バッタは這う
昭和の終わりか、平成の始まりか。私たちが過ごしたあの頃の夏は、今よりもずっと長く、そして濃密な緑の匂いに満ちていた。
放課後、玄関にランドセルを放り投げ、使い古した虫網と、肩紐のねじれたプラスチック製の虫かごを掴む。それが当時の私の正装だった。
「お母さん、ありさちゃんと遊んでくる!」
背中で聞く母親の「車に気をつけるのよ」という言葉は、右の耳から左の耳へと通り抜けていく。当時の私にとって、死や怪我といった概念は、教科書の隅にある無機質な記号に過ぎなかった。
河原の草むらは、子供の背丈ほどもあるススキやセイタカアワダチソウが群生する「密林」だった。そこには、私たち子供だけが知っている秘密の獣道がある。
隣の家に住むありさちゃんは、白いワンピースの裾を泥で汚しながら、私の後を必死についてきた。彼女は近所でも評判の美少女だったが、極度の怖がりで、動く虫を見るたびに小さな悲鳴を上げた。私はその反応が面白くて仕方がなかった。彼女を困らせ、泣き出しそうな顔を独占することに、歪んだ優越感を感じていたのだ。
「一番乗りー!」
私は河原の斜面を駆け下り、ありさちゃんに向かって人差し指を突き立てた。
「ずるい! わたしも一番だもん」
ありさちゃんは頬を膨らませ、同じように指を立てて笑う。その無邪気な笑顔を、当時の私は何物にも代えがたい宝物のように思っていたはずなのに、どうしてあんなことができたのだろう。
運命の出会いは、西日が草むらを黄金色に染め始めた頃だった。カサリ、と乾いた音がして、巨大なトノサマバッタが姿を現した。その脚は太く、鎧のような翅は鈍い光を放っている。
「チャンスだ!」
私が網を構えると、ありさちゃんは「ひっ」と短い悲鳴を上げて私の背中に隠れた。彼女の細い指が私のシャツを掴む。その感触が、私をさらに大胆にさせた。
バッタは賢かった。網を振り下ろす寸前、強靭な後ろ脚で爆発的な跳躍を見せる。右へ、左へ。草を掻き分け、泥にまみれ、私は必死に追いかけた。
「捕まえた!」
ついに網の底で暴れる緑の塊を、私は素手で掴み取った。
「ほら、ありさちゃん、見てよ。凄いでしょ?」
至近距離に突き出されたバッタに、彼女は顔を真っ青にして後ずさりした。
「……気持ち悪い。ねえ、逃がしてあげようよ。飛んできたら怖いもん」
せっかくの獲物を否定されたような気がして、私は少し気分を害した。そして、彼女の恐怖を取り除き、かつ自分を誇示するための「名案」を思いついた。
「飛ばなきゃいいんでしょ?」
私はバッタの胴体を左手で固定し、右手でその立派な後ろ脚を一本掴んだ。指先に伝わる、節くれだった節足の感触。力を込めると、プチッという、瑞々しくも残酷な音がした。
一本。そして、もう一本。
バッタの付け根からは、ドロリとした濃緑色の浸出液が溢れ出し、私の指を汚した。
「ほら、これで跳べないし、飛べない。安心だね」
私は脚を失い、ただの「動く肉塊」となったバッタをありさちゃんに見せた。彼女は引きつった笑顔で「そうだね……」と呟いたが、その瞳には明らかに、私に対する拒絶の色が浮かんでいた。
「今日はもう、ブランコに行きたいな」
彼女は逃げるようにその場を去っていった。
取り残された私は、急に冷めてしまった熱を吐き出すように、バッタを網から地面へと放り出した。バッタは、帰ろうとしていた。後ろ脚という唯一の推進力を失い、前脚だけで必死に地面を掻き、緑の液を泥の上に撒き散らしながら、深い草むらへ。
私はそれを見て、足元に落ちていた二本の「忘れ物」を拾い上げた。そして、もがくバッタの背中に優しく乗せてやった。
「忘れ物だよ。ちゃんと持って帰りなよ…」
そう言い残して、私はありさちゃんの背中を追った。
翌朝、我が家の玄関先に、乾いて茶色くなった「バッタの脚」が一本落ちていた。それを見つけた母親の悲鳴で私は目を覚ました。
その翌日、門扉のすぐ下に、もう一本。
子供の私は「カラスが運んできたのかな」程度にしか思わなかった。しかし、今思えば、あれは呪いの宣告だったのだ。
二十年以上の月日が流れた。
私は地方都市で働く、ごく普通の社会人になっていた。ありさちゃんとは、彼女の引越しを機に疎遠になり、今どこで何をしているかも知らない。
あの夏の出来事は、記憶の地層の底に埋もれていた。
しかし、ある夜、私は奇妙な夢を見た。
視界が低い。地面が近い。
私は草むらの中にいた。自分の体が重く、硬い外殻に包まれているのを感じる。
見上げると、巨大な「子供」が私を見下ろしていた。
その子供は、かつての私だった。
悪意など微塵もない、純粋で残酷な瞳。
「これで安心だね」
その声と共に、私の視界が激しく揺れ、腰のあたりに耐え難い激痛が走った。
ブチッ、ブチッ。
引きちぎられる音。そして、自分の体から緑色の血が流れ出すのを見ながら、私は絶叫して目を覚ました。
「はぁ、はぁ、はぁっ……!」
全身が寝汗でびっしょりと濡れている。心臓が早鐘を打っていた。
スマホの時計を見ると、出勤時間まであと数分。
「やばい、遅刻する……!」
夢の不快感を振り払うように、私は慌ててスーツに着替え、洗面所もそこそこに家を飛び出した。
愛車のエンジンをかけ、アクセルを踏み込む。
定時を過ぎれば、あの口うるさい部長に何を言われるかわからない。
「間に合え、間に合え……!」
普段なら慎重に通る十字路が見えてきた。信号は黄色。
いつもなら、ここでブレーキを踏む。赤になる前に止まるのが私の「いい塩梅」だった。
だが、この日は違った。焦燥感が判断を狂わせる。
「行ける! 曲がればすぐだ!」
アクセルを床まで踏み込んだ。信号が赤に変わる。同時に、右折を開始した私の視界に、巨大な影が飛び込んできた。
直進してきた大型トラックだった。
(あ――)
スローモーションのように世界が止まる。トラックのフロントグリルが、私の運転席側のドアを押し潰す。
ガラスが砕け散るダイヤモンドのような輝き。エアバッグが膨らむ鈍い音。しかし、衝撃はそれを容易に突き破った。私の身体は金属の塊に挟まれ、文字通り「めった打ち」にされた。意識が遠のく直前、私は自分の足が、あり得ない方向に曲がっているのを見た。
次に目を開けたとき、私は「白」に包まれていた。
消毒液の匂い。規則的な電子音。
身体のあちこちに管が通され、私は機械の一部になったかのようだった。
頭はフレームで固定され、微塵も動かせない。
「気がついたのね!」
傍らで母親が泣いていた。
母親から聞かされた現実は、夢よりも残酷だった。
ドライブレコーダーには、私の明らかな信号無視が記録されていた。相手のトラック運転手に過失はほとんどなく、損害賠償と治療費で、私の貯金も将来も、全てが吹き飛ぶことが確定していた。
だが、そんな金銭的な問題よりも、私を支配したのは得体の知れない「空虚感」だった。指先を動かしてみる。右手の感覚はある。左手もある。では、足は?私は足に力を込めようとした。脳は「動け」と命令を出している。しかし、その先がない。
断線した電線のように、命令は虚空へと消えていく。 腰から下が、まるで自分の体ではないような、あるいは最初から存在しなかったような、奇妙な感覚。
数週間後、ようやく頭の固定が外された。私は震える手で毛布をめくり、自分の足と対面した。そこにあったのは、かつての躍動感を失い、青白く、細く萎びた二本の棒だった。感覚を失った肉の塊。
「ああああああああっ!」
私は病室に響き渡る声で叫び、前屈するように泣き崩れた。奪われた。あの夏のバッタが失ったものと同じものを、私は失ったのだ。
自業自得。因果応報。その言葉が、頭の中でバッタの羽音のように鳴り響いていた。
車椅子での生活が始まった。リハビリの合間、私は一人で病院の中庭にある散歩コースに出た。
そこは手入れの行き届いた緑豊かな場所で、少しだけあの夏の河原を思い出させた。
車椅子を止め、深く深呼吸をする。
「……自業自得、か」
自嘲気味に呟いたその時だった。チキッ、という小さな音がして、私の右の太腿に「何か」が乗った。
それは、一匹のバッタだった。ありふれた、どこにでもいるトノサマバッタ。だが、その個体は妙に大きく、そして何よりも、その瞳が私をじっと見つめているように感じられた。
(まさか……そんなはずはない)
二十年以上前のバッタが生きているはずがない。けれど、私はその個体に、あの日のバッタの面影を見出さずにはいられなかった。私の足は、もう動かない。バッタの足も、あの日、動かなくなった。
「……ごめんなさい」
私は、誰にともなく謝っていた。
「ごめんなさい。あんな酷いことをして……。本当に、ごめんなさい」
涙がポタポタと、動かない自分の足の上に落ちた。すると、バッタは一度だけ翅を力強く羽ばたかせ、私の膝から飛び降りた。そして、そのまま鮮やかな跳躍を見せ、濃い茂みの中へと消えていった。
私は、バッタが止まっていた場所を見つめたまま、凍りついた。
私の青白い太腿の上に、二本の茶色く枯れた、小さな脚が置かれていた。
それは、紛れもなくバッタの後ろ脚だった。
二十数年前、私が「忘れ物だよ」と言ってバッタの背中に乗せた、あの時の脚。それが今、時を超えて私のもとへ「返却」されたのだ。
『お前の足も、忘れ物だ。置いていってやるよ』
そんな声が聞こえた気がした。
私は悲鳴を上げようとしたが、喉が引き攣れて音にならない。
パニックに陥り、動かない足を振り払おうとして、私は車椅子ごと地面に転倒した。
「助けて……! 誰か!」
アスファルトに這いつくばり、私は腕の力だけで病院の入り口へと向かった。
ズルッ、ズルッ、と重い下半身を引きずりながら。緑の茂みからは、無数のバッタたちが一斉に飛び立ち、私の頭上を嘲笑うように跳ねていく。
地面を這う私の姿は、あの日、私が笑いながら見送った、あの脚のないバッタと、鏡合わせのようにそっくりだった。背後には、引きずった身体が描いた、無様な一本の道が続いていた。
まるで、あの日バッタが流した緑の液の跡を、なぞるかのように。




