レナルド・マストリークの断罪と、エルザの愛
レナルドはオスカーを連れて店の前まで戻ってきた。
「この店にはエルザがいる。ただし、対面はガラス越しだ」
「え?」
「店の一角に特別な作りのガラスがあってね。店内の会話がガラス越しに店外へと伝わる」
レナルドが仕事用として使うため、改修費用の一部を負担し設置したものだ。
「だが中にいる人間には、こちらの声は伝わらない」
「会話はできないのか?」
「なぜ婚約を破棄した相手と直接話す必要がある? 本来なら、君は接触を禁じている相手。即刻送り返していいものを、たまたま今日が我が国で特別な日だから顔だけでも見せてあげようという私の優しさだ。むしろ感謝してもらいたいくらいだよ」
それから一際大きいガラスの前に立って、光あふれる店内を指差した。
「本物の絶望がどんなものか教えてあげよう」
唇を歪めながらレナルドは微笑んだ。そして兵士達に囲まれたオスカーをその場に残し、再び店内へと戻る。すると正面に置かれたレジで今まさにエルザが会計を済ませたところだった。
「ただいま、エルザ。待たせてごめんね?」
「あ、レナルド様! ちょうど今、買い物が終わったところなのです」
花開くように微笑んだエルザから荷物を受け取ったレナルドは休憩スペースへと彼女を誘う。弾むような足取りで後ろをついていく彼女の姿をオスカーはガラス越しに呆然と見つめていた。
「……あれが、エルザ?」
信じられない、あれは本当にエルザなのか? 艶を取り戻した肌は抜けるように白く、まろやかな頬は薔薇色に染まっている。均整のとれた優美な顔立ちに、しなやかさを感じさせる女性らしい体つき。特徴的な紺碧の瞳はシャンデリアの明かりを受けるたびに燦然と輝き、柔らかな金の髪は光を受けてふわりと広がる。背を流れる金の髪が翼のように見えて、まるで天使かと思った。身にまとう紺色のワンピースは歩くたびに裾のレースが揺れる流行のデザインで上品でありながら洗練された雰囲気が彼女によく似合っていた。そして何よりも違うのは表情だ。かつての陰鬱な表情はどこにもなく、無意識に浮かべた微笑みは周囲の温度を上げるような温もりと優しさに満ちていた。
たしかに顔はエルザだが、雰囲気がまるで別人じゃないか。
オスカーは、より美しさに磨きのかかった彼女に見惚れていた。あの圧倒的な存在感はなんだ? まさに公爵令嬢と呼ばれるにふさわしい気高さと風格を持つ女性がそこにいた。オスカーは顔色を真っ青にして頭を抱える。神に愛されたような女性を、どうして俺は手放したのだ?
これでは婚約破棄をそそのかしたフローラのほうが悪役令嬢みたいじゃないか。
エルザを手放してでも欲しかった愛しのフローラは、困窮に喘ぎ、若さも自慢の愛らしさも失っていた。しかも彼女はエルザが余裕でこなしていた領地経営や書類仕事すらできない無能だったのだ。そのうえ、オスカーにとって強力な武器となるはずだったアルセン伯爵家もさまざまな悪事が露見し、かつての繁栄が嘘のように形骸すら残っていなかった。伯爵家の支援をあてにしていたレオニス侯爵家の命運も間もなく尽きようとしている。
今思うと、崩壊のはじまりはエルザとの婚約破棄からだった。後悔しかないオスカーの目の前を笑顔のエルザが通り過ぎる。そしてついに彼女と視線が交わった。
「エルザ! 俺だ、オスカーだ、助けてくれ!」
たった一本しかない救いの糸を手繰り寄せるように叫んだオスカーの顔を、声が聞こえないエルザは訝しげな表情で見つめ返した。すると隣に並ぶレナルドが足を止める。
「どうしたの?」
「いえ、視線を感じたので知り合いでもいるのかと思ったのですが違ったようです」
「ふうん、彼とは知り合いではないの?」
「それが記憶にないのですよ。どなたなのかしら?」
ガラス越しにエルザの台詞を聞いたオスカーは呆然と言葉を失った。そんな馬鹿な、少し前まで俺達は婚約者だったろう⁉︎ それなのに顔すら覚えていないというのか? 正直なところ、エルザは風貌が変わりすぎてオスカーだと気がつかなかっただけなのだが、もしエルザに彼の声が届いたとしてもこう答えただろう。婚約者でありながら徹底して避けてきたような相手の顔なんて、いつまでも覚えていられませんわ、と。
なぜ自分だとわからない。焦るオスカーと視線を合わせたままレナルドはエルザの耳元へ顔を寄せた。
「店の外に出て声をかけてみるかい? そうしたら思い出すかも」
「いいえ、私の勘違いだったら恥ずかしいのでやめておきますわ」
頬を赤らめながら軽く首を振ったエルザは、レナルドだけを見つめて甘く微笑んだ。
「それに正直なところ、今はどうでもいいというか……興味がないです」
興味がない、その言葉の持つ重さにオスカーは沈黙した。あくまでも淑女の礼儀としてオスカーに微笑んだエルザは、あっさりと視線を外し、背を向ける。彼女の肩を抱き寄せたレナルドは窓越しにもう一度オスカーと視線を合わせると、口元をくっきりと歪ませて笑った。そして声は出さずに唇の動きだけで言葉を紡ぐ。
――――ざまあみろ。
「ふざけるな!」
激昂したオスカーを取り押さえている兵士にレナルドが後ろ手で合図を送ると、オスカーは鉄製の移送車に押し込まれる。向かい合う座席には一人の女性――シシルが座っていた。誰だと声を上げる間もなくオスカーは牢に入れられ、扉が固く閉じられる。カチリという小さな金属音がして、鍵がかけられた。
「おつかれさまでした。では移送を開始しましょう」
オスカーの存在をまるっと無視して手元の書類に発車時刻を記したシシルが御者に合図を送ると移送車は動き出した。オスカーは鉄扉越しに怯えたような視線をシシルへと向ける。
「俺はどうなる?」
すると鉄扉をはさんで向かい合うように座っていたシシルが嘲笑った。
「君達は清々しいほどに自分達のことばかりだよね。まあ、いいだろう。君は運命の恋人に貢ぐために作った借金の返済が滞っていた。それから当主のいないレオニス家の借金も背負っている。国では事情を聞きたい司法局の担当者と借金取りの皆様が首を長くしてお待ちだ。我々は彼らに君を引き渡すだけ。そこから先は知らない」
「い、嫌だ、あんな生活はもう!」
「でも決して寂しくはないよ? そこにはきっと君の運命の恋人が待っている。こういう言い方をすると耽美的だね。終わりに絶望しかないなんて、このうえなく運命の恋人達にふさわしい末路だ。それでは良い旅を」
会話窓をピシャリと閉じたシシルは深く息を吐いた。そういえば皇国に来てからエルザはオスカーの名を全く口にしなかったものね。レナルド様は彼女の記憶からこの男がキレイさっぱり消えつつあるとわかっていたのだろう。こういうときは女性のほうが思い切りがいいというか、残酷であるというか。もしかするとエルザが無関心だから、相手がより深く執着するのかな? しかも執着するのは男性側ばかりとは、エルザも罪作りな人だ。
「今日は祝祭日。一年に一度、自分の罪を雪ぎ新たな自分に生まれ変わる日だ。贖罪の機会さえ失った罪人には、このうえなく苦難に満ちた一日になるだろう」
愚かな男だ。命乞いをする前に、まずはエルザへ謝罪すべきだろう。
謝罪すらできない男に我々は慈悲を与えない。そんなものは不相応だということさ。
「今日は新たな自分に生まれ変わったエルザへのご褒美なのかもしれないね。レナルド様と末永く幸せに」
うっすらと笑うシシルの視界から、煌びやかなマーケットの明かりがどんどん遠くなっていく。
―――――
夜が深まってもマーケットはますます賑わいを増していた。店の天井から吊り下げられた袋の中から、色鮮やかな包装紙に包まれたさまざまな箱がこぼれ落ちる。これも演出の一つだろう。心弾むような音楽が流れて、そこかしこから歓声と感謝の声が聞こえた。
レナルド様が連れて来てくれたお店は、まるで夢のつまったおもちゃ箱みたいだわ。
レナルド様にエスコートされながら、エルザはふわふわとした気持ちで空いている椅子に座った。テーブルの上に店主自ら振る舞うというホットワインのグラスが置かれる。
「それで何を買ったの?」
「はい、シシルには手袋を、ファビアーノ様にはチョコレートを。エドワルト様にはご家族でと思いまして洋菓子の詰め合わせを買いました。それからガレッティ様にはワインです」
「……ガレッティ殿にも買うの?」
「はい、お世話になりましたので!」
第二王子の一件でお礼に伺ったら、妙にそわそわして周囲を気にしていたために、結局きちんとお礼が言えなかったのだ。彼は主に皇太子殿下の業務に携わっており、あの一件以降もジョエレ様関連とは別の仕事でエルザと関わりがあった。だから忙しいところを何度もお礼を伝えるよりは品物で感謝の気持ちを伝えようと思ったのだ。
「先日の打ち合わせのときに、お酒が好きだと伺いました」
「いつのまにそんな話をしていたのか……油断も隙もない」
「業務時時間外にお渡しする予定だったのですが、ダメでしょうか?」
「いや、いいと思うよ。その代わり私も一緒に行く」
「でもレナルド様とは関わりが薄い方ですし、レナルド様もこの時期はお忙しいですよね?」
「いやだ、一緒に行く」
子供のような口調のレナルド様がかわいい。思わずエルザの胸がキュッと鳴った。
「それで、ささやかですがレナルド様にはこちらを」
エルザが包装紙に包まれた箱をテーブルの上に置いた。するとうれしそうに箱を手に取ったレナルド様が、じっと包装紙を眺めている。
「どうしました?」
「どうやったら包装紙を崩さずに中身を取り出せるか……」
「無理です、そこは普通に開けてください」
「でも一生ものの記念品じゃないか」
悩ましいという顔をしていたけれど覚悟を決めたのか、レナルド様は丁寧に包装紙を外し、箱の蓋を開けた。箱の中には黒色の筆記具が納められていた。
「万年筆だね」
「はい、輸入品の少しだけ古い年代のものだそうです。それで、ここと、ここにある金具の部分を見ていただけますか?」
エルザが指したのは蓋の縁取りと胸元に留める金具の部分、それからペンの先だ。黒色に映える金の装飾が、見慣れたものと同じ色合いをしていた。
「すごい、エルザの色だ」
「はい! ここまで似た色合いは珍しいとまで言われました」
ほめられてうれしいとばかりに、エルザは自分の金の髪を指先でつまむ。シャンデリアの下、レナルドがかざした万年筆のペン先が光を弾いた。エルザの金の髪を彷彿とさせる澄んだ光沢が暗く沈んだ世界を明るく照らす。
焦がれて、焦がれて。飢えたレナルドの視線の先には、いつもこの金色が揺れていた。待ち続けて、ようやく手が届いたのだと思うとレナルドの胸は歓喜に震える。
「こんな素敵なものを、これだけたくさんある商品の中からよく見つけたね!」
「偶然ではあるのですが……その、筆記具のコーナーを中心に探していたので」
「そうなの、なんで?」
エルザは一瞬ためらったあと、こう答えて頬を赤く染めた。
「筆記具ならば、いつでもレナルド様のそばにいられるかなと思ったのです」
レナルドは万年筆を握りしめたまま固まった。そして赤くなっているだろう目元を抑えながら熱を逃すように深々とため息をつく。なんということだ、エルザがかわいい。というか、かわいいが過ぎる。彼女の心が決まるまで婚約を待つつもりだったけれど婚約飛ばして結婚してもいいのではないだろうか? 婚約関係の書類に婚姻届を紛れ込ませておけばいけるか? いや、いっそのこと口説き落としてこのまま……。
「…………ありがとう、明日から毎日使うよ」
たっぷり十数秒かけたところで、ようやく理性が勝った。待つと約束したのだから約束は守らなければ。大丈夫だ、きっとできる……はず。自信なさげに視線をそらしたレナルドの視界に、かわいらしいデザインの小さな紙袋が映った。
「そういえば君は自分にも何か買ったの?」
「はい、とても気に入ったものがありましたので!」
「へえ、どんなもの?」
するとエルザは紙袋に手を伸ばして恥ずかしそうに中身を取り出した。机の上に置かれたのは、手作りと思われる小さなぬいぐるみだった。目の部分に灰青のボタンがついていて、水色のふわふわした毛を持つ狐。珍しくレナルドはうろたえた。どう見ても、これって……。
「ラングレア王国のご令嬢の間で流行っていたのです。好きな方にちなんだものを身につけると、もっと仲良くなれるのだ、と」
「そ、そうなんだ」
「子供っぽいと思われそうで恥ずかしいのですが、実は憧れていたのです」
――――いつか、私も。
頬を染めて、エルザはふわりと笑った。寒い季節なのに彼女の周囲だけは温度があがったような気がする。その温もりを求めるように、レナルドはエルザの手に自分の手を重ねた。そしてエルザの手に包まれた水色の狐にそっと触れる。
「これは私にとって鎧と同じだ。私が、私の大切なものを守るために望んで身につけたもの。そういう人間だと割り切ることで、自分の心を守ってきた」
「っ、そうなのですね。ごめんなさい、そうとは知らずにかわいらしいなんて……!」
「違うよエルザ、怒っているわけじゃない。むしろうれしいんだ、君は鎧ごと私を慈しんでくれる。君は決して人から聞いた評判に惑わされずに、自分が見たものだけを信じる人だ。そんな君のそばにいるときの私は安心して素の自分でいられる」
それがどれほど難しく、どれだけ多くの人を救うのか。君は気がついているだろうか。
「甘いところもあるけれど、君は潔い。他人に期待して裏切られても、君は決して裏切らなかった。悪役と呼ばれていたけれど君の行動は常に誠実だ」
「レナルド様」
「私の鎧と同じように、そんな甘く潔い君の心を悪役令嬢という称号はずっと守ってきたのだろうね。いついかなるときも勇ましく、忠実に君とともに戦った。だからね、君も悪役令嬢と呼ばれたころの自分を隠さなくてもいいよ。強くてかっこいい君に、かわいらしい心が備わっていることはすでに知っているから」
常に冷静で大人びて見えるエルザは、実のところかわいいものが大好きだった。雑貨や小物に囲まれて瞳を輝かせる彼女を見ていればよくわかる。そんな幼さを感じさせるところもレナルドには愛おしい。
エルザの胸が高鳴った。この人は惜しみなく愛を捧げてくれる。緊張しながらも、エルザは手の中のぬいぐるみと一緒にレナルド様の手を握り返した。
「ある人が教えてくれたのです。愛する人に伝わるように愛することは愛なのだと。ちゃんと言葉にして、仕草や表情に乗せて、愛おしいと全身で相手に伝えることは愛があるからできることなのだそうです。言わなくてもわかるだろうとか、なんの努力もせずに愛されていると思うことは甘えであり、傲慢なのだと。ですから私はちゃんと言葉にしますね」
愛しています――――。
この言葉を口にするのは、エルザにとってとても勇気のいることだった。でも今、どうしても伝えておきたい。もし、この焦れるような気持ちが愛だというのなら間違いなく、エルザは彼を……。
言葉を返すように、エルザの唇へ深い口づけが落ちてきた。




