丘に向かって
「ふはははは。ほんの少し、見届けていたよ。深夜に蔓延る変質者だな。俺からは逃げられん!」と下半身を露出して逃げる酔っ払いの前に、全身黒ずくめで、ひょっとこのお面を被った男が酔っ払いに向かって走った。
「どけて、どけて、そこをどけろよ!」と酔っ払いが泣きながら言った。
「これでも喰らえ! ひょっとこ・エレガント・キック!」とひょっとこのお面男は叫ぶと酔っ払いの胸元目掛けてドロップ・キックをした。
「痛ーい!! 今日という日を忘れないーっ」と酔っ払いが泣き叫びながら言うと、後ろに5メートル吹っ飛んで気を失った。
白い着物を着た能面のお姉さんこと、エリコはひょっとこのお面男を見ると、しおらしくなってモジモジし出した。
「エンダァ〜!!」と電信柱にいた女性は倒れている酔っ払いの耳元に向かって歌い掛けたが、酔っ払いが目覚める事はなかった。
「大丈夫かい?」とひょっとこのお面を被った龍介は電信柱の女性に言った。
「大丈夫じゃす」と電信柱の女性は言って頭を下げ続けた。
「エリコ、大丈夫?」
「うん。でもね、凄く、こあい」とエリコは言って龍介に抱きついた。
「エリコは怖がりさんだから心配で追い掛けてきたんだよ。深夜にコンビニへ行かせた俺が悪かった。ごめんね」
「ううん。大丈夫」
「ところでそこのお姉さん。何でね、深夜にね、エンダァ〜って、爆音で歌ったの?」と龍介は不思議そうに聞いた。
電信柱にいた女性は黙っていた。
「言いたくないなら言わなくても良いよ」と龍介は優しく言った。
「わたすの名前は有川ため子です。実は、わたす、歌手になりたくて、本日、田舎から出てきたんです。宛のない上京とは、まさに、このことですて。一体、どうやって歌手なれば良いのか分がらなくてぇ。とりあえず、人気のない場所からストリートライブをするのが、はじめの一歩かもなぁ、と急に思いまして、そろそろ歌おうかどうしようかな〜と迷いながら、さっきの電信柱に3時間も佇んでいました。全く反響がない場所で歌っても歌手になれるのかな、と自問自答していた矢先、突然、酔っ払いに絡まれたんです。最初は初めてのライブのお客と思ったので、嬉すくて、舞い上がりますたが、すぐさま、酔っ払いにホテルカリフォルニアに行こうとナンパされたので、ガックリしますた。ホテルカリフォルニアを歌ってほしいのかなとあたすは勘違いもしましたが、ディープキスされたり、私の乳首を摘まれたりして、こりゃ只事ではないべ、と悲観していたら能面のお面を被ったお姉さんに助けられました」
「エリコは偉いね。人助けをしたんだね」とひょっとこのお面を被った龍介は嬉しそうにエリコに言った。
「エリコさんっていうんですか、エリコさんは酔っ払いを完全にボコ……」と有川ため子がエリコの武勇伝を彼氏の龍介に教えてあげようとしたら、急にエリコに抱きつかれて、ため子の耳元で「彼には言わないで。私、乙女でいたいの」と言われた。
「分かった。シーだね」とため子は口に指を当てながら言った。
「そう、ため子ちゃん、シーでお願い致します」とエリコも口に指を当てながら言った。
「口にチャック・ウィルソンだね」とため子は更にぶ厚く秘密を誓った。
「そう、ため子ちゃん、口にチャック・ウィルソンです」とエリコは口にチャックをしながら言った。
「ため子ちゃん、歌手になりたかったらね、ストリートライブをすることだ。どんどんストリートライブをして歌いまくれ。住処がないならは、ここから5キロほどの丘に大草原の大きな家があるんだ。そこに住めばいい。その家は廃墟だがバカでかい家なんだ。大草原にあるから近所迷惑にはならないので好きなだけ歌えるよ。ただし」と龍介は厳しい顔つきで言った。
「ただす⁉」とため子は不安な顔をして聞いた。
「丘にある大草原の大きな家には幽霊がいる」
「あっ、それなら、大丈夫だすよ。私、霊感がないですから。感が鈍いタイプだし、おおらかで、のんびりしているし」
「じゃあ、住めるね」
「住めます」
「じゃあ、ため子さん住みなさい」
「住みます。ここから5キロですね?」
「北へ5キロです」
「あのう、大草原の大きな家の持ち主は?」
「俺です」
「えっ?」
「昔々、住んでいたんです」
「あたすが住んでも良いんですか?」
「ため子ちゃん、気にすんな。今はひたすら夢を追いかけろよ! ふははははは!」と龍介は言ってポケットからビスケットの箱と大草原の大きな家の鍵をため子に手渡した。
「ありがとうございます。わたす、必ず歌手になります!!」とため子は言って頭を下げると北に向かって走っていった。
エリコは龍介にヤキモチを焼いていたが、我慢して乙女を貫いた。嫉妬深い女は嫌われると女性週刊誌の特集記事に載っていたのを思い出したので、エリコは歯を食いしばって耐えていたのだ。エリコはプンスカプンスカと龍介に怒りたかったけれども、ここでプンスカプンスカして一気にヤキモチを爆発させたら恋が終わると自覚していたのだ。プンスカプンスカして龍介を困らせたくないし、プンスカプンスカして悲しい思いをさせたくないとも思っていた。特に女はプンスカプンスカしやすい。生理前のプンスカプンスカなら理解は示されるが、男女間の問題で簡単にプンスカプンスカしたら大人気ない。エリコは必死になって湧き上がるプンスカプンスカと格闘していた。有川ため子ちゃんは気性が荒い部分がある私の事を言わずに守ってくれたのだから。ため子ちゃんには恩返ししなくちゃとも思っていた。
いつだってエリコは龍介に夢中になっていました。
おしまい
ありがとうございました✨




