第四十三夜 流転する世界。
1
ポロックと暴君達との決着が付く直前だった。
ヴァシーレは分身を出して、ラトゥーラ達の眼を掻い潜り、分身の方をTV局のビルの内部へと潜入させた。暴君やレスターといった、ヴァシーの動向を注意深く気に掛けるような者は存在しない。
ヴァシーレはある場所に辿り着く。
そこは、TV局の地下室だった。
ある人物達の声が聞こえた。
一人が残月だ。
一体、何を話しているのか…………。
ヴァシーレは壁に寄り掛かって、聞き耳を立てる。
†
「『オルガン』のボス、ポロックが、ムルド・ヴァンスを始末したらしいっすよ」
サングラスの男が、再び地下室に入ってくる。
「そういえば、残月サン、何故、俺の攻撃を受けて、恐怖心を抱かなかったんすかねえ? 死の恐怖心をっすよ」
『ネメアのライオン』こと、アリットは、ふとそんな事を訊ねてきた。
「あんたは死ぬ事が怖くないんじゃないっすか?」
アリットは首を傾げる。
「あたしが死が怖くない? フッ、そんなものはどうだっていいからなんじゃないかしらね?」
残月は淡々と答えた。
そして、ぷかぷかと煙草にふかしていた。
アリットも煙草を吸っていた。
部屋中には、紫煙が舞っている。
「残月。アンタ、マジで何を考えているか分からないんっすよねぇ。アンタを撃った時、俺はアンタに勝ったと思った。だが、アンタに勝っていない気がするんだ」
ネメアのライオンは、訝しげな顔をする。
「それは、あたしが死んでも、『ハイドラ』に負けは無いからねぇ」
残月はぷかぷかと煙草の煙で輪っかを作っていた。
「『ハイドラ』は首を切っても、首を切っても、その頭を生やしていく。あたしの意思ではどうにもならない。あたしは暫定的に麻薬界のトップにいるだけ。そして、その栄光は他の連中がたまたま死んだからに他ならない。あたしが死んでも、幾らでも薬物に手を染める人間は出てくる」
彼女の事からは、人生に対する底なしの無意味さばかりが伝わってくる。何か全てを諦めているかのような……そんな印象をアリットは受けたのだった。
彼女は自分自身の命さえも、どうだって良いのかもしれない。
残月は、ぷはあっ、と、大きく煙草の紫煙をアリットに向けて吹き掛ける。
そして、面倒臭そうに告げた。
「いい加減にまどろっこしい言い方は止めてくれないかしら? 言いたい事があるんでしょう?」
「では、俺達の側から貴方に伝えます。俺の処のボスが、あんたを仲間に引き入れたいと言っている。ポロックは承諾した。アルレッキーノのコルトラとも同盟も結んでいる。『ハイドラ』の女王、あんたも俺達と同盟を結びませんかね?」
長々とまどろっこしく話していたが、ようやく、アリットは本題に入る。
「成程。私、ムルド・ヴァンスやコミッションを裏切れ、と」
「もう、言っていい情報らしいのでお伝えすると、『ゴースト・カンパニー』のケイトさんもコミッションを裏切っています」
それを聞いて、残月は何の感慨も抱いていない様子だった。
むしろ、まるで至極当然の事として納得しているみたいだった。
「なるほど。ムルドが死亡したとなると、後は、あたしと、メテオラ、レスター、ヴァシーレだけという事ね」
「そういう事になりますねえ」
残月は、顎に手を置いて少しだけ考えていた。
彼女はしばらくして、口を開く。
「…………、悪くない提案ね。あたしも、もはやコミッションに対して、所属する理由も、そもそも、コミッションという利権の調停が必要だとも考えてないわ」
残月は煙草の火を、灰皿に押し付ける。
「ただ。完全にそちらに付く事はしばらく考えさせて欲しいわね。どうせ、時間はまだ、たっぷりあるんでしょう?」
「そうっすね。宜しくお願いします」
アリットは軽く頭を下げる。
「そういえば、あんたもマフィアなんでしょ? あんたの上には、ボスがいると言っていた。何処の組織かしら?」
「…………、俺は殺し屋であって、マフィアでは無ぇえっす」
アリットはそう答えた。
「あら、そう。それは無礼を詫びるわ」
アリットは飄々と笑う。
「さて。そろそろ、俺達、此処から抜け出した方がいいっすよ。ポロックが勝利するにせよ、暴君が勝利するにせよ。此処にいる事は好ましくない。『ハイドラ』の女王、イイ返事を聞かせて欲しいっす」
そう言うと、アリットはコートを翻して、地下室から出ていった。どうやら、地下室に入る場所とは別に隠し扉があるらしく、彼はそこへと向かった。残月にも付いてこい、といった風情だった。
ビル全体から崩壊音が聞こえてくる。
残月は仕方なく、アリットの後を付いていく事にした。
†
二人の会話を、ヴァシーレは地下室の物陰から耳にしていた。
……ひょっとして、奴らの側に付けば、俺はコミッションよりも上に行く事が出来るのか?
もはや、コミッションに対するしがらみなんて無い。
実質、ムルド・ヴァンスとレスターの二人が維持を願っていただけではなかったのか。ならば、この辺りで裏切り、見限るのが得策。今更、マイヤーレの『売春斡旋利権』なんてものが手に入るかどうかも分からない。
ヴァシーレは静かに決意した。
状況が向こう側に傾いたのだとすれば。
躊躇なく、死亡したと言われるムルド・ヴァンスを、師であるレスターも、そもそも、コミッションそのものを裏切る、と。
ギャンブルは勝てる勝負を挑んだ方がいい。
コミッションは、既に負け札だ。
ならば、賭ける側に付いた方がいいに決まっている。
幼い頃から、父親に叩き込まれていた信条。
たとえ、誰を裏切ってでも、勝てる側に付け、と。
自身の利益になる側に付け、と。
勢力図が変われば、ヴァシーレは躊躇なく、自分の利益の得られる場所へと向かう。
既に、ヴァシーの頭の中では、決断していた。
まずは、『ゴースト・カンパニー』のケイトを探す事だ。
明らかに、今回の件で手引きをしている節がある。
ケイトを見つけ出して、彼のバックにいる組織に忠誠を誓う。
……だが、いいのか? 最後の最後に寝首を掛かれるかもしれねぇ。向こうに付いた途端に、俺は切り捨てられるかも……。
何より、自分は以前、コルトラに宣戦布告している。
向こうには、コルトラがいる。
考えなければ……。
ヴァシーレは、ともかく、この崩れ行くビルから脱出する事を優先事項にした。
†
……ねえ、あたしは一体、何の為に生まれてきたの? 神様がいるのだとすれば、教えて欲しい……。
残月は虚ろな瞳で、何も無い空を眺めて、煙草をふかしていた。
マフィアとしての矜持なんてものは無い。
そんなものを掲げている者は恥知らずだと残月は考えている。
『ネメアのライオン』、アリットの車に乗りながら、残月は漠然と空を眺め、滅びゆくポロックの肉体を見据えているのだった。
2
昼下がりの事だった。
ポロックとの戦いにおいて、メリュジーヌが半壊した。
ムルド・ヴァンスの葬儀が、数日後に行われた。
ムルド・ヴァンスの葬式は彼の組織の者達で盛大に行われた。
レスターとウォーター・ハウスは、その葬式に出席していた。
棺桶の周辺には、大量の花が飾られており、喪服の男達で溢れ返っている。組織の構成員達だけでなく、街の市長や一般市民であるカフェのオーナー、ブティックの店員など、彼の葬式に訪れた者達は余りにも多い人種だった。聞く処によると、マフィアの構成員では無い者達が大多数であるみたいだった。神父が弔辞を読み上げて、人々が涙を流していた。
葬式が終わり、ムルドの入れられた棺桶が地面に収められる。
ウォーター・ハウスは、一通り、その光景を目にすると、葬儀場を出ていく。
顔ぶれには、メテオラ、残月、ヴァシーレ、ケイトの姿が無かった……。
メテオラからは、ムルドの葬式の際に、敵に狙われるのを警戒して、後ほど墓参りに向かう、と連絡を受けている。事実、コルトラの部下と思わしきメリュジーヌの警官達が何名か葬式に潜り込んでいた。……このような場を、鉄火場にするようなのは好ましくない、というメテオラなりの配慮だろう。
だが、写真で見せられたケイトという男。
それから、残月にヴァシーレ。
彼らの姿が無い事を、更に、連絡の一つも無い事を、レスターは訝しんでいるみたいだった。
†
ムルド・ヴァンスの葬儀が終わり、ウォーター・ハウスとレスターは紅茶店へと向かっていた。レスターいわく、よくムルドと一緒に情報交換の場に使っていた場所らしい。
「市民達は、マフィアと我々、殺し屋を一緒にしていますが。殺し屋はマフィアでは無いんです。互いのルールがあり、縄張りがあり、どちらにも矜持がある」
レスターは運ばれてきたクランベリー・パフェに匙を付けていた。
ウォーター・ハウスはコーヒー・ゼリーのパフェを美味しそうに口にする。
「マフィアはマフィアとしての、殺し屋は殺し屋としてのプライドや面子があるって事か」
「表の世界と一緒です。歌手と絵描きは違うでしょう? どちらも兼ねている場合もありますが、異なる存在です。殺人を行わないマフィアの構成員だっていますし、殺し屋は基本、暗殺などの依頼のみで食べていく。その報酬は極めて高額です」
「まあ、マフィアの問題を片付ける上で“一番、汚い仕事”を請け負っているってわけか」
「そうですね……。まあ、見方によっては、ポロックのような臓器売買、児童売春、あるいは女衒や依存性の強いドラッグを売りさばく者を一番の卑業と見ている者もいますが……。一般的には、人殺しで金を貰う、という事が忌み嫌われているんじゃないでしょうか」
そう言いながら、涼しい顔で、レスターはセイロンティーを口にする。
「暴君。あくまで、これはマフィアの抗争。貴方の目的はとっくに達成している筈だ。あの二人の姉弟の命を狙うマイヤーレを壊滅させ、そして、貴方の力を奪ったムルド・ヴァンスは死亡した。貴方とグリーン・ドレスも何らかの形で狙われる事になると思いますが、あくまでこれはマフィアの抗争です。そして、私も立場を決めかねている」
レスターは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「私はマフィアではなく、マフィアに雇われる殺し屋です。コミッションが機能不全に陥っている今、私とて義理立てする理由もありません。ましては恩義のあるムルド・ヴァンスを死に追いやってしまった。私は潔く引退を考えている……」
ウォーター・ハウスは、少しだけ考えて、訊ねる。
「責任、か?」
「そうですね。それもありますが、彼との縁は深い…………、少しだけ、昔話をしても宜しいでしょうか?」
「長いのは勘弁してもらいたいんだがなあ。まあ、時間はある。聞くぞ」
そう言うと、ウォーター・ハウスは二杯目の紅茶を注文するのだった。




