第30話 終局の先に
俺が打った8八の歩を、
五平はじっと見つめていた。
その表情は、動かない。
静寂の中で、
俺の胸の鼓動が激しく鳴り響く。
やがて――
五平は駒台に置かれた金へ、
ゆっくりと手を伸ばした。
そして、迷いなく盤に置く。
▲2四金打。
やはり、8八の歩を放置して、
攻めの手を指してきた。
俺は、取るしかない。
△同角。
重い指先で5一の角を摘み、
金を払う。
ここで――▲同歩なら。
角は取られる。
だが、その瞬間に8八の歩で8九の桂馬を取り、
五平の玉に迫ることができる。
まだ、勝負は分からない。
――そのはずだった。
しかし、やはり五平は歩ではなく、
駒台の銀を掴んだ。
目が、わずかに見開かれる。
そして、その銀は、
静かに盤へと置かれた。
▲2三銀打。
銀のただ捨て。
8八に歩を置くまで、
俺の読みから、完全に抜け落ちていた一手。
……逃すはずがない。
五平が、この一手を。
△同玉には▲2四歩。
角を取った手が、そのまま王手になる。
△3三玉と引いても、▲3四歩打。
どちらの局面も、
受けきれない。
分かっている。
長い沈黙。
それは――
敗北を受け入れるために、
必要な時間だった。
そして――△同玉。
力なく、玉で銀を取る。
五平は、一拍おいて――▲2四歩。
俺は、押し寄せる後悔の中、
じっと盤を見つめていた。
これで、玉が上に上がっても、
下に下がっても、
俺の玉の逃げ場所は――ない。
逃げ道を塞ぐ5三の金が、
そこにある。
「……負けました」
かすれた声が、思ったよりも小さく響いたが、
それ以上の言葉は出せなかった。
(……どうして……)
2三の銀。
見えなかった一手。
胸の奥に、遅れて痛みが広がる。
言葉が出ない。
長い静寂。
ただただ、自分が情けなく、
悔しかった。
「……いい勝負だった」
不意に、五平が口を開いた。
「……え?」
思わず顔を上げる。
五平は、まっすぐに俺を見ていた。
「間違いなく――
私がこれまでで、最も熱を感じた将棋だ」
その言葉には、一点の曇りもなかった。
「蓮は、違ったか?」
胸が、詰まる。
「……俺は」
喉が乾く。
「自分が情けなくて……
五平が、ずっと待ってくれていたのに……」
五平は何も言わず、俺を見つめている。
「こんな見落としで、
俺は対局を台無しに……」
思わず、声が震える。
「蓮」
五平は、ゆっくりと首を横に振り、
俺をまっすぐ見つめた。
「……見落とし、後悔。
全て含めて――将棋という営みだ」
静かな声。
だが、その言葉は、
俺の胸の奥に、確かに届いた。
「私が長い間、追い求めてきたもの。
宗歩様のもとを離れてから、
決して得られなかった、この熱……」
五平は、ゆっくりと目を閉じた。
「間違いなく、其方は――
この対局で、思い出させてくれた」
そして、目を見開き、俺に目を向ける。
その視線は、揺らがない。
俺の胸の奥が、じんわりと熱くなった。
「今日は、私が勝った。
だが――これで終わりではない」
五平は、盤に目を落とした。
「私たちの将棋は、これからも続いていく。
将棋を捨てず、指し続ける限り。
……そうであろう?」
「五平……」
胸の奥で、何かがほどけた。
そうだ。
俺たちの将棋はこれで終わりじゃない。
「……うん。
次は俺も負けない」
「うむ、その意気だ」
五平の口元が、やわらかく緩む。
すると――
五平の頬を、
一筋の涙が、静かに伝った。
「……五平?」
「いや……」
五平は、ゆっくりと首を振った。
「これは、私の涙ではない」
一呼吸置いて、続ける。
「悟平殿の……涙だ」
その視線は、盤へ向けられている。
「記憶が……流れ込んでくる。
将棋の熱が……」
言葉が、途切れる。
俺は、小さく頷いた。
「そうか……良かった」
その言葉を口にしたとき、
はっきりと分かった。
俺も。
五平も。
悟平君も。
一度は、盤から離れたり、
迷ったりした。
だけど――
将棋は、
捨てられるようなものではなかった。
たとえ遠ざかっても、
また盤の前に座ってしまう。
これからも。
――そのとき。
目の前の盤が、淡く光を放ち始めた。
それは。
俺が江戸で見た、同じあの光。
そして、その光は――
吸い込まれるように、五平へと向かった。




