第一話
──ピピピピッ、ピピピピッ、ピピピピッ。
目覚まし時計の無遠慮な音。
……ああもう、うるさい。
ベッドの上のボクは布団の中から手だけを伸ばし、手探りで目覚まし時計を探り当てると、それを上からひっぱたく。
ようやく静かになった。
よし。
それじゃあもう五分だけ、このぬくいお布団を堪能しよう。
ぬくぬく。
ボクは怠けものなのだ。
昨日だって遅くまでゲームをしていたし、何ならこのままお昼までうたた寝していたい。
学校とか、もうどうでもいいかなって。
一日ぐらい休んだところで、きっと大丈夫──
「こら、真名! いつまで寝てんの、さっさと起きろ!」
「──ぐえっ!」
お母さんの声が聞えたかと思うと、何か重たいものがボクの上に乗っかった。
ボクは潰れた蛙みたいな声を出して悶絶する。
何事かと思って布団から這い出てみると、お母さんがボクのベッドの上にどっかりと腰を下ろしていた。
おのれ……可愛い娘を朝っぱらから躊躇なくお尻で押しつぶすのか、この母は……。
「……ボクを殺す気だね? そっちがその気なら……」
ボクはベッドから下りると、お母さんを前に拳法の構えをとる。
回し受けの構え。
ちなみにボクは拳法なんて習ったことないので、漫画とかの受け売り、それっぽい雰囲気だけだ。
あちょー。
一方それを見たお母さんは、当然ながらあきれ顔。
「何バカなことやってんの。ほら、さっさと顔洗って、歯磨いてくる」
「……はぁい」
ノリの悪いお母さんを脇目にしつつ、ボクはパジャマのまま自分の部屋を出て、階段を下りて洗面台へ。
そこで顔を洗って、歯を磨いて──まあ、つまり、いつもどおりの朝の支度だ。
それからリビングで朝食のトーストとハムエッグとサラダを平らげると、部屋に戻って制服に着替え、カバンを持って家を出る。
「……行ってきまーす」
「はい、行ってらっしゃい。遅くならないうちに帰ってくるのよ」
「……はぁい」
ボクは気の抜けた返事を返しつつ、家をあとにする。
通学路。
ボクと同じように登校する生徒とか、会社に向かうスーツ姿のサラリーマンとかが歩いている中、ボクは風景に混ざるようにして歩いていく。
なんて事のない、代わり映えのしないいつもの景色。
ぴかぴかのお日様の下、ボクはあくびをしながらのんびり学校へと向かう。
ボクの名前は有栖川真名。
都内の中学校に通う、何の変哲もないごくごく普通の十四歳。
見た目は同い年の子たちと比べてだいぶ童顔で低身長。
だから小学生に間違われることもある、というか中学生に見られることの方が少ないけど、だとしても中学生は中学生だ。
所属する部活は漫画研究部。
好きなものは漫画とアニメとゲームとライトノベルと……まあ、要するに典型的なオタクだ。
「あ、おっはよー真名!」
「おはよう真名。相変わらず眠たそうな顔をしているな」
通学路の曲がり角から、二人の同級生の女子が現れた。
「……おはよう、勇希、神琴」
二人ともボクの幼い頃からの友達だ。
ボーイッシュな顔立ちで竹刀を担いでいる、ショートカットのほうが剣崎勇希。
凛とした佇まいで胴着を引っかけている、ポニーテイルのほうが獅童神琴。
ちなみに二人とも、とんでもない美少女だ。
ひいき目を抜きにしても、うちの学校でもトップクラスの美貌の持ち主だと思う。
しかも片や剣道の、片や空手の有段者で、どっちも全国大会にも出場している猛者ときていて、まさに学校中の生徒の憧れの的。
才色兼備とは二人のためにある言葉なんじゃないかと思うぐらいで、怠け者のボクとは大違いだ。
そんな二人と一緒にいると、引け目のようなものを感じないでもないのだけど──ただ、その。
勇希はちょっと、残念だ。
「真名~! 真名は今日も最高に可愛いね! ぎゅぅううううううっ」
「むぐぐぐぐっ……ゆ、勇希、苦しい……」
勇希──ボーイッシュでショートカットで剣道のほう──は、ボクを見るなりいつものように飛びついて、ボクを抱きしめてきた。
ボクの顔が勇希の胸に埋まる。
勇希の抱擁は、少し苦しいけど、すごくいい匂いがする。
ボクは勇希の腰をぺちぺちと叩く。
ギブアップの仕草。
勇希はようやくボクを解放した。
「えへへ~、朝から真名成分を補給できて幸せだなぁ。今日も一日頑張れそうだよ」
「……待って。ボクは勇希の栄養か何かなの? ボクは毎朝、勇希に何か吸われてるの?」
「栄養よりもっと大事なものだよ。生きる糧だよ。あたしはもう真名がいないと生きていけない体になってしまったのだ」
「……それは難儀だね」
「あー、お前たち。往来でそういうことをやられると、友人としてとても恥ずかしいのだが。自重してくれないか」
常識人の神琴が突っ込みを入れてきた。
はたと周囲を見ると、通学路を行き交う人たちが、ちらちらボクたちのことを見ていた。
……そりゃあ、ただでさえ二人が目立つのに、こんなことやっていたらね。
だけど勇希は自重するどころか、今度は神琴ににじり寄っていく。
「んん~? 真名がダメなら、神琴が美少女成分を補給させてくれる? あたしはそれでもいいよ……ほら、こんな風に……」
「なっ……! ば、ばかっ、蛇のように寄ってくるな! お前ホントに怖いから──んひっ!」
「……ほらぁ、口では嫌がっても、体はこんなに素直……あうっ」
ぴこんっ。
ボクはカバンから取り出したピコピコハンマーで、勇希を叩いた。
「……はい、そのぐらいにして、そろそろ行くよ、勇希、神琴」
「はぁい」
「た、助かった……」
ボクたち三人は、コントをほどほどに切り上げて通学路を歩いていく。
──まあ、そんないつもの、代わり映えのない日常。
こんな日常がいつまでも続くのだろうと、ボクは何となく、そんな風に思っていたのだ。
でも──
***
「やーっ、今日も一日終わったー!」
勇希がそう言って、学校からの帰り道でうんと伸びをする。
オレンジ色の夕陽が照らす時刻。
それぞれの部活を終えたボクたち三人は、いつものように帰宅の途についていた。
だけど、そのとき──
「えっ」
「な、何これ?」
「地面が光って……」
道行くボクたち三人の足元、コンクリートの地面に光の魔法陣のようなものが浮かび上がった。
その魔法陣から、ボクたちを包み込むようにして光が溢れて──
***
次に気が付いたときには、ボクたち三人は見知らぬ森の中に立っていた。
鬱蒼とした森の中、ところどころ木漏れ日が落ちていて、ぴーちくぱーちくと小鳥の鳴く声が聞えてくる。
勇希が、こてんと首を傾げる。
「……はい?」
「ど、どこだここは?」
神琴も、困惑した様子で周囲を見回していた。
もちろんボクも、わけが分からない。
何だこれ……何だこれ。
だって、さっきまでボクたちは、学校からの帰宅路を歩いていたはず。
こんな森に来た覚えなんて一つもない。
それが証拠に、ボクたち三人の格好はさっきまでのまま──学校の制服姿だ。
こんな格好で、こんな秘境みたいな森の中にピクニックに来るわけがない。
ただ、このときボクは一つ、思っていたことがあった。
それは──
──アニメでこういう展開、見たことある。
ボクの口から、ぽろりとこんな言葉が漏れる。
「……い、異世界転移……?」
──異世界転移。
現代日本で(とは限らないけど)暮らしていた主人公が、ある日突然見知らぬ異世界に飛ばされてしまうという、ファンタジー冒険物語の一類型だ。
ただし、もちろんそれは物語の中での出来事。
現実にあって真っ先にそんなことを想像してしまうのは、現実とフィクションの区別がついていないとか言われてしまうかもしれない。
でも──
「……イセカイテンイ? ねぇ真名、何か知ってるの?」
勇希がそう聞いてくるので、ボクはぶんぶんと首を横に振る。
「……ううん、分からない。……でも、アニメとかでよく見る展開に、似てる気がして」
「アニメぇ? じゃあ何、あたしたちアニメの世界に来ちゃったってこと?」
勇希は(神琴もそうだけど)アニメとかはほとんど見ない。
猫型ロボットのアレとか、自分の頭を食べさせる食用ヒーローとかなら知ってる、ぐらいの非オタクだ。
ボクは勇希に向かって、再びぶんぶんと首を横に振る。
「……そんなわけない……と、思うけど。……でも、分からないとしか」
「まあ、そりゃそうか」
勇希はボクの言葉に納得したようで、再び周囲へと目を向ける。
──と、そのとき。
ボクたちの話を横で聞いていた神琴が、ピクリと何かに反応した。
神琴はボクたちのほうへ歩み寄りつつ、口元に人差し指を立てる。
「しっ……二人とも静かに。──何か来るぞ」
神琴はそう言って、凛とした鋭い視線で森の中の一つの方向を見すえる。
ボクと勇希も、つられてそっちに注目した。
……ガサ……ガサ、ガサ……。
言われてみれば、ボクたちの視線の先、丈の高い草でぼうぼうに覆われた向こう側から、何かが近付いてくる音が聞こえるような──
そして、ボクたちが緊張しながら待つこと数秒。
やがて遠くの草むらをかき分けて現れた者たちの姿を見て、ボクは目を真ん丸にして驚くこととなった。
だって、それは──
アニメやゲームの中でしか見たことのない、怪物の姿だったから。
「……ゴ、ゴブリン……」
ボクはそいつらの姿を見て、慄きながらそうつぶやいた。