第24話 それぞれの明日に向かって
将棋センターに行った翌日の日曜日。
俺は五平を学校に呼び出し、
校庭のベンチに並んで座っていた。
遠くで、
休日も部活動に励む生徒たちの声が、
微かに響いている。
「五平、学校には慣れた?」
俺の問いに、五平はすぐには答えなかった。
少し考えるようにして、口を開く。
「……慣れぬに決まっているだろう。
全てが、知らぬものばかりだ」
そう言ってから、
ほんのわずかに口元を緩めた。
「……しかし、
非常に興味深いものばかりだがな」
「……そうか。
もうすぐテスト期間だよね」
「うむ。
悟平殿にこの体を返すときが訪れても良いように――
私は、やらねばならぬ」
(大変だろうけど……)
心の中で、苦笑する。
(五平なら、本当にいい点数を取りそうな気がするな)
俺は、ふと遠くを見つめた。
しばらく沈黙が流れてから――
意を決して、口を開く。
「……五平」
「どうした?」
「将棋の話をしても……
もう、胸は苦しくなったりしない?」
五平は、しばらく黙ったまま、校庭の向こうを見ていた。
「……うむ」
その声は、静かだった。
「悟平殿は、私の将棋を愛する気持ちを、
分かってくれているのか――
前のように将棋のことを考えても、
胸は苦しくならん」
一拍、間を置く。
「……しかし。
悲しい気持ちが、流れ込んでくるような……
そんな感覚は、ある」
「……そうなんだ」
それ以上、言葉は続かなかった。
沈黙が、二人の間に落ちる。
そして俺は、
中野さんから預かった、
あの一通の手紙を鞄から取り出した。
「五平」
静かに、差し出す。
「俺、昨日……
悟平君が昔通っていた、
東栄将棋センターに行ってきたんだ」
五平の体が少しビクッとする。
俺も驚いて声をかける。
「大丈夫!?五平!」
「……大丈夫だ。続けろ、蓮」
「……うん」
「この手紙は、
その将棋センターの席主が持っていたもの。
……悟平君のお母さんからのものだ」
「なんだと!」
五平は、一瞬だけ目を伏せ、
胸のあたりを見つめ――
それから、ゆっくりとうなずいた。
「……そうか、蓮」
声は落ち着いていたが、
胸の奥に、微かな揺らぎを感じる。
「五平……
この手紙を読んでも、
五平が、……悟平君が大丈夫なのか、
正直、俺は自信がない」
俺がそう告げると、
五平は迷いなく答えた。
「構わぬ」
そして、はっきりと言い切る。
「悟平殿に、母上の想いを見てもらおう」
俺は、その場で言葉を失った。
何も説明していない。
それでも――
五平は、
すべてを理解しているように見えた。
五平は封筒を受け取り、
静かに中の便箋を取り出した。
――読み始めた、その瞬間だった。
五平の身体が、わずかに強張る。
呼吸が浅くなり、胸元を押さえた。
「……っ」
「五平! 大丈夫か!?」
思わず声を上げる俺に、
五平は歯を食いしばりながら応える。
「……悟平殿の心が、苦しんでいる」
額に、汗が滲む。
「だが……大丈夫だ、蓮!」
そう言い切ると、
五平は再び視線を手紙へ戻した。
文字を追うごとに、
五平の表情は、次第に険しさを増していく。
まるで胸の内に、
重たい感情が次々と流れ込んでいくようだった。
それは、当然、五平自身のものではない。
――悟平君の、
押し殺してきた悲しみ。
五平は胸を押さえながらも、
一字一句、逃がさぬように読み続ける。
そして――
最後の行を、読み終えた。
そのとき。
「……うおおおおおっ!!」
五平の喉から、
抑えきれぬ叫びが溢れ出す。
「悲しみが……
悟平殿が、抑え込んできた感情が、
止まらぬ……!」
肩が大きく震える。
「このままでは……
心が、飲み込まれそうだ……!」
それでも――
五平は、立っていた。
逃げず、倒れず、
押し寄せるすべてを、その身で受け止める。
「――悟平殿!」
五平は必死の形相で――
その声を、まっすぐに胸の奥へと放った。
「其方は、向き合わねばならぬ!
母上の想いに!」
「幾多の失敗!
数多の後悔!
私も、己の過ちにより師を失った!
後悔しておる! 今も、なお!」
その眼には、涙が浮かんでいた。
「私も一度は目を背けようとした。
だが……
それでも、私たちは前に進まねばならぬ!」
拳を握りしめる。
「其方を愛した母の想いから、
決して背を向けるな!」
「前へ進もうではないか!!」
「――ああああああああ!!」
「五平!!!!」
五平はその場に倒れこんだ。
俺は慌てて駆け寄ったが、
五平は手を突き出し、俺を制止した。
五平の声は――
悟平君にどこまで届いたかはわからない。
だが――
しばらくして、
五平の呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
「……五平」
俺は、静かに声をかけた。
「大丈夫か?」
五平は、深く息を吐いて答えた。
「ああ……」
その声は、
先ほどまでとは違い、穏やかだった。
「やはり、悟平殿は優しい方だ。
私の心の悲しみも――
分かってもらえたのであろう」
だが、五平はすぐに視線を伏せる。
「しかし……
悟平殿の将棋の記憶の扉は――
まだ、開いたとは言えぬ」
わずかな間。
「……恐れが
残っているのであろうか……」
悟平君は、
まだ将棋に触れることを恐れている。
俺にできること。
それは――
「五平」
俺は、五平をまっすぐ見つめて言った。
「今から……指そう」
「……蓮」
俺の名を呼ぶ五平の声が、
わずかに揺れた。
「俺も、五平も……
悲しみを越えて、こうして将棋を指している」
父を亡くした俺。
師を亡くした五平。
「あの日の続きを……
俺たちの将棋を、見てもらうんだ」
「……本当か、蓮」
その問いに、
俺は短く答えた。
「……うん」
五平は、ゆっくりと視線を上げた。
「……この時を、
どれほど待ちわびたことか……」
そして、静かに言う。
「やるぞ、蓮。
いかに悟平殿と言えど……
この勝負、止めさせはせん」
これが、
俺、五平、悟平君、それぞれの――
あの日の続きの始まりだった。




