と一緒になって、キミを犯人にしようとした人間が』


                          ◇


 逃亡中の犯人・・らしき人物の目撃情報から、警官が建設途中のビルを捜索したが、そこには誰ひとりいなかった。

 ある新築ビル3階。窓際の床に最近陥没した跡があり、1階の入口付近の壁にも似たような陥没痕があったが、それを逃走中の犯人と結び付ける思考を持つ者はいなかった。

 中を見て回った警官がビルを出ていく時に黒い金属片を蹴飛ばしたが、それを気に留める者もまた、いなかった。

 秋葉原周辺はそれこそドットを埋める勢いでの捜索が行われたが、牧菜千尋の存在を示す物は、終に何も見つからなかった。

「……全く全く全く全く! 捜査のプロが雁首揃えて何やってるんでしょうねッ!?」

 千尋に怨念の炎を燃やす刑事、倉林は進展の無い報告にイラッとし、その気持ちを隠す事もなく自分のデスクを蹴り飛ばす。

 多少目に余る行為でも、何故かいつもお咎めが無い中堅の刑事に意見できる者は、この刑事課の中には居なかった。それは直属の上司である刑事課長であっても例外ではない。

 千尋に逃げられた事故現場での蛮行の後も、戻った警察署で周囲の人間に陰湿な八つ当たりをし、空気など知った事かとひたすら雰囲気を悪くする。

 このままでは憂さ晴らしにホームレスでも撃ちに行きかねない。相棒の渡辺刑事が本気でそんな心配をし始め、匿名の通報が来たのがそんな時だった。

「わ、渡辺さん……マル被の居場所を知ってるって匿名の(通報)が……」

「――――!?」

 何かと気難しい刑事のクッションにされる渡辺に、刑事課で一番若い刑事が声を殺して報告を入れた。

 ガセネタやイタズラ電話で、倉林の怒りに油を注ぎたくないのは渡辺も一緒だった。

 刑事課の暴君が小用に立っているのを幸運と思い、素早い手つきで受話器を取る。

「お電話代わりました、浜崎南署刑事課の渡辺です。そちらは?」

『重要なのは私の事より、マキナチヒロという逃げられた人身御供の居場所では?』

「―――――にを!!?」

 それらしい事を言って偽の情報に信憑性を持たせる、自称・・善意の提供者は珍しくも無い。だが、後ろめたい事がある身としては、出てきた名前に動揺を隠し切れなかった。

「と、逃走中の被疑者は殺人を犯した可能性もある危険人物です。一刻も早い逮捕にご協力いただけると伺いましたが?」

『もう少し考えて使う人間を選ぶべきね。お金でなんでも言う事を聞く便利なお抱え弁護士なんでしょうけど、ああも露骨に屠殺の用意なんてしていたら、家畜だって自分の末路は悟るものよ』

「………もう少し分かりやすく言っていただけませんか。今逃走中の被疑者の居場所に関する情報提供なのでは?」

『分かって言ってるのなら貴方、あの下種な刑事より見込みあるわ』

 こうして結局何一つ明確にしないまま、電話の女は通話を切った。相手の正体は不明。会話の意味もその意図も分らない。最後の言葉の意味を含めて、だ。

 千尋の居場所。接見した弁護士の所にいる、というのも到底信頼できる情報だとは思えなかったが。

「ハイハイハイ弁護士ね……。意外と骨のある子供だという事かな?」

「ッ……く、倉林さん!!?」

 しかし、いつの間にか渡辺の背後にいた笑顔の倉林は、何かしら確信を得たようだ。渡辺は、通報者の最後の科白セリフを思いだして背筋を引きらせる。

「赤坂の事務所は渋谷だったな? あの三流弁護士め……不相応な所で稼いでいる」

 どうして三流と卑下ひげされる弁護士が、渋谷という決して土地の安くない場所に事務所を構えていられるか。勿論、収入源がまっとうである筈はない。今度の件でも高額の報酬が出ているのだろう。

 それは倉林や渡辺、そして刑事課長も似たようなモノで、誰かに便宜を図ることで、それなりに美味しい思いをしているワケだ。

「は、はい。通報に疑問は残りますが……所轄に連絡を入れて向かわせますか?」

 渡辺としては、倉林がまた癇癪を起さないかだけが心配であり、話を逸らせるものなら早々にそうしたい。

 正直な話、違法行為に関わり美味しい見返りを受け取る事と、相棒の倉林と片棒を担ぐのは、渡辺にとって少々微妙な天秤具合だった。

 大きな身体を心なし縮こまらせ、そうとはバレないように様子を窺う渡辺刑事。

 だが倉林には、情報提供者の事も、最後の侮辱的な科白セリフもどうでもよかった。

「渋谷署に赤坂の事務所周辺を固めさせるんだ。だが対象が現れても手を出させるな。私が行くまでは―――――」

「待ちたまえ倉林君……」

 せっかく機嫌がよく良くなりはじめていたのに、またしても水を差された癇癪刑事が一瞬で沸騰しそうになった。

 だが、水を差した相手は下っ端や他部署の人間ではなく、曲がりなりにも自分の所属する刑事課の長。面と向かって牙を剥くほど、倉林も節操を無くしていなかった。

「……なん、です、か、課長? 我々は刑事の本文を全うするのに忙しいんですがね、貴方の為にも」

「渋谷の方はいい。私が連絡・・しておく……」

「……は……」

 後ろめたい者同士、言葉の意味はすぐに分かった。

 普段はお飾りに等しく、上からの指示を伝えるだけの存在である刑事課長が、実質的に立場が上の倉林に、このような口を利く理由は一つしかない。

「それじゃぁ……倉林さん、上が……」

 刑事課長の上からの指示。それも正規の命令系統ではない、裏からの命令に違いない以上、倉林といえども私怨を押し通すなど出来なかった。

 本当の飼い主の命令に逆らえば、それこそ倉林は本物の狂犬でしかなく、そこは横暴な汚職警官であっても分は弁えている。

「………」 

 心から承服しているかは、また別の問題だ。



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