12.もう遅い
ルヴィアスは不思議そうな顔をして、「リュディールの奴隷が持っていたものだ」と答えた。
「細工が珍しかったから、こちらの職人に頼んで磨いてもらった。お前のために選んだものだ」
「まさか……奪った、と?」
「彼らは奴隷だ。指輪など必要ないだろう」
背中を冷や汗が伝った。天と地が、ひっくり返ったような気がした。
「私の……私の実の母も、リュディールの出身でした」
メイドから「リュディールの伝統的な細工技法です」と言われて、私の中に、奥深くに封じ込めていたはずの記憶が、堰を切ったように流れ込んでいた。
◇
私が三歳くらいだから、先の大戦の末期。ヴェルザードの軍は、国境を越えて勝利を重ねていた。
当時、リュディールの血を引く者は「敵性民族」と呼ばれ、匿うことは重罪とされていた。それは家族であっても同じことだった。
そう、歴史書に書かれていた。
扉を叩く音が聞こえたのは、夜の深い時間だったと思う。微睡む私を、父が血相を変えてクローゼットに押し込んだ。
「音を立てないで。何があっても、出てきてはいけないよ」
耳元で囁く声は震えていた。扉が閉まり、暗闇と木の匂いの中で私は膝を抱えて座っていた。
それからすぐ、慌ただしい足音と多くの怒鳴り声が響いた。板の隙間から見えたのは、父の革靴と、知らない男たちの足だった。
「フェリオン・ラドゥー。貴様、リュディール人を匿っているだろう! 妻をリュディールに送ったと見せかけていたようだが、ここにいるのは分かっている! さっさと連れてこい!!」
「彼女は何の関係もありません、妻はこの国でヴェルザードの民として……」
父の声が途切れた。どさりという鈍い音がして、それから父が咳き込む音がした。
殴られたのか、あるいは突き飛ばされたのか、父の足がよろめいて壁際へ後退したのが見えた。
「エミリア・ラドゥー、またの名をエミリア・フィラン。リュディール南部の出身、現在二十八歳。全てわかっている」
母の名前が呼ばれると、聞き慣れた静かな声がそれに答えた。
「分かりました。行きましょう。大丈夫よ、あなた」
板の隙間から、母を男たちが取り囲む様子が見えた。私は何が起こっているのか、段々と理解しつつあった。
「エミリア、エミリア……!」
母に取り付けた縄を引いた男たちが玄関の方へ歩を進めると、父が縋るような声を上げた。
「放せ、妻を放してくれ、頼む、頼む、どうか見なかったことに……!」
続く声は、やがて嗚咽に溶けていった。
「リュディール人のくせに、生意気にも隠れ住むとは。フェリオン、お前にもじきに処分が下る。逃げることは許されない」
男がそう吐き捨てるとすぐ、扉が大きな音を立てて閉まった。
父が床に膝をついているのが見えた。父の肩は激しく動いていた。
どのくらいの時間が経ったのか、クローゼットが開けられた。父の目が赤く腫れていたが、顔つきは別の人間のように固まっていた。そして私の鞄に手当たり次第に荷物を詰め込んだ。
「裏口から出て、裏通りを西に行く馬車に乗り込みなさい。イルゼおばさんの家がある方向だ。西に向かう馬車はみな隣街へ行くから」
小さな鞄を私の肩にかけた後、その手が私の頬に触れ優しく撫でてくれた。
「おとーさんは……?」
「大丈夫。すぐ追いかけるよ」
その返事が嘘だと、わかっていた。それでも父が「行け」と言うから走った。
そして気がついたら、私は知らない街の路地に立っていた。そこで、私は養父母と出会った。
◇
沈黙が室内に落ちた。
ルヴィアスが驚いた顔で私を見た。それからすぐに立ち上がり、私のそばへ歩み寄り腕を伸ばしてきた。
「そうか。だが、関係のないことだ」
私は抱きしめられていた。いつもと同じ温もりで、いつもと同じ匂いで。それなのに、心は温まらない。
「リュディールの血は卑しい。だが、君だけは違う。君は特別だ。愛していることに変わりはない」
「……違う。そうじゃなくて」
反射的に腕を押すと、ルヴィアスは抵抗せずに離れた。不思議そうな顔をしている。
「母は。両親は、今どこに」
ルヴィアスは答えず、「リリテア」と彼は静かに私を呼んだ。
「優れた人間と、そうでない人間の生活が異なるのは、当たり前だ」
私は一歩下がった。だが、ルヴィアスは不快に思った様子もなく笑いかける。
「賢明な君なら分かるだろう? 奴らは劣った種族ゆえ、君のようには生きられない。私たちの管理下で、土や炭を被ることが最善で、最も生産的だと。今さら、何を怖がっている?」
「わ、私は……」
「君が使ってきた教本も、口にしてきた食事も、着ていた服も、全部あの者たちが私たちの指示下で作ったものだ。これまでの君への贈り物も。だからこそこの国は発展したんだ」
高等学園で本を読めたのは。三食を食べられたのは。養父の研究室で学問に触れられたのは。この国が大戦に勝ち、活気に満ちていたのは。
全てリュディールの同胞が、母と同じ場所に生まれた人々が流した血と涙の上に、この国の豊かさは建っていた。
「大丈夫だ。君は建国祭の段取りを一人で立て直した。リュディール公社の奴隷……労働者への采配は見事だったと聞いている。君は立派な公爵夫人になれる。俺が保障する。言っただろう? 君は特別だと」
「それは……」
建国祭の段取りがエドワルドたちの不始末によって遅れに遅れ、時間を取り戻すために私は追加の人員発注をかけた。それを即決できたのは、追加の人員発注に、それほど費用が掛からないからだ。
着せられた汚名が晴れ、私は再び学園で「才女」と呼ばれるようになった。空いた生徒会長の座に推薦されてもいる。
私は名誉男爵の養女でありながらも、学園主席の自分を誇りに思っていた。しかしその知性を育てた土台が何でできていたか、一度も考えなかった。
この国の恩恵を当たり前に受け取って暮らしてきた私に、今さらこの人を責める資格があるとは、思えなかった。
膝から力が抜けた。
だが床に崩れ落ちる前に、ルヴィアスの腕が私を支えた。
「リリテア」
ルヴィアスの声は、変わらず柔らかい。
おとぎ話のお姫様のように、私は丁寧に抱き上げられた。客間のベッドへ運ばれる間、彼の胸に顔を埋めたまま、何も言えなかった。
シーツの上に横たえられて、ルヴィアスが顔を覗き込んだ。その目は本当に心配そうで、本物の愛情があることは疑いようがない。
「君の過去は、この地位をかけて俺がすべて隠す。誰にも知られることはない」
温かい手が、私の髪を撫でた。
窓の外の庭園は、灯りに照らされて夜でも豪華だと分かる。この国で、王室に次ぐ権力者の家だ。
私はその美しさを見つめながら理解した。ここを出ることは、できる。でも、どこへも行けない。
私を養女にしてくれた心優しい養父も、リュディール人と同じ扱いで働くことを“罰”としてエドワルドたちに課した。虐げられた私のために。
その罰を、正当なものだと思っていた。私を虐げた彼らに相応の仕事だと。
「君は俺の傍にいればいい。愛しているよリリテア」
ルヴィアスの手が、私の頭を優しく撫でた。ルヴィアスの胸に顔を寄せると、彼の鼓動が少し速く響いていることが分かる。愛されている。疑う余地はない。
だから、私はそれ以上何も言わなかった。
(そうだ。正式に公爵夫人になったら、奴隷たちの待遇改善でもしよう)
支給されるパンをもう少し柔らかいものにするとか、休憩時間を少し増やすとか、無慈悲な処罰を見直すとか。そういう慈悲深い配慮をしよう。
もう、後戻りはできない。もう遅いのは私も同じだった。
けれどエドワルドやミーナ、ジェレムとは違う。
私はこの国の大将軍、ルヴィアス・アスキー公爵に、溺愛されているのだから。
終




