第2章「結婚したい犬」
窓の外、植え込みの紫陽花が色づきはじめたのが見える。まだ本格的な蒸し暑さには少し早い、湿り気を帯びた朝だった。
朝一番の予防接種の予約は、柴犬のゴンだった。
飼い主は田中さん、中年の男性だ。紺色のポロシャツの襟元がうっすら汗ばんでいて、休日出勤の帰りにでも寄ったみたいに、疲れた顔をしている。
リードで繋がれたゴンは、田中さんの足元にきちんと伏せていた。毛並みは艶々、体格もいい。
「すみません、ちょっと先生に聞いてほしいんですけど」
田中さんが受付票を書きながら、声を落とした。
「最近ゴン、なんか、元気なくて」
「あら、そうなんですか」
「食欲はあるんですよ。散歩もちゃんと行くし。でも、なんていうか、こう……覇気が」
覇気。柴犬に要求する項目として、ちょっと独特だ。
「ストレスかなにかですかねえ」
「えー、どうでしょう」
私は相槌を打ちながら、カウンター越しに床のゴンを見下ろした。ちょうど、ゴンと目が合った。
「通訳さん」
——え? 通訳?
「お話が、あります」
田中さんは受付票の住所欄で詰まっていて、気づいていない。私はできるだけ表情を変えないように、頷いた。どうぞ、の顔。
「俺、結婚したい犬が、います」
——は?
「相手は、モカといいます」
あかね、営業スマイルだ。崩さない。崩さないったら崩さない。
「隣の家のトイプードルです。知的で、上品で、俺なんかとは身分が違う。釣り合わないのは、わかっています」
——身分差。犬に身分差ってあったんだ。
「でも、たまに、道の向こうに、あの子の姿がちらっと見える。その一瞬のために、俺は生きてます」
——うわぁ。
田中さんは受付票を書き終えて、スマホを取り出した。リードを手首に緩く引っ掛けたまま、待合室のソファに腰を下ろす。スマホの画面を見つめて、ニュースかなにかをスクロールし始めた。ゴンは田中さんの靴の脇に、あごを乗せるように伏せた。
そのまま、顔だけをこちらに向けて、カウンター越しの私をまっすぐ見上げている。
「覚悟は、できています」
——何の。
「将来のために、準備もしています」
——何の。
「貯蓄のため、骨を、埋めました」
——え。
「三箇所」
——三箇所ッ!?
「結納用、新婚旅行用、老後用です」
犬の経済観念。生活費。貯金。そんな単語が次々に脳内をよぎっていく。私は口を閉じたまま、眉を片方だけ、少しだけ上げた。ゴンはそれを、真剣な頷きと受け取ったらしい。話にますます熱が入る。
「通訳さん、あなたならわかってくれると、思ったんです」
——何の根拠で。
「モカは、犬生の伴侶です」
田中さんが、ふと顔を上げた。思わずびくついた。
「どっ、どうされました!?」
「いや、なんか、ゴンじっとあなたのこと見てるなあと思って」
「いえいえ、ええ、あの、人懐っこい子ですね」
「まあ、そうなんですよ。人には懐くんだけどなあ」
田中さんは嬉しそうに笑って、またスマホに戻った。ゴンは一瞬だけ視線をそらして、また私に戻した。
「——で、通訳さん」
——まだあるの。
「問題は、二年前から、モカと会えないことです」
——ん?
「飼い主同士が、仲悪いんです。散歩の時間もずらすようになって、最近は、すれ違うことすら、ない」
ゴンは、しょんぼりと耳を倒した。鼻先を少しだけ前足に乗せて、上目遣いのままそう言った。覇気がない、の意味がちょっとだけわかった気がした。
ゴンは覇気を失くしてるんじゃなくて、失恋の最中にいるのだ。二年越しの。
「俺、あのとき……」
——もしかして、原因に心当たりでもあるの?
私は心の中だけで、そう問い返した。ゴンには届かない。おしゃべりは一方通行。
「次ゴンちゃん、どうぞ」
診察室から呼ばれて、田中さんが立ち上がった。リードをくいと引く。ゴンも素直に立ち上がる。
ゴンは、最後に一度、私のほうをちらりと振り返った。その目がなんとも言いがたく切実で、私は受付カウンターの内側で、ちょっとだけ肩を落とした。
診察室のドアが閉まって、待合室が静かになる。私は書類を整えながら、ひそかにため息をついた。
——朝から犬の恋愛相談かぁ……。
玄関の自動ドアが開いたのは、ちょうどそのときだった。
「すみません、予約なしなんですけど、大丈夫でしょうか」
中年の女性が、小さなケージを抱えて入ってきた。佐藤さん。カルテは過去に何度か見たことがある。ケージの中には、ふわふわの薄茶色の毛玉。トイプードルの、モカ。
——うそでしょ!?
「ちょっと朝から、食欲がなくて、心配で」
「か、かしこまりました、少しお待ちくださいね」
モカはケージの中でじっとしていた。でも耳の向きだけが、やたらそわそわと動いている。
そして診察室のドアが、開いた。
田中さんがゴンのリードを手に、診察室から出てきた。そしてソファに座っている佐藤さんに気づく。気づいて、視線を一瞬固定して、それからわざわざ反対側の壁に向ける。
佐藤さんも、田中さんを見て、同じ角度だけ顔を背けた。
——うわぁ、わかりやすい。
人間は、気まずかった。見事に気まずかった。だがその足元で、
「モカ……!!」
「ゴンさん……!」
脳内大合唱。
ゴンは床に伏せたまま、全身を小刻みに震わせている。しっぽは高速で揺れていて、前足の爪が床を掻きそうになるのを必死で堪えている。モカはケージの格子に鼻先を押し付けて、耳を震わせて、同じく全身でそわそわしている。
「モカ、俺、今日、君に会えると思ってなかった」
「ゴンさん……お会いしとうございました。胸が、いっぱいですわ」
「元気だった?」
「ゴンさんこそ、お痩せになったのでは」
「いや、体重は変わってない、獣医に言われた」
——ラブコメ。
二匹は待合室の端と端から、ひたすら見つめ合っていた。しっぽが揺れる。飼い主二人は相変わらず反対方向を向いていて、自分たちの足元で繰り広げられている熱愛劇に完全に気づいていない。私はカウンターの内側で、この四者の温度差をただ眺めていた。
——なんだこの、人間と犬で温度差マイナス五十度の場。
そこへ。
診察室のドアが、もう一度開いた。
白衣の背中が、無言で出てくる。手にはカルテの束。そのままカウンターの前まで歩いてきて、私にカルテを差し出す。
「次回予約、再来週の火曜で入れといて」
「はい」
黒澤先生はカルテを置くついでに、何気なく待合室のソファの二匹をちらりと見た。ちらりと。ほんの一秒か二秒。
それだけで。
「この子たち、お互い好きなんですね」
誰に話しかけるでもない口調で、ぽつりと言った。
田中さんが、弾かれたように顔を上げた。
「え」
「普段から、遊ばせてるんですか」
黒澤先生は、あくまで淡々と。
「違いますが……」
「そうですか」
それだけ言って、黒澤先生は踵を返した。診察室のドアが、ぱたんと閉まる。
私はその扉を凝視したまま、完全に固まっていた。
——あの人、何の情報もなしに、わかっちゃうんだ。
「今の、なんだったんだ……」と田中さんがつぶやいて、佐藤さんも困惑した顔で、自分のケージの中のモカに目を落とした。モカは、気まずさなどどこ吹く風、ひたすらゴンに向かってしっぽを振り続けている。ゴンも同じ。
「田中さん」
私はできるだけ何でもない声で、カウンター越しに声をかけた。
「はい」
「さっきゴンちゃん、元気ないって言ってましたよね」
「ああ、はい」
「今、すごく嬉しそうな顔してますよ」
田中さんは足元のゴンをじっと見下ろした。それから、少し息を呑む。
「……本当だ」
佐藤さんも横でモカを見ていた。
「モカも、こんなにしっぽ振るの、久しぶり」
二人が、そっと顔を見合わせた。合わせて、また逸らして、でもさっきまでの頑なさはない。そこにあるのは、どちらかというと気まずさだ。
私は、ここだ、と思った。思い切って踏み込む。
「あの、立ち入ったこと聞いちゃうんですけど。ご近所で、前に、何か、ありました……か?」
田中さんは、一瞬逡巡した。それから、ぽつり、と。
「……二年前、散歩で、うちのゴンが、佐藤さんちのモカに、吠えたんです」
「あら」
「ゴンは普段吠えないんですよ。ほんとに。でも、あのときは、なんだかわからないけど、急に」
「それで、佐藤さんが……」と田中さんがいうと、気まずそうに佐藤さん自身が引き取った。「うちの子を、怖がらせないでくださいって。ちょっと、強く言っちゃって」
「……それから、散歩時間を、ずらすようにしていました」
二年分の、小さなしこり。お互いにちょっとずつ、気持ちをこじれさせていたんだ。
私は床に伏せたゴンを一度だけ見て、それからカウンター越しに、ちょっとだけ背中を押すことにした。
「ゴンちゃん、そのときたぶん、嬉しかったんだと思いますよ」
「え?」
「モカちゃんのこと、好きすぎて、嬉しくて、つい吠えちゃったんじゃないですかね。ほら、今も。前足、動き出しそうなの、我慢してますよ」
田中さんが、ゴンを改めて見下ろした。
ゴンはしっぽを小さく、でも確かに振っている。前足の爪が床でぴくぴくしていて、駆け出しそうなのをぐっと堪えていた。
「……そうだったのか」
田中さんの声が、少し湿った。
「私も言い方、キツかったかもしれません」
佐藤さんが、ぽつりと言った。
「あのとき、ちゃんと話せば、よかったんですよね」
「お互い様、ですよ」
二人が、顔を見合わせて笑った。二年分、ずれていた時間の帳尻を合わせて、なんてことはなかったねと確かめ合った笑顔だ。
診察の順番が回ってきて、佐藤さんがモカを抱えて診察室に入っていく。入る前、ちらりと田中さんのほうを振り返って。
「あのよかったら、今度からお散歩の時間、合わせてみませんか」
「ぜひ」
田中さんの返事は、即答だった。
「やったあああ!!!! 俺、人生、最高ッ!!」
「ゴンさん、犬生ですわ」
脳内で爆発する歓声。私は受付の内側で、口元が緩むのを抑えた。
——受付、犬の縁結びも承ります。
閉院後、待合室の椅子を並べ直して、私はバックヤードへ書類を戻しに入った。
受付奥の定位置の、ペットベッド。白と茶のぶちの老犬が、毛布の上で丸まっている。リン。
目が、合った。
しっぽが、ぱたり、と一回だけ床を叩いた。
——あれ。
はじめてだ。寝ているだけのこの子が、私に向かって明確にしっぽを動かしたのは。
「……こんにちは、かな」
私は手を軽く振った。リンは目を細めて、また毛布に顔を埋めた。
そのとき、奥の院長室のドアが開いて、院長が鞄を手に出てきた。帰り支度のようだった。院長の姿を認めた瞬間、リンが起き上がった。さっきまで寝ていたはずなのに、微塵の迷いもない動きで、するりとペットベッドを降り、院長の足元まで歩いていって、ぴたりと寄り添う。
「おっ、今日も一日お疲れさま、あかねちゃん。リンもな」
院長がしゃがんで、リンの顎の下をゆっくりと撫でる。リンは目を細めて、ほんの少しだけしっぽを揺らした。私に対してのぱたり、一回よりも、院長への信頼が滲んでいるような仕草だった。
——ああ。この子、院長のこと、すごく好きなんだ。
犬が飼い主を大好きでいるのは、もしかしたら珍しくないことなのかもしれない。でもその当たり前のことが、なんだかすごく特別に感じて、帰宅する一人と一匹を目で追ってしまった。
裏口から外に出ると、塀の上で二股のしっぽが揺れていた。
「よっ」
「あ、マメ」
「お前、なんか、役に立ってる風じゃん」
「なんか、成り行きで」
「犬の縁結びかよ」
「言わないで。自分でちょっと思ってた」
マメは鼻で笑って、二股のしっぽの先を、街灯の下でゆらりと揺らした。
「でも、お前、向いてんじゃね、その仕事」
「犬の縁結び、そんなに案件ある?」
「犬は単純だからな。知らんけど」
「適当かよ」
「俺は猫だから」
マメは欠伸をして、塀の向こうへ身を翻した。しっぽの先が、街灯の下で一度だけ揺れて、消えた。
家に帰るまでの道のりの途中、私は珍しく、気分がそんなに悪くなかった。ゴンの、あの覇気のない目を思い出す。それからモカと目が合ったときの、全力で振られたしっぽも。
——犬生の伴侶、か。
口の中だけで呟いて、笑ってしまった。
今日は、まあいい一日、ということにしておく。半袖の腕に、風が心地よかった。




