エルザのモテ期到来!
これ以上に、夢もときめきもない結婚の申し込みがあるだろうか。
緊急事態における業務連絡のほうがまだ心拍数が上がるわと、エルザは冷静に受け止めた。妻ということは皇子妃、もしくは臣籍降下すれば公爵夫人だろうか。言葉を額面どおりに受け取るとそうなる。軽い冗談だとすれば質が悪いし、初対面に等しい人間が大真面目ですという顔で言うことでもない。
とはいえ、どんなに驚かされても慣れれば逆に楽しめるものだ。二回目の婚約破棄のときがまさにそうだった。彼の立場ならば私の過去も当然のように承知で、二度も婚約破棄された稀有な存在だということも知っているはず。それでも私を選んだ理由はなんだろうか?
「質問してもよろしいですか?」
「かまわない」
「私を妻に望む理由はなんでしょう?」
当然聞かれるだろうと予測していたようで、第二皇子殿下は迷うことなくこう答えた。
「合理的だからだ」
「は?」
「あなたはすでに王子妃教育を受けている。つまり皇子妃として必要とされる教育は修了しているわけだ。そして二回目の婚約で侯爵家夫人となるべく家人の差配と、領地経営も学んでいる。それはあなたの提出したさまざまな資料から明らかだ。私は皇太子である兄が結婚し、子が産まれるまでは予備として皇子でなくてはならないが、次代が確保できたら臣籍を賜ることに決まっている。だから妻には皇子妃と貴族夫人の両方の仕事ができる人が必要だ」
「ああ、なるほど!」
エルザは、ぽんと手を叩いた。そういう見方もあるのかと正直なところ驚いたのだ。すると第二皇子殿下は、表情が変わらないとか、冷たいと評されることの多い秀麗な顔をほんの少しだけ崩して微笑みを浮かべた。
「あなたならわかってくれると思っていた」
「どうしてです?」
「あなたにも利点があるからだ。あなたは王子妃教育の成果を捨てることなく、侯爵家での学びを無駄にすることもない。これからも民の暮らしを向上させるための献策や新たな産業の創出に尽力してもらいたいと思っている。その代わりに、私はあなたの自主性を最大限尊重し、誠実であることを約束しよう」
なるほど、こういう人か。頭脳明晰で品行方正ではあるが少々問題があるとは聞いていた。この方は、問題を出されると最適解というものがすぐにわかるような人で、割り切れるような計算や案件では無敵なのだろう。だが割り切れないものについてはどうしても理解が及ばない……そう、たとえば人の気持ちとか。
「では問題ないようならば、早速婚約を……」
「お待ちください」
「なんだ、なにか他にも疑問が?」
いつのまに用意してきたのか、慣れた手つきでそれ関係の書類をテーブルに置いた彼を制する。
「殿下のお考えを今一度確認したいのです」
「先ほどの説明では足りぬと?」
「はい、十分とはいえません」
「わかった、許そう」
「私以外の人物で、王子妃教育を受け、侯爵家以上の家内の差配や領地経営を学んだ婚約者のいない未婚の女性がいたらどうされますか?」
第二皇子殿下は困惑したような表情を浮かべ眉間に皺を寄せた。それは彼にとって理解できない種類のもの……割り切れない問題に思えたから。
「そんな稀有な経歴を持つ人物はあなたしかいない。だからこうして交渉している」
「やはり、そういうことですよね!」
納得したエルザは大きくうなずいた。意味がわからないという顔で、第二皇子殿下は首をかしげる。
「殿下のお考えでは別に私である必要がないのです。極端な話、条件に該当する人物であれば誰でもいい。条件さえ満たせばお相手が私でなくてもいいのなら、私が結婚の申し込みに応じなければならない理由にはなりません」
「だが惜しくはないのか? 今まで苦労して学んできたものが、このままでは無駄になるのだぞ?」
「無駄にはなっておりませんわ。立場が変わろうとも経験は私の財産になっております。そして身分を失った代わりに、自由というかけがえのないものを得ることもできました」
エルザはもう貴族ではない。契約に縛られる必要もなく、家のために嫁ぐ義務もなかった。もちろん第二皇子殿下の申し出を喜んでお受けせねばならない立場でもない。今の私は結婚に限らず未来を選択することができるのだ。エルザはにこやかに微笑んで、眉間に皺を寄せた第二皇子殿下と視線を合わせた。
「賢明なる第二皇子殿下。殿下は力なき平民に無理強いするような方ではないと聞いております。つまりこの申し出はあくまでも私に選択の自由があり、私の意志を尊重くださるものと確信しておりますわ」
さぞかし魅力的な申し出だろうと言わんばかりの態度だったが、冗談じゃない。あなたにとっては都合のよい相手でも、せっかく手に入れた自由を再び奪うような申し出にうなずくわけがないじゃないの。私は自らの胸に手を当てた。ほらね、熱も高鳴る鼓動も感じない。エルザは胸に手を当てたまま臣下の礼をとると、視線を下げた。
「恐れ入りますが、その申し出は謹んでお断り……」
「お断りいたします!」
強い口調で、私の台詞にかぶせるように男性の声が響いた。弾む呼吸とともに軽く肩へ添えた手の感触で声の主が誰かわかる。彼は私の隣にドサリと音を立てて腰をおろした。そして呼吸を整えるため、大きく息を吐く。
「レナルド様、打ち合わせ中にお呼び立てして申し訳ありません」
「いや、こちらこそすまない。こんな直接的な手を使うとは思わなかったから」
テーブルのうえに置かれた書類の束をチラリと見て、もう一度深々と息を吐く。それから鋭い視線で第二皇子殿下を睨みつけた。
「あなたという人は……なにを考えているのですか!」
「彼女と直接話したいと言ったがレナルドに止められていただろう。だから君が不在のときを狙って自分で交渉にきた」
「あたりまえです、誰がこんなふざけた振る舞いを許すものですか! それに、この書類はどうしたのです?」
「戸籍係の担当者に結婚したい相手がいると言ったら、陛下の記名押印、大臣決裁済みの書類が金庫に保管してあるそうでスキップしながら出してきた。陛下の指示によるもので、いつでも私の気が向いたら使えるように準備しておけと言われていたそうだ。なんでも相手が記名すれば即婚約者の決定がおりるようになっているそうだぞ?」
結論から言うと国ぐるみの犯行だった。
やだわー、危なかったー。固まるエルザの横で、レナルドが本日三度目のため息をついた。
「それはあなたが婚約話を片っ端から潰してきたからでしょう!」
「冤罪だ、相手から断られただけで私は何もしていない」
「なんで断られたのか理解できています? そんなんだから陛下が追い詰められて申請書類を魔改造するわけですよ……ああ全くもう、油断も隙もない……」
常に冷静沈着なレナルド様の口調が乱れて頭を抱えている。エルザにも、なんとなく理解ができた。幼いころから頭脳明晰で品行方正だったこの方は、偏った思考を矯正されることもなく、すくすくと育ったわけね。それで結婚というステージに立ったところで、はじめての大苦戦を強いられていると。ラングレア王国の第二王子殿下といい、二番目に生まれた王子様はどういうわけか個性的に育ってしまうのかしら?
「ごめん、エルザ。もはやどう謝罪したらいいかわからないよ」
あまりよくわかっていない顔の第二皇子殿下に代わって、疲れた表情のレナルド様が頭を下げた。なるほど、これはたしかに手がかかりそうだ。割り切れないものなんてこの世の中にはたくさんあるから、事あるごとに擦り合わせるのは大変だろう。合理的に割り切った判断をする第二皇子殿下の裁量に、血を通わせるのがレナルド様の仕事ということか。二人の関係を察したエルザは苦笑いを浮かべて首を振った。
「大丈夫ですわ、謝罪の気持ちは受けとっております」
「この人を執務室に閉じ込めたら、すぐ戻ってくる。少し話そう」
「承知しました。それで打ち合わせは終わったのですか?」
「終わらせてきた」
ああ、暗黙の了解っていう裏技使ったのですね。真っ青な顔をしたエドワルト様がいい仕事をしてくださったのでしょう! すると第二皇子殿下がふと気がついたように首をかしげた。
「そういえば、エルザ嬢はレナルドを名前で呼んでいるのだな」
言われて思い出した。しまった、つい焦って名前を呼んでいたのね。変なところによく気がつく人だ……そうだ、ここは覚えていないふりをしよう。
「そうでしたか、記憶にありません」
「そうか? だがレナルドもエルザ嬢のことを呼び捨てにしているな」
「していたでしょうか?」
「それは確実に覚えている。もしかして二人は付き合っているのか?」
「いいえ、ですが口説いている最中です。邪魔しないでください」
レナルド様が言い切って、にっこりと笑った。途端に私の頬がかっと赤くなる。こういうときは扇子がないと困るわ、表情が丸見えになるもの。エルザはそっと視線を下げて、赤らんだ頬と表情を隠した。
「なるほど、では私にも機会はあるわけだ」
「え?」
どうしてそうなる? 跳ね上げた視線の先では第二皇子殿下が口角を上げていた。エルザは今度こそ完全に言葉を失う。ええと、今のやりとりのどこで火がついた?
「婚約者もいないし、独身だ。将来を見据えて交際を申し込むのに問題はないだろう?」
「問題ありですよ、あなたは現在進行形で第二皇子じゃないですか」
レナルド様の反論ももっともと思えた。エルザも一応この国の法律を勉強しているので貴族と平民の婚姻はいくつか記録に残っていることは承知している。が、平民と王族の婚姻というのはちょっと聞いたことがない。見えずとも越えられない壁というものが存在するという証だ。だが第二皇子殿下は、気にする素振りすら見せなかった。
「前例というのは分母となる数が多ければ起きる確率も上がる。皇国の貴族の人数と王族の人数を比べてみれば二桁は違うからな。過去に前例がないということだけでは理由にはならない」
「っ、そうですが」
「そして皇国に王族と平民との婚姻を禁ずる法はない。つまりそういう面でも問題はないということだ」
たしかにそうだ。エルザも皇国にある法律や規則の全てを把握しているわけではないが、王子妃の身分を限定する根拠はなかった。
「エルザ嬢、私は順番を間違えたようだ。どうか許してほしい」
「もちろん、仰せのままに」
「お詫びとして、今度食事に招待しよう」
「はい?」
「よかった、受けてくれるのだな」
「いや、今のは承諾ではありません。ちょっと信じられないという意味の使い方で、疑問符ついてますよね?」
おい、人の話聞けよ。口には出さないが、心中はずいぶんと荒れている。するとレナルド様が第二皇子殿下に鋭い視線を向けた。
「本気ですか?」
「もちろん」
「いいでしょう、受けて立ちます」
表情から彼もまた本気だとわかった。普段はあまり見せることのないレナルド様の強気な態度にエルザの胸が高鳴る。この状況は私にとって吉報なの、それとも悲報? こんな大事なときに限ってエルザの経験値は全く役に立たない。混乱するエルザの横でレナルド様は手早く机上の書類をまとめると立ち上がった。
「仕事の邪魔です、執務室に戻りますよ。彼女は忙しいのです」
「レナルドも一緒に戻るのか?」
「あなたを隔離して、エルザと話をしてからですが。犯行を目撃した以上は、これの対処をせねばなりません」
いい笑顔をしたレナルド様の手の中の書類がバサリと音を立てる。第二皇子殿下は気まずい表情で視線を逸らした。首謀者はさすがに無理だけど、何人かが処罰されるだろう。未遂とはいえ、本気で怒ったレナルド様の恐怖はすでに体験済みだ。エルザは心の中で、そっと手を合わせた。
「じゃあ、エルザはこのままここにいて」
「はい」
「っとエルザ嬢、ではまた連絡を……!」
「黙って! さあ行きますよ!」
おとなしく連行されていく第二皇子殿下を見送る。二人が姿を消したのを確認してからエルザはソファーに沈み込んだ。
「はー、どうしてこんな状況に?」
「ふふふ、見たわよ……」
背後から囁く声に振り向くと会議室の入り口に三つの顔が並んでいた。下から身長順にシシルは口元がニンマリと弧を描き、ファビアーノ様は目を丸くして、エドワルト様はもはや真っ白に燃え尽きていた。どこか異国にこういう飾り物があったなぁと、エルザは気が遠くなった。
「いいなー、エルザ。大人気じゃないの!」
「あら、シシルが代わってくださってもいいのよ?」
「いやよ。こういうのは外野から眺めているのが楽しいの」
他人事だと思って……。恨めしそうに見上げた視線の先では、なぜかファビアーノ様が捨てられた子犬のように悲しそうな顔をしていた。ないはずのフワモコした耳が垂れているようで、しかもうっすら涙ぐんでいる。
「くっ、エルザさんが魔の手にっ……これから誘おうと思っていたのに……!」
そういえば、郷土料理食べに行こうとか言われていたような。ファビアーノ様はかわいいし、エルザからすれば女の子同士みたいなものだ。別にご飯ぐらい一緒に行くと答えようと思ったのだけれどね。どういうわけか、背後に立つシシルが呆れた顔で首を振っていた。
「ひよっこはホント空気読めないわよね。死にたくないなら、それ以上言葉にするのはやめておきなさい」
「どうしてですか、シシルさん?」
「――――ファビアーノ・バドルディ事務補佐官、ここにいるということは予算書の精査は当然終わったのだろうね?」
ファビアーノ様の背後に何か黒い靄が見える気がする。アレっと思って目をこすったあと、再び目を開いた先にはシシルもファビアーノ様もエドワルト様もおらず、どういうわけか輝くような笑顔のレナルド様がいた。……幻覚が見える。やっぱり疲れているのかしら? レナルド様はソファーに座る私の隣に再び腰をおろして、深々と息を吐いた。よく見ると、髪が少し乱れている。レナルド様の髪は柔らかいようで、動き回るとよく跳ねるそうだ。
「急いで来られたのですね、髪が跳ねておりますわ」
「失礼、いろいろあったから」
あわててレナルド様が髪を撫でつけるけれど、微妙に違う場所に手が触れている。これは私が直した方が早そうね。
「不躾ですが、少々触れてもよろしいかしら?」
一瞬固まったレナルド様だったが、視線を逸らしながらうなずいた。私はゆっくりと手を伸ばすと跳ねた髪にそっと触れる。灰色の柔らかなふわふわの毛、高級な猫の毛並みだ。
「直りましたわ」
極上の手触りがほんの少しだけ名残惜しいけれど、私はそっと手をひいた。するとおとなしく撫でられていたレナルド様の手が伸びて、どちらからともなく手が触れ合う。包み込むようにエルザの手を握った彼は瞳を伏せた。
「あらためて謝罪を。意味のわからないことに巻き込んで申し訳なかった」
「いいえ、なんとなく事情は察しましたから……大変ですわね」
第二皇子殿下は悪い人ではないのだろう。ちゃんと説明すれば、わかり合うこともできる。ただ、わかり合ったとしても、納得させるまでが一筋縄ではいかなそうだ。
「皇帝陛下も焦っているのはわかるが、相手が悪い」
「使い方を知らない子供に刃物を渡してはいけませんわよね」
つまり、そういうことだ。あとで相手の女性が騙されたとか難癖をつけてきたら、どんな落としどころを探るつもりだったのだろう。先の見えない事後処理を想像したらしいレナルド様が心底でうんざりしたような表情を浮かべた。
「本当に油断も隙もない。エルザ嬢が冷静な人でよかった」
「ふふ、人によっては第二皇子殿下の麗しい容姿と高貴な身分に負けて、うっかり署名していたかもしれませんものね」
宝石のように硬質な美しさを感じさせる容姿は、ご令嬢方から人気が高いそうだ。ふらりと心が揺れて、押し切られてしまう方がいてもおかしくはないだろう。納得したように大きくうなずくとレナルド様がクスッと笑う。
「だが君はそういうものに揺らがない、そうでしょう?」
「たしかに揺らぐことはありませんけれど……普通、そういう台詞は不安そうに言うものではなくて?」
他人のことなのに、そこまで確信に満ちた面持ちと口調で断言するようなものではないと思うのよね。するとレナルド様はエルザと視線を合わせた。いつになく真剣な眼差しにエルザの心臓は高鳴って、ためらいがちに握り返した手が熱を帯びる。
「持って生まれた君の性格もあると思うけれどね。悪役令嬢と呼ばれた君は容姿や身分といった生まれ持ったもののために苦労を強いられてきたような人だ。容姿や身分の与える厳しさや辛さも知っているからこそ、そういうものには惑わされない」
惑わされないのは、悪役令嬢と呼ばれた過去があるから。
エルザはハッと胸を衝かれた。サビーナ様の近況と仕事ぶりを知って、王家とうまく渡り合うようなやり方が別にあったのではないかと思い悩んでいたところだったからだ。悪役令嬢だからと搾取されずに済むような、もっと賢いやり方が……驚いたような顔をしたエルザにレナルド様は微笑んだ。
「サビーナ様は皇国の支援がある。一人きりで戦うしかなかった君が一国の王妃と互角に戦うというのはちょっと無理があるかな」
「どうして、それを」
「ちゃんと見ていれば君が何に悩んでいるかがわかるよ。君は自分が思う以上に表情に出やすい人だ」
レナルド様の指先がエルザの頬を優しくなでた。彼はエルザが苦しまないように、程よい距離を保ちつつ心が追いつくのを待ってくれている。
「戦い方は人それぞれ。君が正しいと思ったのなら、そのとき君ができる最善の手だったということだよ」
交流会のときもそうだし、国を捨てた運命の日もそうだ。レナルド様はいつもエルザを救い上げてくれる。それは彼が私自身を見ていてくれるからで、肩書きに惑わされないのは彼も同じだ。どうしよう、知れば知るほど惹かれていく。
「迷いながらも前を向く、そんな君も好きだ」
悪役令嬢の凍りついた心を甘く溶かす魔法の言葉。
彼が捧げる愛を、私は信じてもいいのだろうか?
だが自分にだけ真っ直ぐ注がれる愛に目がくらんで、油断していた私はすっかり忘れていたのだ。
――――災いとは、忘れたころにやってくるものだということを。




