第五十一夜 ハイドラの残月とブエノスの側近達。
アリットは残月の為に、買い出しに向かっていた。
パンや野菜。シチューの作り方はどうだったのだろうか。
ローストビーフの焼き方もろくに覚えていない。
アリットは愛情を知らない。
幼い頃の記憶も覚えていない。
気付けば、マフィア達の仕事を手伝わされていた。
その後でブエノスに拾われた。
「”僕”はこの道が分からないのだけど、アリットは分かる?」
グレーゼは相棒に訊ねる。
彼女は戦線中や上司の前では、自らを私と称するが相棒のアリットとだけいる時は”僕”と、まるで男のような一人称を使う。
グレーゼは水色のドレスを脱ぎ捨てて、Tシャツにホットパンツというラフな格好をしていた。
長い真っ黒な髪の毛は、ツインテールに結っている。
グレーゼの着ていたドレスは防弾繊維にもなっており、布を翻すと、そのまま甲冑のように殴打用の武器にも使える。
だが、日常生活で着るのは動きづらく、地味に重いので何かと不便だった。
アリットも銃器の類は阿片窟に置き、最小限に所有し、コートも薄手のものを身に纏っていた。
「ブエノス様から、ハイドラの麻薬の女王を見張れって言われていたけど……」
グレーゼはまだあどけない二十代の若い女の顔をする。
彼女はマフィアの世界にいる者とは思えない程に、あどけなく、無垢な表情をしていた。
「しっかりやってくだせぇよ。じゃないと俺がブエノス様にどやされますから」
「お互い様でしょ。職務怠慢なのは」
「違ぇね」
二人は笑い合う。
しばらく、残月の見張り兼護衛をしていたが、女王は何かよからぬ企みを見せるわけでも二人を強く疎ましく思うわけでもない。今の処は不審な行動を見せないといった処か。
ただ、日に日に痩せ細っているのは確かだ。
メリュジーヌでの戦いがあって以来、コミッションは瓦解し、先日はアルレッキーノの摩天楼も崩壊したと聞いている。
NO2であるコルトラはかなり焦り顔になり、ボスであるメテオラは消息不明だ。
残月は何日も何も口にしていない。
時たま水を飲んでいるくらいだ。
まだアリットによって付けられた腹の傷が痛むのか。
ともかく、二人はハイドラの女帝を見張る任務を受けている。
まだ、あの女が死ぬのをよしとしていない。
そろそろ、無理にでも食事をして貰わないと困る。
栄養失調で衰弱死するマフィアのボスなど笑えない。
……紛争地域の国々では、沢山、見てきた。
そして、この場所は紛争地域だった。
食料を売っている地区はあったが、通りによってはナパームによって瓦礫の渦と腐乱死体や焼死体の臭いが漂っていた。ハイドラの総本山である阿片窟はよりにもよって、戦争地域の傍にあった。
大国レーシーと大国ジェド・マロースは戦争中だった。
地獄の惨禍は今もなお続いて、世界にも波乱を呼んでいる。
†
『ハイドラ』の本拠地である阿片窟となっている館は二重構造になっており、表から入ると、貧困の少年や逃げのびた兵士、売春婦などが安い阿片や他のドラッグを買って、かつての根城の中を根城にしている。裏門から入ると、残月専用の絢爛豪華な部屋があった。
だが、マフィア同士の抗争が激化する中。
残月は、アジトを移転して別の場所へと資産ごと移した。
残月はぷかぷかと煙管をふかしながら、新しいアジトの奥にいた。
以前の居城よりも、この隠れ家は多少、広いくらいだ。
この穴倉には、人があまり近付かない。
だからこそ、思索に耽りやすく落ち着くが、同時に憂鬱な気分が襲ってくる。
和や唐の国の様相を取り入れた部屋で、世界各国の調度品が収められている。
香が部屋の中には、漂っていた。
傍らには、側近であるマフェットがいた。
アリス服の少年……。
服装は残月が見繕った、彼女の情夫だ。
似合うかな?と着せてみたら、彼は素直に応じてくれた。
この少年には残月に必要な奴隷市場で買ってから、彼女の忠実な召使をしている。
レスターやヴァシーレのように、自らの“性”に捕らわれない生き方は残月が欲してやまないものだった。
残月にとって、あの二人が羨ましかった。
自らをノンバイナリーだと称する、普段着は男装を好む、グレーゼも羨ましい。雄々しく生きられるグリーン・ドレスにも憧れがあった。
……女装男や男っぽく振舞える女は、本当に羨ましい……。
残月にとって、自らが“女性”という性別であるというのは呪い以外の何物でもなかった。自分が女でなければ、十代の前半には街で立ちんぼをして身体を売る事も無かったし、マフィアの組織に入った際に次々と男達に凌辱される事も無かった。
残月は何回か誰の子供か分からない子を妊娠して堕胎している。
そして、残月には堕胎が間に合わず、生まれてしまった子供がいた。顔も名前も知らず、上のマフィアの手によって取り上げられてしまったがどうなったのか……。男の子だった筈だ。
十代の頃、マフィアの同期の男と恋仲になったが、男は自殺してしまった。仕事に失敗して上から詰められて、その恐怖から自ら命を絶った。
二十代の頃、一般人の夫を設けたが、夫は他組織のマフィアに殺されてしまった。
こうやって、自分が生きているのに一体、何の意味があるのか考えるとまるで分からなくなってくる。
「あ、あの。お二人が帰ってきたみたいです…………」
部屋のドアが開く。
「おーい。シチューの材料買ってきやしたぜー。グレーゼの奴が作るらしいっすよー」
「おい、お前さー。僕一人に作らせる気かよ? お前も手伝え! 野菜切るのとか!」
残月は気怠い顔で起き上がる。
この二人はまだ敵なのか味方なのか分からないが、彼女に妙に親しげにしてくる。
だが、なんとなく……こういった時間も悪くない。
自分の光の無い人生……。少しだけ優しさの幻想に浸かってもいいのかもしれない……。
†
残月の能力『ベアルフル・ストリクス』。
それは、彼女の召使であるマフェットの能力だった。
海蛇を召喚し、辺りを探知していく。
メテオラには、自身の能力だと嘘を付いたが、マフェットから借りているものだった。そもそも、マフェットの能力は他人に“貸す”事が出来る。
万一、コミッションの仲間達に自身の能力を教えないといけない状況になった場合、マフェットから借りた能力を出して自身の異能はこれだ、とうそぶく事を決めていた。
もっとも、知った相手はメテオラだけなのだが。
……さてと。マフェットが色々やってくれた。あの見張りの二人にも見つかっていない。
残月は暴君に手紙を差し向けた。
ブエノスの側に付けば、変革を嫌うレスター、メテオラ。それから利害の一致で共闘しているウォーター・ハウスとグリーン・ドレスを必然的に敵に回すだろう。
……私は私の人生くらい、自分で決める。
暴君に、この場所は伝えた。
メテオラと同じだ。
メテオラが『アルレッキーノ』を壊したかったように。
残月も『ハイドラ』を壊したい。
「ふふっ。来なよ、暴君ウォーター・ハウス。あたしとアンタで決着を付けよう。あたしもそろそろ人生を終わらせたいんだ。あの武器商人の男のように、あの狂科学者の女のように…………」
自分のどす黒いコールタールの底のような人生を終わらせる。
だが。
せっかくなら、華々しくやろう。
自分の意味の無い人生の終着点として、暴君はきっと相応しい……。




