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第1章「猫に噛まれた日」

 猫に噛まれた日から、動物の声が聞こえるようになった。嘘みたいな話だけど、本当だ。


 始まりは春の朝だった。


 公園のベンチは微妙に湿っていた。コンビニで買ったサンドイッチの封を開けて、今日もまた一週間、とだけ思う。


 大学を出て就職して、人間関係に潰されて辞めて、動物病院の受付でバイトをしている。そのくらいの経歴は、誰に聞かれても三秒で説明できる。三秒以上かける価値もない。


 「聞き上手」と褒められて、「抱え込みすぎ」で締められるのが、小学校の通知表からの伝統だった。


 少しひんやりした空気のなかでもぐもぐしていると、足元に猫がいるのに気づいた。


 黒と白のハチワレで、目つきが悪い。野良だろう。サンドイッチの端っこの卵を、少しちぎって差し出した次の瞬間、私の人差し指は猫の口の中にあった。


「いったぁ! 何すんの!」


 指先に赤い点がふたつ。じわっと血が滲む。ベンチから飛び上がった私を、その猫がじっと見上げて、こう言った。


「——今日からお前、動物の言葉わかるから。一年な」


「……は?」


 たぶん三秒くらい、私は固まっていた。その隙に猫はすたすたとベンチを降りて、植え込みの陰に消えていく。


「待って! ちょっと! 幻聴!?」


 声をかけたが、振り返りもしない。あとに残ったのは卵の切れ端と、指の出血と、聞いたことのない単語の羅列。


 幻聴だ、と決めつけることにした。朝の低血糖だ。そう言い聞かせながら、私は絆創膏を探して鞄をあさった。


 動物病院には、徒歩で十分ほどかかる。道中、電線の上でスズメが何羽か騒いでいたが、よく聞くとそれはただの「ちゅん」で、意味なんてどこにもなかった。ほら、やっぱり幻聴だ。ほら。


 病院の裏口から入って、ロッカーで白い受付エプロンを羽織る。受付は私と、パートさんの二人体制。今日はパートさんは昼からの遅番で、朝のシフトはわたしひとりだ。


「おはようございます」


 院長がバックヤードの奥から顔を出した。白髪まじりで、穏やかな目をした人で、声も優しい。飼い主さんたちからの信頼が篤いのは、バイトとはいえ見ていたらわかる。


「おはよう、あかねちゃん。指、どうしたの」


「あ、朝、ちょっと擦っただけで」


 噛まれました、とは言えない。


 受付カウンターで朝の準備を始めると、横を白衣の背中が無言で通り過ぎた。副院長の黒澤先生だ。目も合わないし、挨拶もない。いつもどおり。


 黒澤先生は、院長の甥御さんだと聞いたことがある。家族経営未満の、小さな動物病院なのだ。


 受付カウンターの裏、バックヤードの隅にはペットベッドがひとつ置いてある。そこには犬が寝ていた。


 白地に茶色のぶちの、老犬。院長の飼い犬で院長室にいることが多いけれど、予約が立て込んでいて、院長が様子見にも戻れないくらい忙しい時は、受付奥のここで寝ている。名前は、リン。目を細めて、しっぽも動かさないで、ただ寝ているだけの子。


 私は軽く会釈する癖がついていた。向こうは、たぶん、そんなの気にもしていない。


 開院時間。最初の患者が扉を開けた、その瞬間。


「俺が一番! 俺が一番! 俺が一番んん!!」


「……騒がしい平民ですわね」


「ねえ聞いて聞いて! 昨日ねえうちの飼い主テレビ見ながら泣いてたのよ!」


「……生きるとは、何でしょうか」


「わーい! わーい! あれ俺なんでここにいるの?」


 脳内に、五、六人分の声が一斉に雪崩れ込んできた。


 柴犬、ペルシャ猫、オウム、ウサギ、ハムスター。順番に待合室に座っている彼らの口は、ぴくりとも動いていない。それなのに、頭の中だけが居酒屋の座敷みたいな騒がしさだった。


「うるっさい!!」


 叫んでいた。


 待合室が、しん、となった。


 飼い主たちが、ぎょっとした顔で私を見ている。ペルシャ猫を抱いたマダムが、眉を片方だけ上げた。


「……あ、すみません、あの、虫が、蚊が、すごい勢いで」


 蚊。春の朝。いるわけないだろう、と自分でも思った。


「あかねちゃん、大丈夫?」


 診察室から、院長が心配そうに顔を出した。


「だ、大丈夫です、ぜんぜん、なんでも」


 なんでもなくないに決まっている。


 幻聴ではなかった。噛まれた指が、じわっと熱を持った気がした。


 午前が終わるころには、頭の芯がじんじんしていた。来院した動物の九割が一言なにか言うので、受付業務の情報量が体感で三倍になっている。飼い主の説明より早く、動物の方が事情を喋ってしまうのだ。


 その中で、いちばん問題だったのは、おばあさんが連れてきたインコのソラだった。


「おばあちゃんね! 息子夫婦が全然来ないのがすごい不満で愚痴が一時間! あとお薬三日飲んでないのよ! それと昨日枕を買ったの通販で一万八千円! 高くない!?」


 情報の渋滞。ワイドショー体質。


 飼い主のおばあさんはのんびりと受付票を書きながら、「ソラ、うるさくしちゃダメよぉ」と笑っている。うるさい、の意味を、彼女は知らない。


 問題は、インコの言う「お薬三日」の部分だった。薬を三日飲んでいない高齢者は、放っておける情報ではない。


 診察が終わって、会計のときに、私はできるだけ何でもない顔で聞いた。


「あの、お薬の管理って、大変じゃないですか? うちの母なんかすぐ飲み忘れちゃって、家族で騒ぎになるんですよ」


 世間話の顔で、なるべく何でもないことのように。ちなみにうちの母はギリ四十代だ。母すまん。


「あらやだ、うちもねえ、最近ちょっと忘れちゃうことがあって」


 おばあさんは困ったように笑った。


「息子に言うと怒られるから、黙ってたんだけど……三日くらい抜けちゃった日もあってね」


「ご家族に、一度ちゃんとお話しされたほうがいいかもしれませんね。息子さんもご心配なんでしょう」


 会計を済ませながら、おばあさんはなぜか私の手をぎゅっと握ってきた。


「ありがとうね。よく気づいてくれて」


 礼を言われるようなことはしていない。インコが全部言った。私はただ、選別しただけだ。


 ソラが籠の中でばたばたと翼を広げて、「よかったよかった、これで薬飲むかも!」と得意げに鳴いた。その達成感は私にしか届いていない。


 閉院後、誰もいない待合室の椅子を並べ直していたとき、奥の入院室から声がした。


「おい、そこ動くなって言ってるだろ」


 張りのある声。初めて聞いたかもしれない、その高さの声。


「よし、偉いぞ」


「お前、最近また太ったろ。飼い主に言っとくからな」


 ——誰?


 そろそろと入院室の方を覗き込む。白衣の背中がケージの前にしゃがんでいて、中のチワワに、完全な世間話の口調で話しかけていた。


「この体重でさ、関節にくるのは知ってんだろ。お前、あと二歳歳取ったら膝やるぞ」


 チワワが、不機嫌そうに鼻を鳴らしながら、脳内で応答した。


「この人いっつも俺の体重のこと言うんだよなぁ……でも注射うまいから許す」


 ——許されてる。


 この人、チワワに、許されてる。


 心の中でつい呟いたら、なぜかチワワと目が合った気がした。しゃがんでいた背中がふっと振り返る。


 黒澤先生だった。


「……何か?」


 声のトーンが、一段階、低くなった。人間用の声に戻っている。


「い、いえ、お疲れさまです」


 慌てて引っ込んで、カウンターまで小走りで戻る。


 人間にはあんなに無愛想なのに、犬には饒舌。どういうバランスだ。あと、チワワに許されるって、職場的にどういう評価なんだろう。


 退勤後、街灯の下の路地で、あの猫がまたいた。


 電柱のわきに座って、しっぽをゆるりと動かしている。そのしっぽの先が、よく見ると二股に分かれているのに、今さら気がついた。


「どうだった? 初日」


「どうだったもこうだったもない。情報量、多すぎ」


「そうだろ」


「ねえ、ちゃんと説明して。これ、どこまで聞こえるの」


「だいたい半径十メートル。哺乳類と鳥だけ。魚と虫はノーカン。一方通行で、お前の脳内は相手に伝わらない。期限は一年。切れる日は、俺が教えにくる」


「一応、ちゃんと設計されてるんだ……」


「一年経ったら消える。なんとかしろよ、俺は知らんから」


「なんで私なの?」


 黒白の猫——マメというらしい、本人が名乗った——は、ちょっと考えてから言った。


「お前、朝の公園のベンチで、俺にサンドイッチ分けてくれそうな顔してたから」


「……それだけ?」


「知らんけど」


「選定基準になってなくない!?」


「俺は猫だから」


「猫関係ないでしょ!」


 マメはふあっと欠伸をして、夜の塀の向こうに消えた。


 家に帰って、指の絆創膏を貼り替える。傷はもうほとんど乾いていた。


 電気を消して布団にもぐっても、頭の中では今日の音が鳴り続けていた。チワワの体重と、ペルシャの軽蔑と、インコのワイドショーと、ウサギの哲学。そして、おばあさんの「ありがとうね」。


 なぜかその「ありがとうね」が、一番胸の中に残っていた。


 明日もきっと同じことが続く。明日はどんな声が聞こえるんだろう。


 ——明日。


 自然にそう考えていた自分にちょっと驚いた。


 こんな一日を経験したら、普通は「明日は休もう」と思うはずじゃないのか。なのに私は、当たり前のように明日も出勤する気でいた。


「……まあ、いいか」


 呟いて、天井を見上げる。


 ふと思い出した。


 ——あの犬だけ、静かだったな。


 バックヤードの奥で寝ていた、白と茶のぶちの老犬。他のどの動物も脳内でうるさいほど喋っていたのに、あの犬の声だけ、聞こえなかった。


 能力が届かないのか、それとも、何も言うことがなかったのか。


 わからないまま、私は眠りに落ちた。

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