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百円の価値

静寂。


血の匂いすら、もう残っていない。


床も、壁も、天井も。


すべてが、何事もなかったかのように戻っている。


水が、その痕跡をすべてを洗い流した。


マスターは、机の上の水を手に取り――


一口、飲む。


「……次だ」


――その直後。


こんこん、と。


控えめな音で、扉が叩かれた。


「……入れ」


扉が、ゆっくりと開く。


現れたのは、女と子供。


擦り切れた衣服。


乾いた肌。


子供は母親の服を掴み、不安そうにこちらを見ている。


「……あの」


女が、頭を下げる。


「食料を……少しでも……」


震える手で差し出されたのは、一枚の五百円硬貨。


「これで……買えるだけ……ほんの少しでも」


マスターは、それを見た。


そして、女を見る。


子供を見る。


―――――――――――――――


水がその女の人生の痕跡だけを映す。


意識の奥。


静かに張りついた、水面。


そこに、波紋が広がる。


――映る。


乾いた地面。


ひび割れた容器。


倒れたまま動かない影。


それでも。


最後の一滴を、子供に差し出す手。


かすれた呼吸。


消えかけた命。


音もなく、流れていく時間。


やがて。


水面は、静かに凪いだ。


何もなかったかのように。


マスターは、少しだけ考える。


やがて、棚に手を伸ばした。


乾いた保存食をいくつか。


そして、水。


それをまとめて、机の上に置く。


女の目が見開かれる。


「……あの、これ……」


「持っていけ」


短く言う。


「……で、でも……」


マスターは、差し出された硬貨を受取り数枚の硬貨を女の手のひらに握らせた。


「今回はこれでいい」


「……え?」


「百だ」


一瞬、理解が追いつかない。


「……百円でいい」


それ以上は、何も言わない。


女の目に、涙が浮かぶ。


「……ありがとうございます……!」


深く、頭を下げる。


子供も、小さく続く。


「……ありがとう」


二人は、何度も振り返りながら店を出ていく。


扉が閉まる。


静寂。


マスターは、残った硬貨を一瞥し――


机に置いた。


「……次だ」


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