第26話 動き出した時
あの日と同じ盤の前に座った俺と五平。
駒を並べ終えた盤の上に、
静けさが、まるで布のように降りる。
「……それでは、私が先手だな」
「うん。……あの日と同じだ」
五平が、ゆっくりと右手を伸ばす。
▲7六歩。
盤上に、初手の駒音が静かに響いた。
ただの一音のはずなのに、
この部屋の空気が、わずかに震えた気がした。
俺も、駒にそっと手をかける。
△8四歩。
飛車先を突く。
▲2六歩。
△8五歩。
相居飛車の出だし。
定跡による静かで美しい序章――
だが、その裏で、互いの呼吸が確実に研ぎ澄まっていく。
そして、五平は▲7七角。
俺は△3四歩。角道を開ける。
続けて、五平は――
▲6六歩。
「……昨日のことのようだ」
五平が、小さく呟いた。
俺は、言葉が出なかった。
俺は江戸であの対局をしてから、
まだ一月と少ししか経っていない。
けれど五平は、十年以上の歳月を越えてきている。
なのに、当たり前のように。
淀みなく。
まるで昨日の続きを指すように、同じ手順をなぞっていく。
――どれだけ、この将棋が。
――どれだけ、この時間が。
五平の心に残っていたか。
それを感じ取るには、十分すぎた。
五平の構えは“雁木”。
俺は――“矢倉”。
矢倉。
祖父と何度も並べた囲い。
「……昔から好きだと言っていたな」
五平が、わずかに目を細める。
「うん。――そうだ」
口が、勝手に動いていた。
中盤。
ぶつかり合う歩。
角の出入り。
桂の跳躍。
継ぎ歩。
あの日と同じ局面が、少しずつ近づいてくる。
そして――▲2五桂。
俺の3三の銀を狙ってきた手に対し、
俺は2四に銀をかわす。
直前に五平の角道を遮ったにもかかわらず、
桂を飛んできたその狙いに、
あの時、俺は気づかなかった。
そして、▲3三桂成。
ただ桂を、何もない3三の地点に成り捨てる。
2七の飛車が直通しているから、
銀では取れない。
俺は2四の銀に紐をつけるため、△同金と桂を取る。
そして、五平は――
▲2五歩打。
俺の銀は逃げ場を失った。
流れるような、鋭い、流石の手順。
ただ、俺も負けていなかった。
△3五桂打。
五平の4七の銀と2七の飛車、
両取りをかける、いわゆる“ふんどしの桂”。
ただ、五平の陣には3六に歩があり、
この桂はすぐに取られてしまう。
しかし、2四の銀でその歩を取り、
手順に銀を逃す。
「……この時だったな」
俺が指し手を終え、
まさにあの日の局面を迎えたその時、
五平は、一拍おいて呟いた。
「この局面だ。この盤が光を放ち……
蓮を連れて行ったのは」
「……そうだね」
あの時の記憶が甦る。
別れの言葉も言えず、江戸を離れたあの日。
しかし――
俺はこうして五平と将棋を指している。
「すべては……
この時のために……」
五平の言葉は、そこで途切れた。
その後、どんな言葉を続けようとしたのか、
俺には分からなかったが――
その表情には、
五平が歩いてきた十年の重みが、確かにあった。
「五平……胸は大丈夫?」
「……大丈夫だ。
……かたじけない、悟平殿」
五平は胸の奥にその言葉を届けた後、
俺の方を向いた。
「……さあ、あの日の続きを指そう、蓮」
「……うん」
それ以上、言葉は必要なかった。
俺たちの止まった時が――
静かに、だが確かに、動き出した。




