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棋聖の孫、江戸に立つ ~盤上の記憶譚~  作者: 一進(にのまえすすむ)
第2章 現代・高校将棋部編
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第30話 終局の先に

俺が打った8八の歩を、

五平はじっと見つめていた。


その表情は、動かない。


静寂の中で、

俺の胸の鼓動が激しく鳴り響く。


やがて――


五平は駒台に置かれた金へ、

ゆっくりと手を伸ばした。


そして、迷いなく盤に置く。


▲2四金打。


やはり、8八の歩を放置して、

攻めの手を指してきた。


俺は、取るしかない。


△同角。


重い指先で5一の角を摘み、

金を払う。


ここで――▲同歩なら。


角は取られる。


だが、その瞬間に8八の歩で8九の桂馬を取り、

五平の玉に迫ることができる。


まだ、勝負は分からない。


――そのはずだった。


しかし、やはり五平は歩ではなく、

駒台の銀を掴んだ。


目が、わずかに見開かれる。


そして、その銀は、

静かに盤へと置かれた。



▲2三銀打。



銀のただ捨て。


8八に歩を置くまで、

俺の読みから、完全に抜け落ちていた一手。


……逃すはずがない。


五平が、この一手を。


△同玉には▲2四歩。

角を取った手が、そのまま王手になる。


△3三玉と引いても、▲3四歩打。


どちらの局面も、

受けきれない。


分かっている。


長い沈黙。


それは――

敗北を受け入れるために、

必要な時間だった。


そして――△同玉。


力なく、玉で銀を取る。


五平は、一拍おいて――▲2四歩。


俺は、押し寄せる後悔の中、

じっと盤を見つめていた。


これで、玉が上に上がっても、

下に下がっても、

俺の玉の逃げ場所は――ない。


逃げ道を塞ぐ5三の金が、

そこにある。


「……負けました」


かすれた声が、思ったよりも小さく響いたが、

それ以上の言葉は出せなかった。


(……どうして……)


2三の銀。


見えなかった一手。


胸の奥に、遅れて痛みが広がる。


言葉が出ない。


長い静寂。


ただただ、自分が情けなく、

悔しかった。


「……いい勝負だった」


不意に、五平が口を開いた。


「……え?」


思わず顔を上げる。


五平は、まっすぐに俺を見ていた。


「間違いなく――

 私がこれまでで、最も熱を感じた将棋だ」


その言葉には、一点の曇りもなかった。


「蓮は、違ったか?」


胸が、詰まる。


「……俺は」


喉が乾く。


「自分が情けなくて……

 五平が、ずっと待ってくれていたのに……」


五平は何も言わず、俺を見つめている。


「こんな見落としで、

 俺は対局を台無しに……」


思わず、声が震える。


「蓮」


五平は、ゆっくりと首を横に振り、

俺をまっすぐ見つめた。


「……見落とし、後悔。

 全て含めて――将棋という営みだ」


静かな声。


だが、その言葉は、

俺の胸の奥に、確かに届いた。


「私が長い間、追い求めてきたもの。

 宗歩様のもとを離れてから、

 決して得られなかった、この熱……」


五平は、ゆっくりと目を閉じた。


「間違いなく、其方は――

 この対局で、思い出させてくれた」


そして、目を見開き、俺に目を向ける。

その視線は、揺らがない。


俺の胸の奥が、じんわりと熱くなった。


「今日は、私が勝った。

 だが――これで終わりではない」


五平は、盤に目を落とした。


「私たちの将棋は、これからも続いていく。

 将棋を捨てず、指し続ける限り。

 ……そうであろう?」


「五平……」


胸の奥で、何かがほどけた。


そうだ。


俺たちの将棋はこれで終わりじゃない。


「……うん。

 次は俺も負けない」


「うむ、その意気だ」


五平の口元が、やわらかく緩む。


すると――

五平の頬を、

一筋の涙が、静かに伝った。


「……五平?」


「いや……」


五平は、ゆっくりと首を振った。


「これは、私の涙ではない」


一呼吸置いて、続ける。


「悟平殿の……涙だ」


その視線は、盤へ向けられている。


「記憶が……流れ込んでくる。

 将棋の熱が……」


言葉が、途切れる。

俺は、小さく頷いた。


「そうか……良かった」


その言葉を口にしたとき、

はっきりと分かった。


俺も。

五平も。

悟平君も。


一度は、盤から離れたり、

迷ったりした。


だけど――


将棋は、

捨てられるようなものではなかった。


たとえ遠ざかっても、

また盤の前に座ってしまう。


これからも。





――そのとき。





目の前の盤が、淡く光を放ち始めた。


それは。


俺が江戸で見た、同じあの光。


そして、その光は――


吸い込まれるように、五平へと向かった。

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