第十三話 何ともないでは済みませんわ
王都の朝は、静かに忙しかった。
荷車はいつものように石畳を鳴らし、城門前には入市の列ができ、宮廷の厨房からは焼いた生地の匂いが流れてくる。見た目だけなら何ひとつ変わらない。旗は揺れ、衛兵は槍を持ち、通りには朝の人波がある。
だが、王宮で働く者たちの足だけが、少し早かった。
リディア・フェルナンは回廊の角で立ち止まり、道を譲った。書板を抱えた侍従が二人、小走りに通り過ぎる。追い越していった文官は、礼をする余裕もなく頭だけ下げて先へ行った。
以前にも忙しい朝はあった。
けれど今の王宮には、忙しさとは少し違う、細い棘のようなものが混じっている。
何かが大きく壊れたわけではない。
だからこそ厄介なのだと、リディアにももう分かり始めていた。
「リディア様」
背後から声をかけられて振り向くと、年若い女官が軽く息を切らしていた。
「王妃宮側の帳場へ、こちらを」
差し出されたのは、厨房から上がってきた納品控えだった。リディアが受け取ると、女官はほっとしたように笑う。
「助かります。今日は、人が少し足りなくて」
「最近、よくそう聞きます」
「ええ……仕事が増えたわけではないのですけれど」
女官はそこで言葉を濁し、苦笑だけ残して去っていった。
仕事が増えたわけではない。
なのに、人が足りない。
それはつまり、以前なら表へ出ずに片づいていた調整が、今は人手を食っているということなのだろう。
帳場へ着くと、いつもより机の上が落ち着かなかった。
乱雑というほどではない。だが、いったん揃えたはずの帳面が、もう一度積み直されている。封を切った書類の脇に、差し戻しらしい付箋が増えていた。片づいているのではなく、片づける暇がないまま形だけを保っている。そんな机だった。
「リディア」
明るい声に振り向くと、セドリック・アストレアがいた。今日もきれいな服を着ている。襟も袖も乱れなく、顔色もよい。見る限り、この人だけは以前と何ひとつ変わっていない。
「おはようございます、殿下」
「おはよう。朝から皆がせかせかしていて、かなわないな」
セドリックは窓の外へ目をやった。
「見てみろ。通りはいつも通りだ。店も開いているし、厨房の煙も上がっている。少なくとも、王都が傾いているようには見えない」
軽い口調だった。
目に見えるものだけで、足りていると判断している声だった。
「殿下」
「何だい」
「見えているものが動いていることと、無理なく回っていることは、同じではないと思います」
セドリックは少し目を丸くしたあと、肩を揺らして笑った。
「君までそんなことを言うのか。兄上か、オズワルドに吹き込まれたかな」
「誰かに言われたわけでは……」
「なら、あの令嬢の影響か」
リディアは黙った。
否定しようとしても、完全にはできない。
あの夜、クラリス・グランディエルが見ていたものを、自分はいまになって少しずつ見始めている。
それは事実だった。
セドリックは気にした様子もなく続ける。
「安心するといい。暴徒もいないし、飢えた声も上がっていない。大袈裟に騒ぐほどのことではないさ」
そう言って去っていく背中を見送りながら、リディアは息をついた。
以前なら、その言葉で少し安心していたかもしれない。
けれど今は違う。
表へ出ない不便は、悲鳴にならない。
悲鳴にならないまま、人だけを静かに削っていく。
そのことを、もう知ってしまった。
帳場の奥では、オズワルド・ベルンハルトが封書を開いたところだった。
宰相は杖を脇へ立てかけ、封の切れ目を確かめるように指でなぞっている。目元の疲れは隠せていないが、声はいつも通り静かだ。
「リディア嬢」
「お邪魔しております」
「邪魔ではありません。今は、手が一つでも多い方が助かる時間帯です」
それは宰相らしからぬ正直さだった。
リディアは書板を置きかけて、その机の上の封書に目を留めた。北方からの印。グレイ領からの報せだと分かる。
オズワルドはその視線に気づいたのだろう。隠すでもなく封書を軽く持ち上げた。
「辺境からの中間報告です。今朝、北へ戻る定期便の折り返しが入りまして」
「クラリス様から、ですか」
「代官フィリップ殿名義ですが、中身はかなりあの令嬢の手ですな」
その言い方に、リディアは少しだけ笑いそうになった。
オズワルドは封書へ目を戻す。
「羊毛の初回売却益が、前回より上振れ。仕分けと損耗の抑制が効いたようです」
「成果、なのですね」
「はい。小さいですが、もう“偶然”では済ませにくい数字です」
その時、別の扉が開いた。
ユリウス・アストレアが入ってくる。
第一王子はもともと整った顔立ちをしていたが、最近はそれに疲労が薄く重なっていた。人前で乱れないだけに、余計に分かる類の疲れだ。
「来ていたか」
「はい、殿下」
オズワルドが封書を差し出す。
「グレイ領からです」
ユリウスはそれを受け取り、数行で目を止めた。
「……上げたか」
「前回よりは」
「十分だ」
ユリウスはそのまま書状を机へ戻した。
「額ではない。あちらで手を入れたことが、数字に返った。それで十分だ」
オズワルドが頷く。
「父上には見せるべきだな」
「ええ。そろそろ“辺境へやった娘が勝手に頑張っている”では片づきますまい」
リディアは、その言葉の重さをゆっくり飲み込んだ。
辺境での小さな改善が、王都で無視できない報告になり始めている。
「では、王家は……クラリス様を戻すのですか」
二人の視線がこちらへ向いた。
失礼だったかもしれない。けれど、今の話を聞いてしまえば、そう思わずにはいられなかった。
ユリウスは少し考え、それから言った。
「戻ってもらいたい、と考える者は増えるだろう」
「でも」
「でも、それと戻ってくることは別だ」
平坦な声だった。
だが、その平坦さこそが重かった。
オズワルドが静かに言葉を継ぐ。
「ローラン公からの書面は、相変わらず完璧でございます」
リディアは以前聞いたことを思い出した。
礼も理も欠かさぬ、だが“足りぬ”ことだけは嫌でも伝わる文。
「つまり、謝って済む話ではないのですね」
「ええ」
オズワルドは苦く笑った。
「私が頭を下げて済むなら、どれほど楽かと思いますが」
「父上もそう思っている」
ユリウスが低く言う。
「私もだ。だが、それでは足りない」
リディアの胸が少し冷えた。
壊したのは婚約だけではない。
家と家の信義、公の場での信用、その全部だ。
それを、別の誰かの謝罪で肩代わりしてはいけない。
謝れる人ほど、それを分かっている。
「知らせだけは、先に入れるべきでしょう」
オズワルドが封書を揃え直す。
「グレイ領で成果が出始めていること、そしてこちらがそれを把握していること。そこまでは礼として」
「同意する」
ユリウスは頷いた。
「呼び戻しではなく、見ていると伝えるだけだ」
リディアはその違いの重さを、ぼんやりと感じ取った。
戻ってきてほしい、と言うのはまだ早い。
けれど、見ている、分かっている、と伝えることには意味がある。
帳場を出たあと、リディアは王宮の裏手の渡り廊下を歩いた。
厨房に近いそのあたりは、昼前になると匂いが濃くなる。焼いた粉、煮た肉、湯、酢、香草。
そして今日、その中に少しだけ焦げた匂いが混じっていた。
「また少し焼き色が強いな」 「火加減じゃないよ、生地の伸びだ」 「でも、捨てるほどじゃない」
開いた扉の向こうで、料理人たちがそう話している。
大騒ぎではない。
けれど、“捨てるほどじゃない”という言い方が、どうにも王都の今を表している気がした。
捨てるほどではない。
困りきるほどではない。
止まるほどではない。
だが、前より良くもない。
そのあと、中庭でリディアはひとりになった。
風は穏やかで、花壇の花も崩れていない。学院から戻る途中の生徒たちの笑い声も聞こえる。見た目だけなら、やはり何も変わらない。
それでも、変わっている。
辺境では、桶が増えるかもしれない額のために、毛を分け、札を付け、縄を替え、置き場を作り、風と湿気と喧嘩している。
王都では、その結果が小さな報せとして机の上に届く。
その二つは、一本の流れだ。
「何ともない」
リディアは小さく呟いた。
セドリックの言葉を思い出す。
何ともないじゃないか。
まだ困っていないじゃないか、と。
「……何ともない、では済まないのね」
誰に聞かせるでもなく言ったその言葉が、冬の名残りの薄い空気へ消えていった。
中庭の風は穏やかだった。
花壇も崩れていない。
それでも、もう以前と同じ王都には見えなかった。
クラリス・グランディエルが辺境で動かしているのは、倉ひとつではない。
そう思ったところで、リディアはようやく、自分が少し青ざめていることに気づいた。




