書物庫イベント
「う~ん。困ったな……」
思わず、そう呟くしかない事態がわたしに発生していた。
いや、このまま、回れ右をして、何事もなく部屋に戻るだけで解決してしまうほど単純なことではあるのだけど、わたしにはそれができない理由もあったのだ。
ここは、書物庫の扉前の通路。
いつものようにアイルにここまで案内され、彼女を帰したところである。
不思議なことにこの世界に来てから、3年目に入ったというのに、まだわたしはこの書物庫の場所を覚えられずにいた。
正確には、部屋から出る時に、アイルがいなければ、何故か迷ってしまうのだ。
そんなに離れていないはずのこの場所に、辿り着けたことがない。
元の世界ではこんなことはなかったのに、まるでこの身体の本来の持ち主のようである。
「すくみこ! 」のラシアレスの特徴はドジっ娘というだけではなく、ありえないほどの方向音痴という設定もあったのだが、それが見事にわたしに影響しているようだ。
そんな能力いらない。
どうせなら、もっと役立つものが欲しかった。
言い替えれば、アイルが迎えに来るまで部屋に戻れないということでもある。
そして、困ったことに彼女がここに来るのは、お昼ご飯の完成した後。
つまり、今から3時間後だろうか?
だが、3時間もここで無為に過ごすことにはかなりの抵抗もある。
時間を無駄にしたくはないのだ。
それに、わたしはいつまでもこの場所にいられない理由もあった。
それは……。
「ラシアレス?」
不意に、声が聞こえた。
天の助けか?
いや、アルズヴェールだ。
「どうした? 中で待っていないなんて珍しいな」
そう尋ねてくる彼に対して、わたしは、自分の口の前に右手の人差し指を立てて、「黙ってくれ」と伝える。
「どうした?」
わたしのちゃんと意図は伝わったようで、彼は顔を近づけて、小声で確認してくる。
「先客だよ」
「先客?」
「現在、書物庫内のイベント中みたい。だから入ると、お邪魔かな」
「そんなのがあるのか……」
「『すくみこ!』のプレイヤーには全てあったよ。好感度上昇イベントだからね」
早い話が、この扉の向こうで、デートをしているヒロインがいるのだ。
他でやってくれと言いたいが、こればかりは仕方ない。
書物庫は、本来、自分の大陸に対する理解度を高める場所だが、そこでその時、一番好感度が高い神様が現れるのだ。
始めは労い、少しずつ良い雰囲気になっていくうちに……という流れだった気がする。
10年以上昔のゲームの記憶だ。
そして、好感度上昇イベントではあるが、必須イベントでもない。
しかも、3年目以降に書物庫を使用すれば、どのヒロインでも自動発生するイベントだった。
つまり……、「すくみこ! 」のシナリオライターには悪いが、ほとんど思い入れがない。
始めこそ、ときめいてはいたのだが、やり込むにつれて、イベントスキップをしていた気がする。
それぐらいよく見た光景だった。
流石に、「親の顔より見たイベント」とまでは言わないけれど、創造神様が出ていたCG枚数よりは発生させていると思う。
「好感度上昇? 濡れ場か?」
「……男性向けゲームでも、ある程度、好感度上昇させてから濡れ場に至ると思うのだけど」
その系統のゲームはしていないので、はっきりとは言いきれない。
乙女ゲームはやったが、ギャルゲーやエロゲーと呼ばれる男性向けジャンルには興味がなかったのだ。
「鬼畜ゲーム系には、そんなイベントないぞ」
「そんな特殊な話を持ち出されても……」
特殊……だよね?
「まあ、ハルナをからかうのはこれぐらいにして……」
やっぱりからかっていたのか。本当に彼はよい性格していると思う。
「中にいるのは?」
「シルヴィクルと黄羽様」
勿論、黄羽様にもちゃんと名前はあるだろう。
そして、その名は「すくみこ! 」と同じように「レディアンス」様ではないと思う。
だけど、その点については、シルヴィクル自身からも、当人……いや、当神様からも聞いていないので分からない。
「好感度上昇イベントって、具体的にはどんなイベントだったんだ?」
「シルヴィクルと黄羽様なら確か……」
プレイヤーキャラではない状態のシルヴィクルは、自信がなく内気なタイプだった。
そこで、中の人とは真逆だと言ってはいけない。
今は、ある意味プレイヤーが動かしているのと同じようなものだから。
シルヴィクルは、ライバルのヒロインたちの迫力に気圧されていたが、書物庫イベントにて、自信家で誇り高い黄羽様が現れた時に、「控えめなそなたの内に秘めた向上心は高く評価している」とお褒めの言葉をいただいた気がする。
わたしは、そうアルズヴェールに説明した。
「そんな言葉で、転がるのか?」
彼は怪訝そうに眉を顰めた。
「自信を持てない女の子が、自信家の人にそう言われたら多少は喜ぶとは思うよ」
そもそも、乙女ゲームというのはそんなものだろう。
「足りない隙間を何かで埋めて欲しいのが乙女心だから」
それが台詞だったり、行動だったり、存在だったり……。
攻略対象の言葉が、現実的じゃないのは分かっていても、少なくとも、ゲームをしている時は、リアルな自分を忘れて、キラキラな世界にいる素敵なヒロインになれるのだ。
「ハルナも……、何か足りなかったから、『すくみこ! 』をやっていたのか?」
不意にアルズヴェールがそんなことを聞いてきた。
「どうだろう? もう10年以上前のことだからねえ……」
友人におすすめされて、始めたゲームだったことだけは覚えているのだけど……、どんな気持ちを抱えていたのかまでは覚えていない。
まあ、年代的に黒く痛々しい歴史を大量に創作する時代だ。
無意識に闇に葬った記憶も多いことだろう。
「正直、覚えていない。社会に出ると忙しくて余裕がなくなったし」
学生時代みたいに時間的にも精神的にも余裕はなくなった。
好きだったゲームも、気付けばログインするだけのものが増え、楽しむことがかなり減っていた。
「あんなに……、『すくみこ! 』のことが好きだったはずなのにね」
気付けば……、起動することもなくなったゲーム。
内容も既に朧気で、今回みたいにイベントが発生してから、「こんなものもあったな」と思い出す程度になっている。
「一番好きだった創造神様とのイベントも……、あまりよく覚えていないかも」
「……創造神が好きだったのか?」
それは言外に「趣味悪いな」と聞こえる口調だった。
「この世界の創造神様と違って、『すくみこ! 』の創造神様はもっとやる気に溢れた神様だったよ」
「原作の創造神は、基本無関心だが、時々厄介なことを起こす神だったんだよ」
……なんだろう。
彼の発言を聞く限り、この世界は原作準拠な気がする。
この世界に来て、何度かお会いした創造神様には、「すくみこ! 」のような熱を感じられないのだ。
できるだけ楽したい……というようなやる気のなさがある。
恐らく、わたしたちが何の成果も上げられなかったとしても、「すくみこ! 」のバッドエンドのように怒り狂うような姿は見せないだろう。
「しかし、濡れ場中なら、邪魔するのは確かに悪いな。鉢合わせても気まずくなるから、一度、出直すか」
アルズヴェールは最善の行動を口にしたが……。
「それができたら、苦労はない」
わたしはそう言うしかなかった。
「……まさか、まだ一人で部屋に戻れないのか?」
わたしの台詞と表情からそれを察したのだろう。
彼の言葉に頷くしかなかった。
「ラシアレスは……、救いようがないほどの方向音痴だったからな」
そう言いながら、アルズヴェールは乱暴に頭を掻くという、美少女に似つかわしくないような動きをする。
そして……、その動きをピタリと止めて、何故か嬉しそうな顔を見せながら……。
「じゃあ、オレの部屋に来るか?」
わたしに向かって、こう言い放ったのだった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




