手を繋ぎ芙蓉となる女たち
此処に済んでいるのは女のヒトたちも大勢いますから、男のヒトばかりを書いてると此処が右に傾いてきそうなので、女のヒトたちを書いてみました。
でも、やっぱり・・・・書き出すと、すぐにお喋りを始めるときの合図を聞きつけた皆んなに羽交い締めされてしまいました・・・・・
当然ながら此処に住んでいる人たちは男ばかりではない。今まで書き留めた人たちが男ばかりだと、ただでさえ古い建物が右に傾いでしまいそうなので、女の人たちも少し書き留めてみた。
そう思ってはみても、名前を書き出し、そこをピンで留めてから書き足そうとすると皆んな何処かへ飛んでいく。
ー さやかさん、ゆきなさん、はるかさんと、名前を呼んでるお世話係の職員の声を真似て、それぞれの人の顔や仕草や服の模様を絞り出してからギュッと文字を重ねてなぞろうとしても、古い繊維がほぐれるように、パラパラ、ばらばら。ほぐれて遠くへいってしまう。
だけどそんなに遠くまで逃げやしない。小さな子どもが知らないおじさんが近づいたときにお母さんの後ろに回って、はにかむように誘うように、顔の半分を出したり引っ込めたりしながら此方へと視線を流し込む。お迎えに来たママが保育園の保母さんやほかのママ達と社交するように、首から下を子どもの勝手に預けてお喋りに興じているけど、彼女たちはママたちが思っているほどかまってちゃんばかりの仕草でなく、チャーんと女の子特有の仲間意識を擡げて大人の女の仲間に入いろうとしてる。
男には嗅ぎ分けられないが、きっとお喋りには匂いがついていて、好きな匂いのお喋りには女の身体は自然と先に反応してしまうからだ。
お母さんの背中が隠れる全てだった小さな子のまま大きくなった此処の女の人たちには、ずっとその習慣が抜けずにいる。隠れたり近づいたり、大人の女ならとうに身につけてるはずの男との距離をあらかじめ決めてから接することができない。背中には薄っすら茜色の手形を押したような斑がついている。いつまで経っても消えない男の子のお尻の蒙古斑と同じに背中にふたつそれを残すことにしているのだ。
此処の女の人たちは、とりとめもないお喋りが大好物だから、もてなしで始めたお喋りの匂いを嗅ぎ付けて、やってくる。わたしたちはすぐに八重咲きの花芯のように大勢の女たちに包まれてしまう。
近づいてくる。触れてくる。こんな先まで近づいちゃったら、それ以上のことが始まっちゃうじゃないのの処まで掌を突っ込んでくる。
それが此処の日常だから、わたしたちはお喋りはやめたりはしない。お喋りを止めることは、日常を毀してしまうことだからだ。
ー オカメインコがね、あの、ほっぺの赤い大柄のインコのことだけど、あのオカメインコだけなんだって。人間以外で、誰かが歌っているときに途中からでも歌に加わっていける生き物は。カラオケでサビの美味しいところがきたときに、わたしもわたしもって横に並んで一緒に盛り上がれるのは、オカメインコだけなんだって。
わたしは、少し薄くなった頭頂部を話し相手に向けて、今話しているオカメインコのモモタくんがそこにとまったいるかのように、サッちゃんを歌いだす。人間以外で曲の途中から歌に入っていける唯一の生き物のオカメインコの素晴らしさを教えてあげたくて、ひとりでも合唱できるテクニックを昨晩徹夜して身に着けたのだ。
ー ほかにはね、一年生になったらって童謡も得意なんだよね。最後の、パックンパックンとドッシンドッシン、ワッハッハをいつまでも飽きずに続いていくんだよなぁ
わたしたちは茜色がふたつ付いた花びらたちに囲まれて息は絶え絶え。けれども苦しくはない、もがき苦しむことはない。一緒に何かをつくっているの気分なので、楽しくてたまらない。
パックンパックン、ドッシンドッシン、ワッハッハー、パックンドッシンワッハッハー、パックンパックンドッシンドッシンドッシンドッシンドッシンドッシン
芸が板についたみたいに、ドッシンドッシンドッシンのユニゾンはどんどん厚くなる。大相撲の土俵に名前を呼ばれた力士が順々に四股を踏み込む身体がどんどんみっしりと詰まっていく。
ー だけど、それが全部、紙相撲の力士みたいに横から覗くと薄っぺらで、息を吹きかけると将棋倒しになって、海を超えて飛んでってしまうんだ。こんな風に・・・・・・
フーと吹き返すと、シャボン玉が次々生まれるように陰陽師がつかうヒトガタがたくさん吹き流された。力士なのに紙の厚みよりも瘦せているヒトガタ。
こんな極上のお喋りを撒き散らしたら、冬枯れの中庭が指を加えそうな八重咲の芙蓉ポンポンポンポン大きな音をたてて花を咲かせていく。シャンパンのコルク栓を次々と抜くように、おろしたてのトランペットのキラキラしたOneNoteがあちらこちらに顔を出す。
瘦せた人、太った人、のっぽの人、おチビちゃんのひと、群像劇を開くために集めたようにてんでバラバラの身体ばかりなのに、ひいばあちゃんからやしゃごまで5世代そろった大家族のような同じ顔が繋がっていく。
もう我慢できない。
16世紀に生きたウエールズの劇作家のエッジの立った言葉を、岩石のような直訳のセリフ廻しで言いたくなる。
「一度だけ情けを受けた母なる存在が延々と同じ卵を産んでいくように、生まれ出でたように、その見えない透明な体液で掌と掌を繋いだ輪っかがほうぼうから現れてきそう・・・・・・・背中合わせに手を繋ぎ、おのおのが見えない大きな輪っかの中に100代に及ぶ女系だけで繋いだこの女たちのかたちが刻まれている。泥炭の塩辛い風の匂いだけが各々の肌に刻まれ、大いなる時の海に阻まれた互いには決して相見えることのない絆よ」
わたしの唇に人差し指いれたさやかさんが、わたしに代わって、芙蓉の花が一輪一輪ラッパを吹くように一字一句間違えず朗読した。