プロローグ
5秒。
あと5秒で、敵の広げたアンチフィールド内に呑み込まれる。
イノセントと呼ばれる怪物。
“ヤツら”は、世界の「壁」の向こうからやってくる。
地平線の向こうにある、暗闇に包まれた世界から。
自由落下の渦中に加速する体。敵は廃墟ビルの上へと飛び乗った私を目掛けて、「雷」のエネルギーを展開していた。
空間に迸る閃光。
空気中を駆け巡る電流の刃。
コンクリートが弾け、飛散する。
足場を失った私は、ビルの外側へと投げ出されるように落下していた。敵の数は地上に1、2、3…。視認できる数だけでも、ゆうに10体以上はいた。廃墟ビルの壁から剥き出しになった鉄筋コンクリートが、ガラスの割れた窓枠の向こうに見えた。
ビルとビルの隙間に映る、夕暮れ時の空。
陽がだいぶ傾いていた。
焦げた赤茶色が、地平線の果てを押しつぶすくらいに。
…さっさと仕事を済ませて会社に帰んないと、上司に怒られるんだよね。とくに昨日は、朝から寝坊して依頼現場に間に合わなかった経緯もあるし。
まさかイノセントに出くわすとは思わなかった。ここらへんで最近盗賊が出入りしてるって話で、その調査に来ていたところだった。それがどうだ。瓦礫が落ちる音が聞こえたと思ったら、雑居ビルの中からコイツらが。
この場所は危険区よりもまだだいぶ手前にある。イノセントが出没すること自体は不思議じゃないが、レーダーには引っかからなかった。
…ったく。
とんだ仕事に引っかかったもんだ。
コイツらを一掃して、再度調査に来る必要がありそうだ。市街地から離れてるとは言え、この数にこの“レベル“。ポッと出の奴らじゃなさそうだった。
…あー、めんど
『生活環境捜査課所属』の特務捜査班、氷室かざねは、突如出くわした【イノセント】と呼ばれる怪物の処理に追われていた。イノセントは、「青の大陸」と呼ばれる場所からやってくる。人間の住む都市、『グラウンド・ゼロ』の居住区画から数百キロ離れた地点。かつて「日本列島」と呼ばれた島々の外の『水平線』から。
氷室かざねが所属している『生活環境捜査課』とは、グラウンド・ゼロの街の保全を管理している「都市公安委員会」の生活保安部第3課に当たる。主な業務は市街地内部、及び郊外の危険因子の調査や“環境汚染度”のチェックだ。グラウンド・ゼロでは数百年も前から『黒点エネルギー』と呼ばれる謎の暗黒物質が各地で蔓延し、人々の生活を脅かしていた。街で暮らしている人々の寿命は、平均50歳にも満たない。これは蔓延した暗黒物質の影響を受けているからとされており、「黒死病」と呼ばれる病を発症する人が、都民の6割以上にも上っていた。
暗黒物質の成分は未だ解読できておらず、この物質は人々の細胞を変質させ、体内にある高分子生体物質のデオキシリボ核酸(DNA)の改竄を行うことで知られている。また、この暗黒物質は“意思を持つウイルス”とも揶揄されており、黒死病に罹った人が個々の人格を失い、「アポトーシス」と呼ばれる怪物に変異してしまうことから、現在は都市の総力を挙げて原因の解明に当たっている。生活環境捜査課の職員は皆、日々拡大を続けている暗黒物質の駆除活動にも尽力しており、その業務は多方面に及ぶ。——もっとも、捜査課の中の『特務捜査班』だけは、一部の例外を除き、主に“戦闘面“での業務に当たることがほとんどだが。
『氷室かざね』は、都市の住民の約数%しかいないと言われる“調停者”と呼ばれる特異体質者の1人だ。初めてイモータルが都市部で発見されたのは2238年のことだった。暗黒物質に世界が侵食されていく中、人々の体内でも同様に異常な染色体の“変異性”が散見されるようになる。これは黒死病の病状の一つでもある「組み換えDNA」と呼ばれる細胞の改変が遺伝子レベルで後世へと行き渡ったことが原因と言われており、自らの体内にある染色体の自在な加工、操作を実行できる「ゲノムコード」が、イモータルと呼ばれる体質者=変異者の中に発見された医学的な”きっかけ”にもなった。彼らは本来人間の毒とされる暗黒物質を体内に取り組むことができ、かつそれをエネルギーに変換することができる。自然科学的な見方ではあるが、「黒死病」を克服できた“奇跡の人類“としても人々から認知されるようになり、2240年代前半から2260年の後半にかけて、イモータルの人体解剖と分析、研究が活発に行われるようになった。研究の成果でわかったのは、イノセントと細胞レベルで同質の性質を持つという点と、遺伝子配列という枠組みの中で“地球上の生物にはないゲノム情報を持つ“という点だった。
イモータルは、常人に比べて遥かに強靭な肉体と、“色相”と呼ばれる細胞(核ゲノム構造)の特色を持つ。細胞の特色には幾つかのパターンがあり、【赤・橙・黄・緑・青・紫】といったそれぞれの配色に準じた属性が、DNA分子の中に構成されている。
氷室かざねの細胞は「青」。
彼女は“水”や“氷”といった量子エネルギーを自在に操ることができるイモータルだった。細胞の配色には合計で24色の配列があり、それぞれの色に関係した量子エネルギーが、輪のような「色相環」の中に複合的に組み合わさっている。青だからといって必ずしも「水」や「氷」というわけでもなく、物質という「量子性」を持つエネルギーであれば、あらゆるパターンや組み合わせを“配色=適応“とすることができる。ただ、イモータルたちがコントロールできる量子エネルギーの「幅」には限界があり、個々の能力値や技の熟練度においては、ロウソクに火をつける程度のものや何千度の熱やエネルギーを発生できるものまで様々である。どのような量子エネルギーを“操作できるか=コントロール下に置けるか”は、個々の性格や考え方によるところが大きいことが、研究の成果によって判明していた。
少なくとも、”現段階”に於いては。
空中に投げ出された彼女は、自由落下の最中に於いて、立体的な空間の位置と“座標”を探ろうとしていた。
地面までの距離。
——その、具体的な「実数」を。
あと数秒で地面のコンクリートとぶつかってしまう。彼女が出くわしたイノセントたちは、彼女を“喰らう”ためにアンチ・フィールドを展開していた。『アンチ・フィールド』とは、暗黒物質の中にある黒点エネルギーを拡張したもので、“世界を滅ぼす空間“そのものの性質を含んでいた。通常の人間ならば、フィールドに足を踏み入れた時点で肉体が融解し、跡形もなく”完全に消失”する。正しくは吸収されるといった方がいいだろう。暗黒物質には他の情報を取り込む「同化」と呼ばれる位相領域があり、地上のあらゆる物質や生物は、この位相領域に入ると同時に自らの情報を吸い取られる。この領域に取り込まれた「情報」は元々の形を失い、世界に存在したという「記憶」そのものでさえ消失する。——それが物質であったか、そうでなかったのかの区分さえ。
かつて世界には広大な海があり、空があった。22世紀の初頭に世界は謎の自然災害に見舞われ、日本列島以外の大陸や海が暗黒物質の中に呑み込まれた。かろうじて生き残った人々は、記憶を失った世界で自らの『存在』の起源と歴史を探し求めた。新たな都市を建設し、侵食が進行する世界の岸辺で“自分が何者か”についてを探し求めたのだ。いつしか世界の中心では、発展する都市と分断された地平線が、日常的な景色の一部となってしまった。
〈グラウンド・ゼロ〉
それは人々が暮らす都市の名前でもあり、【境界線】でもあった。世界の「形」が変わったあの日から、世界には「過去」という存在そのものの輪郭が失われつつあった。
昨日と、——明日と。
その狭間で動き続けるたった一つの時間が、永久に失われつつあった。
少しずつ暗闇に侵されていく、街の中心で。
はー、めんど。
イノセントのレベルは『5』。「災害レベル」という指数で表現される奴らのレベルは、8から1までの数値で決定される。都市部から離れれば離れるほど、レベルの高いイノセントの出現率は高くなっていくが、この付近はそもそもイノセントが出現すること自体が珍しい。消滅した都市、「グレーゾーン」のエリアとはいえ、グラウンド・ゼロの都市城壁から数十キロしか離れていない。レベル5と言えば、都市近郊だと緊急避難勧告が下るレベルとなり、避難レベル3(※セーフゾーン内への避難または地下施設への移動)に該当する。
スキムボックスに映像を保存しておこうか?…いや、これだけの数がいるなら、わざわざ撮るまでもないか。通信センターには恐らく情報がいってるはずだ。問題は、“いつからコイツらがいた”のか。レーダーに映らなかったってことは、直前まで出現していなかった可能性もある。だが、このレベルのイノセントが出現するには、かなり汚染が進行している地域じゃないと。
ふー
考えてもしょうがないか。まずは片付けよう。話はそれから。
氷室かざねは自らの細胞内に生成した【青】の量子エネルギーを展開する。地面へと衝突する間際、地上に向けて放った水の粒子が、泡状に重なりながら膨張していく。廃墟ビルのプラザに徘徊していたイノセントたちの周りに出現した水の奔流。それは球面上に輪郭を伸ばしながら、巨大な〈質量〉を現出した。
青の”フィールド“
さながらそれは【水】(水素と酸素の化合物)のようにも見えるだろう。事実それは「水素」で形成された物質に違いはなく、量子的な成分も性質も、99%整合するに違いない。ただし現出された質量、——及び「物体」は、あくまで彼女の体内によって生成された『量子エネルギー』に過ぎない。
言い換えれば、“水に似た何か”。
例えばキャンバスの上に書く青のように、またはデジタル上に表現する「水」のように、“人工的な化学物質“に等しいものが、地上へと展開されていた。周囲数十mを覆う水の瀑布。垂直に落下する大量の粒子。展開された質量の中心へと、姿勢を乱すこともなくダイブする。
「彼女」は、そこにいた。
地上に落下するまでの5秒。かざねの落下スピードは秒速44.3m/sの速度に達していた。ビルから落下した時、その高さは120mはあった。常人ならば、この高さから落下して致命傷を避けられるものはいない。それがたとえ水面の上であったとしても同じだ。落下によるダメージ。普通ならばそこに視点が移るべきだが、“注視するべき問題”はそこではなかった。かざねが展開した水の粒子は、凄まじい勢いで地面を覆う。それは自らの身を守るためのものではなく、地上にいるイノセントたちを怯ませるため。コンマ1の加速度の中に衝突する重力加速度9.8 m/s2 。着水と同時に水の皮膜が弾け、飛散した。かざねは空中で回転しながら着地した。水の飛沫が、宙に停止した雨水のように緩やかな放物線を描き。
「“爆”」
量子エネルギーを操るためには『操者』のイメージ=思考能力がもっとも肝心だ。かざねのように言葉を表面化してエネルギーを“具象化する”イモータルがもっとも多いが、中には、頭の中でイメージを具現化し、それを体外へと展開するイモータルもいる。
彼女は口ずさむ。
よりイメージを確かなものへとするために。
ズザァァァァァ
着地と同時に飛散した水の粒子の“内部”から、勢いよく飛び出した無数のうねり。それは周囲を取り囲むイノセントたちに向かって、鋭い軌道を描きながら先端を伸ばした。
水の「形」。
水の「性質」。
うねりの一つ一つはドリルのように回転し、伸縮する。イノセントたちに逃げ場はなかった。少なくとも、地上を徘徊していたものたちにとっては。
ドドドドドドッ
かざねの放つ量子エネルギーは、あっという間に広間を覆い尽くす。限りなく水に近い性質を持つ“それ”は、鋭い切先を持つ「点」にもなり、また、「線」にもなっていた。上空から見下ろせば、水の衣を纏った「花」が、その大きな花弁を広げたように見えただろう。
弾ける水の輪。
四方に向かって伸びた、——水流。
跳躍した水のうねりが、イノセントの体を貫いていく。
彼女の落下地点から、ビルとビルの〈隙間〉がほとんど無くなっていく。整然としながらも無秩序だった。多方向に分散したエネルギーの軌跡が、地面の上に残ったのは。
「…1、2。2体はやり損ねたか。まあしょうがない。物陰にいたんじゃね」
かろうじて被弾は避けたイモータルのうち一体は、左足を負傷し、立ち上げれなくなっていた。もう一体は立体駐車場の柱の影にいた。太い円柱が壁になったことで、直撃を免れていた。
——同時刻
地上への落下を試みるイノセントが、2体いた。「ツインタワービル」56階からの跳躍。飛び出した窓枠の足元で、散らばっていたガラスが飛散する。
イノセントたちの身体能力は、個々によってばらつきがある。それはあらゆる地上生物にも言えることだが、“イノセント自体”には、特有の固有情報(遺伝子情報)が存在しない。正しくは、遺伝子情報が一つの枠組みに中に“構成されない”と言った方がいいだろう。彼らは自らの体内情報を外に流出することができ、かつその生体領域に於いてあらゆる情報の組み換えを“断続的に”行うことができる。言い換えれば、ビデオの中に保存された映像を部分部分で自由に入れ替えることができ、その上で、1つの「時空間情報=X座標」を消失しない。つまり一つの個体として存在しながらも、“特定の情報境界=遺伝子配列のコーディング領域が無い”超臨界状態にあるとされており、物質としての外側と内側、——1個の生物として完全な機能をもつ最小の単位が、常に剥き出しな状態にあるとされていた。イノセントの体がモヤのような「影」で構成されているのは、そのためだ。
かざねのいる地上に向かって降下を始めた2体のイノセントは、「無色エネルギー」と呼ばれる量子エネルギーを自らの体表の外に展開する。イモータルと違って彼らには細胞の「色」がなく、細胞内の遺伝子情報は絶え間なく結合と分離を繰り返している。言ってしまえば、あらゆる【情報】を出し入れすることができる1つの容器に、絶え間なく高分子エネルギーが循環している状態にあると言える。人間と違って特定のアルゴリズムを持つ脳幹細胞(三次元神経回路)がないため、知能は低い。そのかわり全身が情報処理を行うための特殊なニューラルネットワーク(神経ネットワーク)で構築されており、ある単一な事象(根元事象)に於ける思考速度や反応速度に関して言えば、人間の肉体構造的な連動性と可動域を遥かに凌ぐ。
彼らには「意志」が無いと言ってもいいだろう。周りの物質や情報を「喰う」ためだけに活動していると言っても良く、その根源活動の源にある“目的“も、ある意味不透明な状態にあると言っていい。思考の「壁」になるものが存在しないのだ。何を「して」、何を「しない」か、その取捨選択の境になるものが何もなく、一つ一つの行動に対して優劣をつける判断基準が介在しない。
雨や台風が、通過する場所を「選ぶ」ことがあるだろうか?
地震や津波が、「意志」を持って行動することがあるだろうか?
彼らは自然現象の【現象間】に行き来する“物事のありのままの状態”と言っても過言ではなく、そこに善も悪も介在することがない。かざねに向かって攻撃を展開する。その思考速度でさえ——
イノセントの一体は空中へと飛翔しながら、地上に向けて右腕を後方へと捻る。手のひらには黒いエネルギー体がボール状に膨れ上がっていた。回転し、密度を凝縮させていく。並行するように、もう一体のイノセントも後方に向かって左腕を伸ばしていた。融解する細胞。密接に絡み合っていく粒子。自らの「細胞」を外へと拡張し、自身の体を変形させていく。
引き伸ばされていく分子と、——実線。
イノセントは、細胞間に於ける物質の互換性が常に“裸”の状態にあると言える。物質としての境界がなく、また、その領域を制限する「幅」もない。そのため、彼らの取り扱うエネルギーの流域は、ある特定の「ガイダンス」を持たない。細胞外マトリックス。端的に言えば、彼らにとっての「細胞間ネットワーク」は、彼らの肉体を構成する体表の内側に属しているわけではなく、空間の内側に“連続している“。彼らが展開した量子エネルギーは、ある種歪な形状をしていた。影に似た濃い靄が立体空間上に表出し、質量を帯びる。その表面上は黒く、電流のようなスパークが周囲に飛び交っていた。
空間を歪めるほどの、激しい奔流が。
バチッ
バチバチッ
背後へと捻った右腕の先端から、凝縮されたエネルギーが織り込まれていく。自らの体が地面へと衝突するまでのわずかな距離。空中へと飛び出してから、ほとんど同時だった。同時に進行していた。急速に圧縮される量子エネルギーの“回転軸(角運動量)“が、ある1点に膨張しはじめたのは。
バッ
2体のイノセントから放たれた一撃。彼らの量子エネルギーには〈色〉が無い。それは先述した通りだが、それは単に視覚的な状態についてを述べているわけではない。彼らはイモータルと違い、自らの思考の中に描くイメージを活かして、エネルギーを”出力しない“。彼らの攻撃手段とその方法は、体外へと拡張した神経ネットワークの回線によって、単位時間あたりのスカラー場を形成する。彼らにとっては、空間も自らの「体表」の一部だ。それ故に、かざねへと放った一撃には特定の座標軸と“質点”を伴っていなかった。不規則な形状と輪郭。液体でもあり、固体でもあるもの。量子的な〈色のなさ〉、——それは物質としての原子配列が常に“連動できる流域にある”状態を指す。
『黒の弾道』
人々が名付けた「名前」だ。
物質としての形状(単一的な境界面)を持たない彼らのエネルギー流域に、対して。
スパークを帯びたエネルギーの球体が空中で解放されるや否や、その弾道は空間の〈溝〉を突いた。飛び出したエネルギーの直径はバスケットボール程度にも満たないが、その質量はずっと深い。進行方向に向かって楕円形に圧し潰されていく。
垂直に落下する軌道。
加速する重力。
ボッ
地面へと着弾する。
広間を覆っていたブロック舗装が波打ち、地面の表面が持ち上がる。抉り取られる地表と、巻き上がる粉塵。その威力は凄まじかった。着弾ポイントから周囲へと伝播していく波動が、廃墟ビル群の瓦礫の山を吹き飛ばす。衝突時の衝撃によって生じた爆風は、地面に埋まった電柱の根元を引き剥がすほどだった。街路樹の幹が倒れ、錆びついた車の車体を揺らした。
あっという間だった。
地形の輪郭が変わったのは。
イノセントたちは即座に次の行動に移っていた。衝突範囲を狭めない地上への投擲は、かざねへの直接攻撃を狙ったものではない。空間の中に伝わる電磁波の流れを読み取り、かざね自身の危険性を即座にキャッチしていた。
地上へのダイブ。
巻き上げられた粉塵によって視界が遮られていたが、関係なかった。イノセントたちには光のエネルギーを感知するための器官が備わっていない。すなわち、人間の体に備わっている「視覚」は元より存在しておらず、周囲の電磁波の流れや熱の流域によって空間の状態と広さを把握する。彼らにとっての「視覚」は、空間上に広がっている”面そのもの“だった。局所的な部分を捉えるのではなく、“全ての角度、方向から”、物の形や動きの識別ができる。
対象をいろいろの見地から見ることができる複眼——
そう言った方が良いだろうか?
あらゆる場所と箇所に設置された、無数のカメラレンズを通した世界。そのレンズの先に映し出されるのは、全方位からの立体映像だ。イノセントは“把握していた”。かざねの位置を。「場所」を。
ドンッ
爆風が周囲へと振り撒かれている中、2体のイノセントは垂直に地面への落下を試みていた。ブレーキをかける「間」などなかった。急降下し、衝突する。爆風の中心からコンマ数秒の間に起こる2度目の衝撃波。降下した中心から再び波が“起こり”、地面が逆立つ。
ゴオオオオオオッ
垂直に落下した真下には、衝突エネルギーによって波打つ振動が、街の地形を変えていた。倒壊するビル。雲のように舞い上がる粉塵。周囲は荒れ狂う波間の中に勢いよく倒れ込み、巨大なサークルを形成する。爆風半径の数百mは、すでに元の街の形を失っていた。それほどまでに強烈だった。狙い定めた、その〈一撃〉は。
衝撃による煙が収まらぬ中、イノセントはかざねの“真上”にいた。伸び切った右腕と、滴る血液。地面への降下を試みた渦中、空中で静止したように立ち止まったシルエットが、立ち上がる粉塵のそばにあった。摩擦によって燃え上がる空気と、焦げ臭い匂い。
”1体はすでに死んでいた“
衝突のエネルギーが地平面上で解放される最中、歪な曲線が、空間の内側へと伸びていた。立体空間上に伝播していく波が交錯していた。衝撃によって生じた音の断面は硬直したように遮られ、僅かな凹みもなく横断していた。
ビルとビルの境目。
——その、“中央“に。
ズッ
イノセントの一体の胸を貫いていた一本の「腕」。それは、イノセントの右腕もろとも細胞の壁を破り、急激な物質の変化とその歪曲を生んでいた。地上への降下時間は5秒にも満たない。かざねへの距離は、すでに直線上の中にあった。真っ逆さまに落ちていた。攻撃を命中させるには、十分すぎるほどの近さだった。
彼女の肉体への接触を、敢行するには——
「グガッ……」
イノセントが足を踏み入れたのは、かざねが展開するフィールドの中だった。地上のイノセントを殲滅した後、向かってくる上空からの攻撃に備えた彼女は、自らの体の外側にシールドを展開していた。ドーム状に広がった何重もの膜は、急速な回転を帯びる。“水”のイメージを具現化する彼女にとって、ある物体の形状を立体的に操作&構築するのは造作もないことだった。シールドは回転を帯びながらも膨張し、粒子と粒子の密度を高めていく。
しかし猶予はなかった。
上空からの攻撃は、シールドを展開し終えたその直後には、地上への落下を終えていた。垂直に到達していた。
水の粒子と皮膜、その、——懐へ。
彼女がシールドの形成のみに行動を限定化していれば、あるいは、間に合わなかったかもしれない。
“戦闘の優位性は、常に連続的な動きの中にこそ、継続して生ずるものだ”
そう教えられてきた彼女にとっては、シールドの展開はあくまで補助的な役割に過ぎなかった。ビルとビルの間に生じた衝撃波は、確かにイノセントが投じたエネルギーの着弾によって生じたものだった。
しかしその実、着弾した箇所は「地面」ではなかった。
空中。
その表層だった。
エネルギーが不時着し、弾けたのは。
意識の及ぶ平面上。
かざねの展開する量子エネルギーは、外部への出力、——つまり空間と地面とを繋ぐ境界面上に展開されていた。イノセントが放ったエネルギー弾をシールドの表面に受け止める最中、シールドの球面上には、敵の攻撃を受け流す「流域」が発生していた。水のイメージを最大限に拡張し、エネルギーを上から下へと“流せる”物理的な経路を生成する。滝の中に鳥が突っ込めば、あまりの水の勢いに体ごと呑み込まれてしまうだろう。
氾濫する川の流れも同様だ。何万リットルもの濁流の中に人が落ちれば、なすすべもなく押し流されてしまう。かざねが形成したシールドには、その表面上に凄まじい回転とエネルギーが生み出されていた。と、同時に、水の“イメージ”の中に「液体としての構造相転移=流動性」も混ぜ込ませていた。敵の攻撃を吸収し、エネルギーそのものを地面へと受け流すためだ。シールドは攻撃を受けるだけでなく、「流す」ための役割を果たしていた。
全ては、次の攻撃に備えるために。
——次
エネルギー弾を投擲したイノセントの次の行動は、かざねの「命」を狙う“弾丸”のようなものだった。高層ビルからの落下は、それだけで強烈な落下エネルギーを生む。コンマ数秒のうちに起こる自由落下への所作。跳躍。
かざねはわかっていた。
イノセントが落下してくること。
その渦中に生じるエネルギーの大きさが、時間を追うごとに“速く”なること。
イノセントとの戦闘は“空間認識能力”がもっとも肝心となる。それは敵の移動範囲が空中や地面を問わず、地面の「内側」にまで及ぶためだ。レベル5(ファイブ)のイノセントともなれば、その身体能力は対イノセント用の一小隊を殲滅させるほどの脅威となる。真正面からぶつかり合うことは、生身の人間が、向かってくる電車の真正面に立つことにも等しかった。
“通常”であれば。
しかしこの場面。
相対する二者間の間によって生じた凄まじい衝撃波の波紋は、決してイノセントの優勢とその「脅威」を示唆するものではなかった。イノセントに「意思」があれば、かざねのフィールドに立ち入ることを躊躇しただろう。それほどまでに、二者の間には決定的な力の差があった。かざねは“第6地区”の特務捜査班の中で、ナンバー2の実力者だった。イモータルには戦闘員としての技術と訓練を受ける者もいれば、人々の生活の中で特別な職を持っている者もいる。
医療施設の職員や、工場で働く者。
カフェの経営者や大工。
その形態は様々だ。
かざねは生まれながらの前者だった。
イノセントを殲滅するためだけに訓練を積み、特別な待遇を受けてきた存在。一部の人たちからは、“使い捨てのモルモット”という蔑称を受けていた。彼女は、『神々の実験』と呼称される傭兵養成プログラム、「スカイ・ビークル」の一員だったから。
かざねへと直接攻撃に転じていたイノセントの一体は、拳を振り下ろすことに躊躇はなかった。敵の命を断ち切ること。そのために必要なエネルギーの一切は、彼らにとっての「呼吸」にも等しい所作である。
自律する神経系。
反射的に動く筋繊維。
それらはまるで自然の法則のど真ん中を横断するように、なんの歪みもなく“通過”していた。着弾までの断片的な間合いや距離は、すでに思考の“外”だった。シールドのある無しに関わらず、イノセントは落下する重力の「底」にいた。
かざねの心臓の近くへと。
ボッ
シールドの表面、すなわち形成された量子エネルギーの外殻に触れるや否や、イノセントの右腕が吹き飛ぶ。それは回転するエネルギー流域に引き裂かれたからではなく、外殻の内側から伸びてきた「一撃」に、細胞ごと弾き出されたからだった。
かざねは待ち構えていた。
落下してくる「地点」を。
量子エネルギーの流域は球面上に渦巻きながら、圧縮された密度をある一定の範囲内に集束させていた。シールドは敵の攻撃を「受け」流す。そしてその受けの部分においてエネルギーを一部吸収し、自らの体内へと変換していた。——外部への、出力へと。
水のイメージは常に彼女の“領域”だ。彼女自身に纏わるすべての行動や選択は、たった一つの攻撃の細部へと、その量子範囲を拡大できる。イノセントへと放った一撃は、流動するエネルギーの「水面」の中に伸縮し、自由な変遷を奏でていた。水のように泡立ち、また、漂流する。海の中で鯨が飛翔する。まるで“魚”だった。水の中に溶け込んだ“波”、——そのもの。敵のエネルギーを吸収しながら、それを別のエネルギーへと変換する。その伝達経路には水特有の「流体」が反映されており、物質内の原子あるいは分子の結合する力が、熱振動(格子振動)よりも弱くなる。
液相。
構成する粒子が互いの位置関係を拘束しないために自由に移動することができる『領域』。彼女はその「場所」に立っていた。
媒体としての伝送線路に。
バシャァァァァ
液体の表面・内面上に於いて、かざねは跳躍する。
——正しくは、自らの筋繊維の内側にまで伸ばしたエネルギーの“奔流”を掴む。
シールドの内側に連動させた量子の流体は、彼女が形成した流域の壁の中でエネルギーの濃度を高めていた。容器の中に入れた水は、その容器の大きさに応じて圧力を高めていく。逆に容器としての壁(閉じ込められる仕切り)がなければ、水は外に逃げ出してしまう。壁の内側に圧縮させた粒子を寄せ集めたまま、彼女は左腕を動かしていた。シールドの界面に到達したイノセントの右腕を弾き、撥ね上げる。繰り出された一撃はイノセントの体を貫いていた。肉片が宙に飛び散りながら、空間が縒れる。浮かび上がる空気の振動。
——音。
もう一体。
地面への落下を終えた2体目のイノセントには、彼女への攻撃を敢行できる〈距離〉があった。最初の一体は真正面から彼女のテリトリーに侵入した。彼女が形成する、量子エネルギーの流域圏へ——
が、もう一体のイノセントは違った。
方向転換をしたわけではない。
最初から、落下地点を指定していた。
シールドの「外」
その、水平方向へと。
ギュンッ
全身を捻りながら、シールドの側面を切断するためのエネルギーを形成する。
“斧”
その形状は、鋭い曲面の真ん中にあった。地面へと踏み込む足。回転を帯びながら加速する遠心力。シールドの流域は上下方向、——すなわち、上から下にかけての回転によって動いていた。2体のイノセントは互いに連携を取っていた。それは神経系の細胞を外へと拡張できる彼らだからこそできる、芸当だった。人が息を合わせるのとはわけが違う完全な「同調」。筋肉の繊維まで細胞レベルに合わせ、動きをリンクする。
イノセントには呼吸をする器官が備わっていない。人は呼吸、および空気中の酸素を体内に取り込んで、全身の筋肉を動かす。血液中の酸素の濃度が低いと、その分動きは鈍くなる。俗に言われる「スタミナ」は、人が持つ制限付きの行動量と言い換えることもできるだろう。100m走で最初から最後まで最高速を保つことができても、200m、300mとなると話は変わってくる。
しかしイノセントにはそれがない。それは「体力」という面についてもそうだが、裏を返せば、瞬間的な動作に対する“予備動作”についても同じことが言えた。
ドッ
イノセントは自らの腕を変形させていた。
変形させ、ある一点に力を集約させる。
回転する軸。
ゴォッと唸る風切り音。
ゴッ——!
シールドの表面にぶつかる。
歪な斧の形に変形した敵の腕が、垂直方向に回転するシールドの上っ面を叩いた。
ぶつかった拍子に湾曲する表面。
しかし、届かなかった。
斧は根本から折れたように崩れ去った。
イノセントは急ぎ体勢を整え、変形した壁が元に戻らないうちに次の攻撃体勢へと移行。
右。
その手のひらの上だ。
高密度のエネルギー弾を生成したのは。
地面に到達した時点で“もう一体”が取っていた行動。
それはかざねへの直接的な攻撃を実行するものであっても、回転しようとする攻撃の軸を“拡げる“ものではなかった。
シールドを砕く
そのためだけに注力された敵のモーションは、すでに単一の意識の中にゆり動いていた。
この時、上空には倒壊するビルの被写体が、あった。
地面へと落下する瓦礫。
崩れた地面の傾斜によって、その中心に倒れ込むように吸い込まれていく周囲の物体が、空を覆う。
かざねとイノセントの足元はまだ、かろうじて地面が残っていた。かざねが受け流した敵の攻撃は、ビルの側面、——その建物の足元を抉りながら爆風半径を広げていた。地面も当然のように抉れた。が、周囲を破壊しながら円形に広がっていく衝撃波は、一度かざねの量子流域を媒介したせいで、その威力を落としていた。地面がまだらに崩れたのはそのためだ。イノセントは即座に連撃をぶつける。至近距離からのエネルギー弾。迸るスパーク。
かざねは溜め込んだシールド内のエネルギーを、自らの身体エネルギーへと変化していた。ただ、その効力は一時的なものに過ぎない。同様に、シールドの表面上に吸収できるエネルギーの「量」にも限りがあった。
吸収と出力は同時には制御できない。
——いや、それは時と場合にもよるが、この場面においてはコントロールできない領域があった。
彼女の展開した量子流域は上から下へと流れていた。
構造上、横からの衝撃には弱い。
イノセントの攻撃によるその衝突の入射角は、ほとんど“水平”だった。壁の層を厚くして防いでも、それを壁の強度のみで防ぎ切ることは至難の業だった。第一にシールドの強度はすでに弱まっていた。上空からの敵の攻撃を防ぎ、それを一部吸収したとは言え、構成した壁の強度に変化があったのは事実だ。だからこそ2体のイノセントは多方向からの攻撃を実行しようとしていた。それぞれ別の角度からの攻撃。1体目の攻撃は失敗に終わったが、2体目の攻撃は届いた。この時点で、シールドの表面は脆く、薄くなっていた。
それでも最初の斬撃を防げたのは、敵の攻撃の接触の間際に、内側から発した外へと広がるエネルギー波を展開したためだ。水平に侵入しようとしてくる『斧』の鋒を弾く。かざねの量子流域は、すでに別の“モード”へと移行していた。敵の斬撃を弾くや否や、その流域の向きを内側へと滑り込ませていた。
内側。
エネルギーの粒子が重なり合う、高分子ネットワークの内側へ——
ドンッ
イノセントの手のひらに収縮したエネルギー弾が、シールドの側面にぶつかる。この時、かざねとイノセントの頭上には、倒壊したビルの塊が重力落下の渦中にあった。エネルギー弾の接触と同時に、周囲に伝わる衝撃波が膨れ上がる。強烈な波紋がシールド表面上に持ち上がり、激しい空間の歪みが全方向へと伝播する。急速に変形するシールド。ジジジジと飛び散るスパーク。流れる時間の中で、モクモクと煙が立ち上がった。ビルが地面へと落下したことによる衝撃。
その、——崩壊によって。
ブゥゥゥゥゥン
かざねが最初に視認したイノセントの数はざっと十数体。そのうちの大半は「地面」にいた。しかし残りの“3体”は、ビルの上階、——及び屋上にいた。
地上に飛び降りたのは2体。1体はまだ、上空にいた。
50階建てのビルのてっぺんに。
大弓の形に変形させたエネルギーを、ギチギチと後ろに引く。屋上にいたイノセントは、狙い澄ませていた。シールドが破壊できない可能性に対し、事前に連携を取っていたのだ。矢を放つタイミングはちょうど、——今
その選択は時間の経過に乗じて加速した。シールドが“破壊されている”という認識。その認識の渦中に、最大出力の矢を放つ。
ボッ——!
矢が放たれたと同時に、着弾地点から閃光が迸った。ビルの屋上に待機して、矢が放たれるまでの十数秒。イノセントは自らのエネルギーの一切を、一本の矢に注力していた。時間をかけたことによって、その“張力”は膨れ上がっていた。
矢が放たれるまでの直線的な質量と密度。屋上から放たれた一投は、ビルが倒壊した直後の地面の揺れを加速させ、——また、膨張させた。
瞬く間に周囲にエネルギーが行き渡った。
噴水のように煙が垂直に持ち上がり、大気が揺れた。
吹き飛ばされた地面とその瓦礫が、凄まじい衝撃波とともに飛び上がっていた。
強風によって千切れた粉塵が、渦を巻きながら。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ…
かざねの生体反応はすでにない。
イノセントの認識は、ほんの一瞬の間その「理解」を深めていた。
確かに生体反応はなかった。
かざねと思われるエネルギー体は、確かに地上から消えていた。
プク
プクプク
水蒸気。
かざねは、水のイメージを具現化できるイモータル。
その領域は分子レベルにまで“拡げる”ことができ、あらゆる形状、状態変化にまで、その範囲と〈量〉をコントロールすることができる。
【モード】の変化。
かざねが移行していたのは、ガード状態からの“分解”だった。
水の壁の内側である一点に収縮する力を、多方向へと分散させる。
固体から液体へ。
液体から気体へ。
”物質の三態“
あらゆる物質は温度や圧力に応じて、固体・液体・気体という、いずれかの状態をとる。
かざねは「水」という物質のイメージの中心で、自らの細胞を極限にまで“縮めていた“。体を小さくしようとしていたのではない。1つ1つの細胞の粒子を、小さく、隙間の無い空間の中へと押し込めようとしていた。全身を断裁機で切り刻むように。——また、すり潰したりんごの果汁を、ギュッと搾り取るように。
地上にいたイノセントの攻撃は、確かにシールドの外殻を壊せるだけの力を持っていた。だが、かざねはこの時すでにシールドの外側へと飛び出すだけの「準備」を、試みていた。敵のエネルギー弾が衝突することによって生じた熱。この「熱」は表面温度が数千℃にまで上り、水を一瞬で蒸発させるだけのエネルギーを伴っていた。無論、かざねのシールドは水のイメージを具現化したものに過ぎない。その「性質」も物質としての「特徴」も、“似て非なるもの”と言った方がいいだろう。実質、そのシールドの強度は、水で構成されたとは思えないほどの柔軟性と硬度を伴っていた。液体では到底実現し得ない圧縮強度を。
しかし、イメージの及ぶ範囲はあらゆる分子レベルの“流域”に及ぶ。敵の攻撃を受けた時、かざねはその外力である「熱」を利用して、自らの体内を瞬時に気化、——膨張させていた。数千℃にも及ぶ敵のエネルギー量は、大量の水蒸気を急激に発生させるだけの作用点を運んでいた。変形したかに見えたシールドの外殻は、膨大なエネルギーを放出する中で生じた、変遷だった。
バッ
上空に飛翔する影。
それは3体目のイノセントの“頭上”を捉えていた。
爆発的に伸び上がる気体と、白い煙。
生体反応とその質点が不安定になるほどの蒸発速度。
それが、瞬く間に空間の上層を覆っていた。
【モード・スチーム】
水蒸気となってビルの屋上へと飛翔した彼女は、自らの形状を元に戻す。
イノセントはその気配をすぐさまキャッチした。
しかし——
ギュンッ
空間を蹴る。
大気が軋む。
かざねの右手には無色透明な水の粒子で構成された「剣」が、その鋭い切先を伸ばしていた。
超高密度の分子で押し固めた刃、瞬水剣。
蒸気から固体への形状変化は、まだ完全には移行しきれていなかった。
ただ、かざねの移動速度はすでにイノセントの意識の“外側”にあった。
振り向いた先には、彼女の「影」が横断していた。
ビルの屋上のコンクリートに伸びる、剣を振り翳したシルエット。
大気の揺れの最中に屈折する光。
その“粒”が躍動する影の中にゆらめき、重力が加速する。
ザンッ
その“一閃”は、ビルの上層に一本の線を敷いた。
コンクリートの床。
そして、——壁。
布をハサミで切るように、また、えんぴつで線を引くように、ビルの上層が2つに“裂ける”。
煙が上がる間もなかった。
かざねの振り下ろした剣筋がその軌道線上に通る間際、ビルとその立体構造を形作る「空間」は、まだそこにあった。
線を紡いでいたのだ。
日差しと大気と影、——その、被写体を映し出す輪郭の真ん中に。
ズザァァァァァァ
滑走する空気。
裂け目から溢れる、斬撃の余波。
瓦礫と化したビルの一部は、時間の経過とともに落下を始めた。屋上の床は半分に切り裂かれ、ビルの上階は、斜めに滑り落ちていく。イノセントの体は斬撃を中心として2つに分かれていた。上半身は、落下する瓦礫と一緒に地面へと遠ざかり、暗闇の底へと沈んでいった。
かざねは空中に“立っていた”。
周囲を警戒していたのだ。
生き残りがいないかどうか。
その、確認を。
振り下ろした剣がその役目を終え、蒸気となって消失する。
その頃には、ズズゥゥン…という落下音が周囲へと響き渡っていた。
イノセントはその「核」を破壊され、すでに息絶えていた。
半分になったビルの屋上にトッと着地し、フゥ…っとかざねは息を吐く。
地平線上で日が沈む10分前。
ハンドバックの中にある無線で連絡を入れていた。
「これから帰ります」
ため息混じりに、そう呟き。




