第27話 偉大な兄弟子
とうとう迎えた、あの日の局面。
銀を助けることには成功したが、
五平の攻めを受けた代償として、
俺の矢倉は崩れ、跡形もなくなっていた。
自陣の駒は散らばり、
まとめ直すには、相当な力を要する局面。
盤上は、静かに熱を帯びていく。
五平は深く息をつき、
そして、俺の目をまっすぐに見つめた。
「では……行くぞ、蓮」
「うん。望むところだ、五平」
五平の指先が、滑らかに駒をつまむ。
▲7五歩。
俺の7五の歩を取りながら、銀取りをかける。
最も自然だが、狙いを込めた一手。
あの日の続きが始まった。
俺も、すぐに指し返す。
△6五銀。
五平が進めてきた7五の歩ではない。
その隣――6五の歩を取る。
中央にも利かせながら、
銀の可動域を確保し、
7六に歩を打つ狙いも残した指し手。
だが、五平は一拍も迷わない。
▲3六歩打。
取った歩で、俺の3五の銀を狙う。
盤上に放たれた一枚の歩が、
やっとの思いで逃した俺の銀の行先を縛る。
歩を取られたときから、予想はしていた一手。
それでも――
実際に指された局面を目の当たりにすると、
その厳しさに、思わず息をのむ。
そして、俺は、切り返しの一手を放った。
△2六歩打。
飛車取り。
五平は、即座に反応する。
▲1七飛。
飛車を逃がす。
その動きに、迷いはない。
飛車の横の利きを保ったまま、
狙いを失わずに、軽やかに交わす。
さらに俺は、△7六歩打。
角を追う。
五平は盤面を一瞥すると、
ためらいなく角を手にした。
▲5九角。
そして――
俺は、その動きを見届けたあと、
腹を括って、次の歩を打った。
△4六歩打。
歩の三連打。
盤上に、鋲を打ち込むように。
4七の銀への、銀取り。
……だが。
五平は、意に介する様子すら見せない。
▲3五歩。
呼吸ひとつ乱さず、
まるで最初から
そう指すことが決まっていたかのように、
俺の銀を取った。
(……っ)
取られた。
あまりの指し手の早さに、
自分の読み筋が、
根本から間違っているのではないかと、不安になる。
だが――
ここで、怯むわけにはいかない。
俺も、銀を取り返す。
△4七歩成。
交換だ。
これで、駒の損得はほぼない。
しかし、五平はまたしても、
時間を置かずに▲同飛。
追いやったはずの飛車が、
盤上で息を吹き返す。
鋭く、真っ直ぐに――
俺の陣を狙ってきた。
(……まずいな……)
次に、▲5三銀と打たれれば、
飛車と金の両取り。
五平の飛車先を
歩で叩き続ければ、
先手を取って、受けはできる。
だが、そうすれば
俺の持ち歩が尽きる。
この局面で
歩切れになれば、
守ることも、攻めることも難しい。
盤上の選択肢が、
音を立てて、狭まっていく。
流れるような手順。
小考を繰り返す俺とは対照的に、
五平は、迷いなく、
その指し手を積み上げてきた。
(……流石、五平だ)
俺は顔を上げ、五平を見つめた。
(……?)
――この感じ。
そうだ。
俺が江戸で、毎日浴びていた“あの感覚”だ。
清流のように。
優雅で、淀みなく。
けれど、一滴も無駄がない。
思わず、
対局という勝負をしていることを
忘れてしまいそうになる。
ただ、見惚れてしまうほどの、
誇り高い佇まい。
それは――
俺と五平の師。
天野宗歩先生のものだった。
(重なる……)
盤を見つめる、その目の静けさ。
“勝つため”ではなく、
“将棋の理”そのものを追い求めるような、
あの佇まい。
五平は、
先生のもとを離れていたはずなのに。
しかも――
今、目の前にいる五平は、
悟平君の姿をしているというのに。
それでも、今の五平は。
まるで、
天野宗歩先生が、
そこに座っているかのようだった。
(……そうか)
五平は、
先生のもとを離れたあとも――
追い続けていたのは、
やはり、先生の背中だったんだ。
自分の選択を後悔したあとも……
血の滲むような研鑽を、
重ねてきたに違いない。
五平は、五平のまま歩み続けて――
先生の背中を追い、
自分の力で、ここまで辿り着いた。
高みへと至ったからこそ、
その先へ進むことの難しさを知り――
先生のもとを訪れたんだ。
明らかに、今の俺が叶う相手ではない。
それほどの実力差を感じていた。
局面は厳しい。
でも……
俺は、なぜだか嬉しくなっていた。
尊敬する師は、もういない。
けれど――
俺には、こんなにも偉大な兄弟子がいる。
この偉大な兄弟子、五平に、
今の俺の全てをぶつけたい。
この将棋を簡単に終わらせたくない。
投げ出したくない。
今、盤上で、俺ができること。
俺の精一杯の将棋を――
全力でぶつけるんだ。




