第29話 2三の銀
駒台から掴んだ銀。
指先に、ひやりとした感触が伝わる。
それを盤上に打ちつけた瞬間――
俺の手は、確かに震えていた。
△7七銀打。
駒が盤に触れる乾いた音が、
静まり返った室内に、短く響く。
五平の目が、わずかに見開かれた。
一瞬の静寂。
五平の8九の桂。
7八の金。
8八の玉。
三枚の利きが集中する急所、7七。
対して、俺の利きは――
7六の歩、ただ一枚。
一見すれば、
▲同桂と、あっさり取られてしまいそうな銀。
しかし――
桂で銀を取られた瞬間、
△8六飛。
歩を取りながら王手。
▲8七歩と、飛車に当てて受けられても、
今度は△7七歩成と、7六の歩で桂を奪う。
これは王手だ。
五平は、俺の飛車を取っている暇はない。
と金を、金で取ろうと玉で取ろうと、
そこで、△2六飛。
角を素抜く。
一枚の銀は渡すが、
2枚目の6五の銀は守れる。
角を手持ちにし、飛車も成り込める。
(これなら……戦える!)
胸の奥で、小さな火が灯る。
五平は、静かに俺の銀を見つめている。
長い、沈黙。
そして――
その口元が、わずかに緩んだ。
その笑みを見た瞬間、
胸の奥に小さな不安が走る。
ひょっとして、
この手は、甘いのか。
(……いや)
この顔を、俺は知っている。
江戸で。
銀を取られそうになったあの局面。
桂を犠牲にして、銀を助けた一手。
「凄い」と言ってくれた、
あのときの五平の表情。
同じだ。
この一手は、届いている。
そして、五平は、
一切の無駄がない所作で、
静かに姿勢を正す。
盤へと伸ばした指が掴んだ駒は――
王の駒。
(……何だって!?)
銀を取るなら、
掴むべき駒は桂のはず。
だが五平は、王を持ったまま、
そのまま盤上を滑らせる。
▲7九王。
王が盤を擦る音。
やけに大きく、耳に残った。
(……まさか……引くなんて)
俺の第一感も、
確かに王を引く手だった。
しかし、長考の中で――
この手は無いと結論付けた手。
確かに2六の角の素抜きは防げる。
しかし、打った銀で7八の金を取ったあと、
その金を3六に打てば、
飛車と角の両取りになる。
だが――
五平もそんなことは百も承知だろう。
それを分かった上で、指している。
背筋が、ぞくりと震える。
俺と五平の読み。
どちらが上回っているのか。
(……勝負だ!)
△7八銀成。
金を取り、成銀を盤に置いた瞬間、
自分の鼓動が耳元で鳴った。
五平は、迷わない。
▲同銀。
当然の応手。
そして――
俺は、息を止める。
△3六金打。
飛車と角の両取り。
五平は、わずかに顎を引いた。
その仕草は、ほんの一瞬。
そして、静かに。
▲4九飛。
角を見捨て、飛車を逃がす。
俺は△2六金。
五平は▲2九飛。
その一手は、淀みなく、
まるで、唯一の正解であるかのように、
自然に指された。
(流石だ……)
これは角を取ったばかりの、
2六の金を狙う一手。
だが歩のない俺は、
この金をうまく助けられない。
金を逃がせば、
2五の歩が2四へ伸びる。
そして、その歩の後ろにいる2九の飛車が、
一直線に俺の玉へ迫る。
喉が、焼けつく。
だが、これは見えていた局面だ。
分かっていたはずだった。
だが――
いざ盤上に現れると、
その重さが、胸を押し潰す。
弱気な手が、浮かぶ。
(仕方ない。
歩の代わりに、2七に銀を……)
そのとき、脳裏に響いた声。
――お前の玉を鍛えるんじゃよ。
雷のように、声が落ちた。
――己の玉を鍛えるのじゃ。
それは、聞き間違えるはずがない。
俺の二人の師の声。
胸の奥で、何かが静かに定まる。
俺は、金を見捨てた。
△2三玉。
玉を、前へ。
背中を、冷たい汗が伝う。
だが。
恐怖は、なかった。
退かない。
金を取る▲2六飛。
そして俺は、△3四玉。
さらに前へ。
▲2四歩。
△2五歩。
玉自らを、受けに利かせ、
飛車の侵入を歩で受け止めた。
息が、詰まる終盤戦。
(……ここは、凌ぐ!)
そして、五平は▲7四銀打。
一転して、左辺。
俺の角と銀の両取り。
(なるほど……)
五平は、俺の玉が、
左へ逃げる展開を読んでいる。
そのとき支えになるはずの6五の銀を、
盤上から消す一手。
△同銀。
▲同歩。
7三の角取り。
(攻めに利かせる手もある……だが)
俺は、△5一角。
2四の地点の受けに利かせる。
(……絶対に、持ちこたえるんだ!)
ここを凌げば。
一つだけ、
細い筋が見えている。
まだ遠い、五平の王。
だが。
たった一手、届けば。
そして――
その瞬間が、訪れた。
▲5三金打。
俺の玉の左辺への逃げ道を、塞ぐ手。
心臓が強く脈打つ。
追い込まれた。
だけど――
次に2四金と打たれても、
5一の角で取れば、
一手の猶予がある。
ならば――今だ。
盤を睨む。
(8八に歩を打てば……)
▲同玉しかない。
そこで、7七に駒を打ち込む。
その後、王手の連続で、
玉を5九へ追いこみ――
角を打てば、王手飛車取り。
2六の飛車を抜ける。
(……ここしかない!!)
△8八歩打。
駒台から掴んだ歩を、
盤上に打ち付けた瞬間――
指先から力が抜ける。
盤面に目を向け、駒から、
ゆっくりと手を離そうとした、
そのとき――
2三。
ふと脳裏に浮かんだのは。
その地点に銀を置かれる光景。
(……あっ)
音が、消えた。
盤が、遠い。
呼吸の仕方を、忘れる。
2三。
そこに、銀。
俺の読みから――
たった一手。
抜け落ちている。
世界が、音もなく、傾いた。




