エルザの葛藤
どういうわけか第二王子殿下は自分勝手で愚かな自分を、いまだに私が愛していると思い込んでいた。そのことがエルザは一番許せない。
「学業の成績は平均以下、剣の実力は底辺。仕事はしない、余計なことにばかり手を出しては手間を増やす。最近は暴飲暴食がたたって、昔よりもずいぶんとふっくらとなさってまいりましたわよね。とある使用人が殿下の服のサイズが急に二段階も上がって、全て作り直す羽目になったと嘆いていましてよ?」
「ど、どうしてそれを!」
おほほほほ、悪役令嬢の情報網を甘くみないでください。
「まあ昔はそれなりにおモテになられたようですが、歳を重ねた今は正直言ってそれなりです。生活の乱れは心の乱れと申しまして、下っ腹に出てきたたるみは殿下の場合、精神の弛みにも直結していると思われます」
「な、なんだと!」
「年々女好きにも拍車がかかっておりましたし、お金の使い方も荒くなり与えられた年間予算の枠を半年で食いつぶすなど無計画にもほどがあります。しかも追い詰められると王妃殿下に泣きついてなんとかなさいますが、結局なんとかするのは私だったのですよ。王妃殿下は諌めるどころか、元婚約者なんだからあなたがなんとかしなさいーとか言うだけなのです。私は婚約者ではなく、元婚約者なのですよ?」
どうやら王家の側から婚約を解消したという事実を都合よく忘れてしまったらしい。
「いいですか、元がつくのは解消されて婚約という契約がないのです。にも関わらず王国の王族も文官も私が処理するのをなぜ疑問に思わないのですか?」
「そんなにやりたくないなら、最初からそう言えばいいじゃないか!」
「あなたという人は……先ほど自分が不敬罪という武器を振りかざしたのをお忘れですか? 貴族が王家に楯突くのは命がけなのですよ!」
殿下がぐっと言葉に詰まる。
「そもそも王家が次の婚約者を決めて、その方にやってもらえばいいだけのことじゃないですか。それをぐずぐずと後回しにされて。次の婚約者候補は誰ですか、誰か一人くらいはいるでしょう?」
「……そ、それは」
「あらあら、まさか誰もいないというわけではありませんわよね? 王妃殿下にお願いすれば、私よりも可愛らしく素直で仕事のできる素敵なお嬢様をご紹介くださるのではないかしら? 王妃殿下は殿下を優しく賢い美男子だと、ご婦人方や他国の王女様の前で、さんざん持ち上げておられましたもの。同時に私のことを家の権力で殿下を無理やり婚約者にした悪役令嬢と機会あるごとに嘆いていましたわね」
「だが現実には母上を満足させることのできた婚約者候補はいないのだ。だから安心して君が婚約者に……」
「嘘です、実際は彼女達に断られたのでしょう? 誰だって大勢の視線に晒されながら婚約破棄をされるなんていう目にはあいたくありませんもの」
なにしろ私という前科がある。大勢の聴衆の前で婚約を破棄するという行為は殿下の評価を大きく下げたのだ。表情を変えないままエルザは、ぎゅっと手を握った。
こんな最低でくだらない男でも、エルザにとってはじめての婚約者だった。愛し愛される両親を見て育ったからこそ、婚約者となったからには彼を愛し、いつか彼にも愛されると夢見ていたのだ。それがどうだ、現実はどれだけ尽くしても愛されることはなかった。別の女性に心を移して、不要になったら切り捨てられる。現実を思い知らされた十六歳のエルザは傷つき、心の奥底では今も嘆き悲しみにくれていた。
「私、あなたのことが大嫌いですわ。嫌いになる要素しかありませんもの。ですからあなたと再婚約する気は欠片もありません。王妃殿下にも、そうお伝えください」
もう泣かなくていいのよ、この男には期待する価値もなかった。
「お会いするのも最後ですから、はっきりさせておきましょう。――――私の人生に、あなたは不要です」
満足そうに微笑みながら、エルザははっきりと言い切った。
まるで凍りついた心を溶かすような微笑みに、誰もが魅入られ言葉を失う。冬の日差しのように、柔らかな温度を感じさせる表情は色を失ったような世界ではあまりにも鮮烈だった。そして婚約者時代には決して見せなかった色鮮やかなエルザの表情は、意図せずアルバートを深く侵食する。彼の心のより深いところにしまってあった何かを揺り動かすほどに……。
どういうことだ、これが本当にあの辛気臭い顔ばかりしていたエルザなのか?
その美しい微笑みをずっと隠していたというのか。
だから忘れたいのに、忘れられない――――。
アルバートの複雑に絡み合った表情の底に慕情を見つけたレナルドはひっそりと唇を歪めた。二年もそばにいたというのに彼女の魅力にいまさら気がつくなんて、ずいぶんと彼の恋は遠まわりしたものだ。
なぜ婚約者でもないエルザを自分に縛り付けていたのか、果たしてその執着は利用する気持ちだけのものだったのか。レナルドは彼女に焦がれた者同士だからこそ共感できるものを感じていた。でも深層にある淡い想いに気づけなかったのは、彼にそれを受け止める器量がなかったから。もはやどれだけ恋焦がれても彼は二度とエルザに手を触れることはできない。そう、レナルドが触れさせるわけがなかった。
だが手を打つまでもないだろう。どこまでも素直になれないアルバートは、きっと最後まで恋だと認めようとしないからだ。そしてレナルドの予想どおり、彼の小さな恋心は目の前で無惨にも摘み取られようとしていた。
どこまでも愚かな、王子自身の言葉で。
「っ……、こんな口の悪い可愛げのない女なんてこちらから願い下げだ!」
「まあ褒め言葉ですわ、ありがとうございます。殿下におかれましては、そろそろ母親離れなさいませんと素敵な婚約者は手に入りませんわよ?」
「うるさい、悪役令嬢のくせに生意気だぞ!」
「おほほほほほほ、負け犬の遠吠えにしか聞こえませんわ! 次に姿を見せたら問答無用で国外に放り出しますからそのつもりで!」
よし、高笑いも決まった。しかもこれだけ言っても不敬罪にならないなんて皇国最高! 今回の件でエルザは第二王子殿下を完全に見限った。もはや思い出すこともないだろう。
「多少気分は晴れた?」
「ええ、十分ですわ」
ここまできちんと引導を渡してあげたのは優しさ以外の何物でもない、感謝して欲しいくらいだわ。もはや無関心へと振り切ったエルザの爽やかな笑顔にレナルド様は笑いを噛み殺している。反対側では、ジョエレ様もうっすらと笑っていた。背後では『命は救われたのだろうけれど男としては終わったな……』というガレッティ様の憐れむような声まで聞こえてくるが、本当のことしか言っていないもの。清々しい気持ちでいっぱいのエルザの耳元にレナルド様が顔を寄せた。
「君はこんなにかわいらしいのに。彼は本当に人を見る目がないようだ」
まるで見せつけるようにエルザの手の甲へと口づけを落とした。さすが私の尊敬する上司、さらに傷口を抉りにいきますか! とっさに出てしまった行き場のない手を第二王子殿下は虚空にさまよわせる。すると反対側からジョエレ様もエルザのおろしていた髪を一筋すくい上げて唇を寄せた。
「君の気が強いところも魅力的だ。ますます欲しくなったよ」
そうきますか……さすがレナルド様の上司だけあってノリがいいですね! 冷静な表情の裏にある情熱的な一面を嫌味なく見せつけるなんて、なかなか難易度が高めなのではないでしょうか?
視線の端ではガレッティ様が目を見開いて呆然とした表情を浮かべているが、これは第二王子殿下の無駄に高いプライドをへし折るための通過儀式であって、ジョエレ様にはそれ以上の深い意味はないのです。
「やはり、思ってもいないらしいな……自分が愛される存在だということに」
どこまでも強気な表情を浮かべるエルザの横顔に感じるものがあったようで、ジョエレはレナルドへと鋭い視線を向ける。婚約破棄の影響か、それとも自己防衛本能とでも呼ぶべきか。彼女は自分が男性から好意を向けられることはないと思い込んでいる。傷つくのを恐れて、自分が男性に愛されると信じていないのだ。だから彼女から愛されるには、まず彼女自身が自分は愛される存在であることを受け入れるところから始めなくてはならなかった。
「なるほど、私は初手を間違えたようだな」
咎める視線を軽く受け流してレナルドは表情を読ませないように微笑んだ。――――誰が教えるものか、この男がもっとも厄介な競争相手だというのに。
「青狐がのんびり構えていると思っていたらそういうことか。なんだかんだと裏で手を回していたから、うまいこと誤魔化された」
レナルドの灰青の瞳はマストリーク公爵家のもの。見た目の優雅さとは裏腹な狡猾さと、敵とみなせば容赦しない苛烈な一面からジョエレはレナルドのことを青狐と呼んでいた。言葉を飾らない彼にとって精一杯の褒め言葉だとレナルドは受け取っている。
「気のせいでしょう。私はただ彼女の心が追いつくのを待っていただけですから」
自分の気持ちは四年経っても変わることがなかった。ここから一年や二年、現状を維持したまま過ぎようが大差ない。それよりも手を伸ばせば届く距離に恋焦がれた存在がいることがレナルドにとっては奇跡だった。それほどにかつてのエルザとレナルドの距離は縮まらなかったのだ。
祝宴や会議では手を伸ばせば触れることのできる距離にいるのに、婚約者のせいで触れることは許されない。婚約を破棄されても、伸ばしたレナルドの手をすり抜けるように別の誰かのものになってしまう。それで彼女が幸せになれるのならば、まだ諦めがついた。だが彼女を手に入れる男は皆、彼女を我が物のように使い倒すクズばかり。なぜ父親は彼女を不幸せにしかできない男に彼女を与えるのか。まるで大空を目指して羽ばたこうとするエルザを婚約という枷で地上に縛りつけるかのようだった。当時の苛立ちを思い出して眉間に皺を寄せたレナルドにジョエレは囁いた。
「だがこれからは私も彼女のために動く。レナルドにばかり、いい顔はさせない」
「ご自由に。私は彼女が幸せになる手伝いをすると約束しただけですから」
「ふん、その余裕がいつまで持つか」
一瞬からかうように口角を上げたジョエレは護衛の兵士に取り囲まれたアルバートを連れて会議室を出て行く。これからアルバートの身柄は王国へ強制送還される予定だ。王子とはいえ皇国を謀ろうとしたのだから当然の措置だろう。ようやく喧騒が去って、部屋に残されたエルザはレナルドに深々と首を垂れた。
「お忙しい中、お手数をおかけいたしました。ご足労いただいてしまい申し訳ありません」
「いや、こちらこそ申し訳ない。もっとよく注意を払っておくべきだった」
「いいえ、それよりもレナルド様やジョエレ第二皇子殿下を巻き込んでしまいました。今の私では上手く受け流すこともできないのですね」
エルザの途方に暮れたような表情にレナルドは頬をゆるめる。
「だから、もっと頼っていいんだよ」
そっと手を伸ばして髪をなでると、わずかに彼女の頬が赤く染まった。……かわいい。彼女のどこが可愛げがないというのか本気で理解できないのだが。レナルドになでられて、エルザはうれしそうに目を細めた。甘える仕草もどことなく子猫みたいだ。手の内で彼女を甘やかしながらレナルドはほくそ笑んだ。
ジョエレ様、残念ながら世の中には気がついたときにはすでに遅かったなんてことはいくらでもあるのですよ。
「――――ウォッホン、ええとエルザ嬢、私はお役御免ということでいいかな」
咳払いにハッとして、エルザは大事なことを思い出した。今日一日で聞き慣れた咳払いはガレッティ様のものだ。しまった、彼の存在を忘れていたわ!
あわてて振り向くと、彼は心底疲れ切ったような顔をしている。申し訳ないという気持ちと、いろいろ恥ずかしい姿を見せたことに思い至ってエルザは盛大に焦っていた。
「も、申し訳ありません。お疲れのところありがとうございました。このお礼は必ずいたします」
「いや、感謝は気持ちだけで十分だよ。私はまだ死にたくはない」
「は?」
エルザの視線の先で、ガレッティ様はものすごく遠いところを見つめている。若干青ざめた表情で、近くにある一点だけは絶対見つめたくないという不自然な挙動に首をかしげた。するとレナルド様がエルザの肩に手を置いて、にこやかに微笑んだ。
「コルネリオ・ガレッティ事務補佐官、エルザを守ってくれてありがとうございます。あなたのことはよく覚えておきますからね」
「ウワー、アリガトウゴザイマス」
「ああ、それとエルザの経歴については機密事項も含まれますので内密にお願いします」
「承知しております。何も見ませんでしたし何も聞いていませんので、ご安心ください!」
「それは素晴らしいですね」
にこやかに微笑むレナルドさまの圧がすごい。ただガレッティ様は視線を合わせないけれど、ちゃんと圧を受け流している。今後もレナルド様についていくなら、このくらいはできないといけないのね。いい勉強になったわ! やはり彼にはあとで何かお礼をしようとエルザは心に決めた。
「では失礼します」
ギクシャクとした動きでガレッティ様が会議室から出て行くと、レナルド様がすぐさまパタリと扉を閉める。レナルド様と二人きりになって急に気恥ずかしくなったエルザは不自然な動きで視線を逸らした。エルザの動揺を見透かしたようにレナルド様がクスッと笑う。それから彼はごく自然にエルザの手を握った。
「交流会が終わったら、エルザに贈り物があるんだ」
「うれしいのですが……私がもらってもいいのですか?」
突然の申し出に驚いた顔をしたエルザだったが、喜びは隠せないようで瞳が輝いている。はじめて見せた彼女の上目遣いにレナルドは完全に落ちた。緩み切った口元を手で隠しながら、理性が振り切れそうになる自分を奮い立たせる。……この愛らしい生き物を悪役令嬢などと呼んだ奴は出てこい。反省するまで繰り返し説教してやる。
「私は君が受け取ってくれたら、それだけで十分幸せだよ。エルザが贈り物を受け取れる距離にいることが、私にとってはご褒美のようなものだから」
「ありがとうございます!」
微笑んだ彼の顔は本当に幸せそうで、エルザの鼓動は激しく音を立てた。
彼は私から奪うことはなく、むしろ私に多くのものを与えてくれる。知識もそうだし、時間やチャンス、気遣いや優しさといったかけがえのないものを、たくさん分けてもらった。間違えたら教えてくれるし、こうして不安なときもできるだけ近くで寄り添ってくれる。エルザはようやく気がついた。こんなにも深く彼のことを信頼していたのか、と。
レナルド様と出会ったときから捕まっていたのか、それともエルザが彼を捕まえたのか……でも一番大切なのは、そばにいてほしいと願うエルザの気持ちだった。
見上げれば真摯な眼差しをしたレナルド様の顔が近くにあって、乞い願うような色を浮かべる青灰の瞳にエルザは照れたように小さく笑った。そして優しく添えられた彼の手に頬を寄せ、エルザはそっと瞳を閉じる。
もうすぐ触れ合う、そのときだった。
「レナルド様ー、出発の時間です! おっかしいな、このあたりにいると聞いてきたのに!」
「第二王子を馬車に乗せるのがあんな手間取るなんて思わなかったな。早くしないと交流会が終わってしまう」
「ホントだよなー。強制送還されると聞いて、突然暴れ出したから不穏な何かを感じたのかもしれないな」
近づいてくる足音とともに誰かの話し声がする。ハッと我に返ったエルザはあわててレナルド様と距離を取った。それを心の底から残念に思うレナルドは、熱を逃すように深々と息を吐いて頭を抱えた。……ああ、なんてもったいないことを!
「ジョエレ様が差し向けたか。自分が責任者なのだからとっとと先に戻ればいいものを、まったく大人げない」
近くにあった温もりが離れていく。なぜかそれがさみしく思えてエルザは無意識に眉を下げた。すると不意打ちとばかりに、レナルド様がエルザの頬に素早く口づける。柔らかな唇の感触に、エルザの思考は完全に止まった。
「……!」
「交流会が終わるまで、おとなしく待てるよね?」
ほんの少しだけ意地悪な口調に、みるみるうちにエルザの頬が朱に染まる。何をするかとばかりにレナルドは軽く睨まれたけれど、そんな表情すら愛おしい。どんなエルザでも愛らしく見えるなんて、いよいよ危険水域だな……理性をかき集めても歯止めが効かなくなっている。
「そうだ。私は先に部屋から出るけれど、エルザは落ち着いてから出たほうがいい」
「どうしてですか?」
誰かの足音は、着実に会議室へと近づいてきている。レナルド様は扉に手をかけながら、からかうように唇の端を引き上げた。理解できないとばかりに首をかしげると、彼はエルザの頬を軽く突いた。
「真っ赤だ」
「なんですって、誰のせいだと……!」
パタン。エルザを残して扉が閉まると同時に、その向こう側で声がする。
「ああ、レナルド様! こちらにいらしたのですね! えっと、お一人ですか?」
「一人だよ、それがどうかした?」
「すみません、誰か他にもいたような気がして?」
「気のせいじゃないかな。それよりも不測の事態も起きた交流会だったが、そろそろ佳境だ。仕上げにかかろう」
「はい!」
あわただしく複数の足音が去っていく。
――――これも守られたと思っていいのかしら? 息を殺して壁に寄りかかっていたエルザは、そのままの姿勢でズルズルと崩れ落ちた。結婚前の男女が密室に二人きりというのは、さすがに外聞が悪いものね。
掛け時計をみれば、あと一時間程度で交流会はおひらきになるはず。そこから帰国する客人のために指示を出して、問い合わせに対応して、報告書を仕上げたらエルザの仕事は終わる。
「そうだ、まずは二人分の客室をキャンセルしないと」
第二王子殿下と、もうひとり。強制送還が決まっている彼らは短時間でも皇国に滞在することを許されないだろう。表面上は礼儀正しく、速やかに送り返されるはずだ。船か、陸路か、そっちの手配をすべきかしら?
エルザは、なかなか赤みの引かない頬を押さえて、のろのろと立ち上がった。




