第十話 分けるだけでは足りませんわ
翌朝、代官館の食堂には、羊毛が並んでいた。
長机の上いっぱいに、村ごとに分けた毛束が置かれている。ルークの村、ベルナ村、ハルト村。どれも同じ羊毛ではある。だが近くで見れば、違いは明らかだった。長さ、脂の残り、色、湿り気、絡まり方。ひと目で分かる差もあれば、指で触れて初めて見える差もある。
クラリス・グランディエルは机の端に立ち、それらを見渡していた。
「並べると、よく分かるわね」
フィリップが腕を組む。
「ええ。見たくないほどに」
エマは少し離れたところから、恐る恐る覗き込んでいた。
「同じ羊さんの毛なのに、こんなに違うんですね……」
「同じ羊ではないもの」
クラリスは一束を持ち上げた。
「でも、そこじゃないわ。違うのは羊だけじゃない。切り方も、洗い方も、乾かし方も、束ね方も違う。つまり“村ごとに別の品”になってしまっているのよ」
フィリップが低く頷く。
「だから商人にとっては、“今月たまたま揃った荷”にしか見えぬ」
「ええ」
クラリスはその束を置いた。
「だから今日は、理想の品質を決めるのではなく、最低限の線を引くわ」
その言葉に、食堂の入口にもたれていたルークが眉を寄せた。相変わらず不機嫌そうな顔だが、前みたいな剥き出しの反発だけではない。警戒しながらも、ちゃんと聞く気のある顔だ。
「最低限の線?」
「そう。上物の定義を細かく決めるのではない。まず、“ここを混ぜたら全体が死ぬ”という線を決めるの」
フィリップがわずかに目を細めた。
「なるほど」
「理想を全村に求めるのはまだ早い。けれど、下振れを止める最低線は今すぐ必要だもの」
エマが小さく手を上げる。
「下振れ、って」
「悪い方へぶれることよ」
「つまり、いい毛の話じゃなくて、“混ぜると困る毛”の話なんですね」
「そう」
クラリスは頷いた。
「朝から珍しく話が早いわね」
「今の、かなり褒めました?」
「あら、気づいたの」
「やっぱり褒めました!」
ルークが呆れたように息を吐く。
「朝からよくそんなふうに喋れるな」
「疲れていないからよ」
「じゃあ疲れさせた方が静かになるのか」
「試してごらんなさい」
「やめとく」
その軽口を切り口にしたように、空気がほんの少しだけ緩んだ。
クラリスは机の中央へ、細長い木板を三枚置いた。
ヴァルターが昨夜のうちに削ったものだ。表面は滑らかに整えられ、端には刻みが入っている。
「それが例の木の板か」
ルークが顎をしゃくる。
「ええ。ただし、前に見せた時とは使い方を変えるわ」
クラリスは一枚を持ち上げた。
「これは“こうなっていれば上物”を決める板ではない。逆よ。“こうなっていたら、上物に混ぜてはいけない”を決める板」
食堂が静まる。
ベルナ村のマルタが毛束を抱えたまま首を傾げた。
「綺麗に言い換えたところで、下に落ちるものは下に落ちるだろう」
「そうね」
クラリスは認めた。
「でも、そこを曖昧にして全部を一緒に売れば、上まで一緒に落ちるわ」
彼女は左の板を机へ置いた。
「一つ目。腹毛と短すぎる毛。これは上物に混ぜない」
ハルト村の老人がすぐに顔をしかめた。
「少しなら構わんだろう」
「少しずつ混ざるから、まとめて安く見られるのよ」
クラリスは別の束を持ち上げた。長く揃った背の毛に、短い腹毛がまばらに混じっている。
「一束なら“誤差”でも、十束、二十束で見れば“雑”になる。商人はそこを見て雑品扱いする」
老人がぼそりと言う。
「……量が減る」
「ええ。減るわ」
クラリスはためらわずに返した。
「でも、上物の値まで一緒に落とすよりはましでしょう」
次の板を置く。
「二つ目。泥、糞汚れ、草の絡みが強い毛は別束。きれいに見える部分へ混ぜない」
マルタが口を尖らせる。
「そんなの、皆わかってるさ」
「わかっていても、家に置き場がなければ混ぜるでしょう」
クラリスは視線を上げた。
マルタは黙る。
責められたからではない。責めではなく、事実の確認だったからだ。
最後の板を置く。
「三つ目。湿ったまま束ねた毛は、上へ上げない」
今度はルークが反応した。
「それ、うちに刺してるだろ」
「刺さるなら直しなさい」
「簡単に言う」
「簡単ではないわ。だから仮置き場と仕上げ場を作るんでしょう」
ルークは何か言い返しかけて、結局やめた。
険のある立ち姿のまま黙り込む。彼にしては珍しく、言葉より先に考えている顔だった。
クラリスはそこで、机の上の毛束を村ごとに並べ直した。
「今からやるのは格付けではないわ」
ベルナ村の女が首を傾げる。
「違うのかい」
「違う。まだね」
クラリスは一束を中央へ引いた。
「これは“売り方を分けるための分類”よ」
ハルト村の老人が鼻を鳴らす。
「綺麗に言うね」
「言い換えているんじゃないわ。順番を分けているの」
クラリスはもう一束をその隣へ置いた。
「わたくしは“下を作りたい”のではないの。上を守りたいのよ」
その一言で、部屋の空気が変わった。
ルークが、はじめて真正面からクラリスを見る。
マルタも、老人も黙った。
「村印は残す」
クラリスは続ける。
「どの村の毛が、どの分類で、いくらで出たか。戻り値はちゃんと返す。雑にまとめて“辺境の荷”にしない。その代わり、混ぜてはいけないものは混ぜない」
フィリップが低く頷いた。
「売り先への説明もつけやすくなりますな」
「ええ。今までは“グレイ領の毛です”しか言えなかった。これからは“この村の、この分類です”まで言える」
エマが帳面を抱えながら口を挟む。
「じゃあ、村の人も“うちの毛がどう扱われたか”分かるんですね」
「そうよ」
「それ、結構大事ですね」
「かなり大事よ」
ルークが腕を組んだまま、低く言う。
「……でもよ」
「何」
「うちの村の毛が“加工向け”に回ったら、皆、いい顔はしねえぞ」
「でしょうね」
クラリスは即答した。
「そこで揉める」
「揉めなさい」
あまりにあっさり言われて、ルークは一瞬だけ言葉を失った。
「は?」
「揉めるべきところなら、きちんと揉めた方がましよ」
クラリスは平然と言った。
「今までだって、心の中では揉めていたでしょう。なのに言葉にならず、帳面にも載らず、倉の中で全部が混ざった。それよりはずっといい」
ルークはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……相変わらず変なお嬢様だな」
「お褒めにあずかりまして」
それを合図にしたように、クラリスは実際の仕分けを始めさせた。
最初は全員、手が重かった。
自分の村の毛束が別の札の下へ置かれるたびに、顔が固くなる。とくにハルト村の老人は、短い腹毛の混じった束が“加工向け”の札へ置かれた時、あからさまに不機嫌になった。
「それは上だろう」
「違うわ」
クラリスは首を振る。
「長い毛はある。でも混ざっている。混ざっている以上、いまの段階では上へ上げられない」
「厳しすぎる」
「今までが緩すぎたのよ」
ぴしゃりと言ったあとで、少しだけ声を落とす。
「ただし、これは永遠にそうだと言っているわけじゃない。次に分けられたら、次は上へ行く。今日の分類は、未来の値札ではないわ」
その言葉に、老人の顔からほんの少しだけ強張りが抜けた。
マルタのところでも同じだった。
湿り気の残る束を“並”へ落とした時、彼女は露骨に眉をひそめた。けれどエマが横からそっと言う。
「昨日のままだったら、たぶん上も並も一緒に安く見られてました」
マルタはエマを見た。
それから、ふう、と肩を落とす。
「……あんた、侍女のくせに嫌なこと言うね」
「お嬢様の近くにいると、そうなるみたいです」
「不本意ね」
クラリスが言うと、エマは「ええっ」と抗議した。
そんな小さなやり取りの積み重ねで、ようやく場が動き始めた。
全員が、同じ言葉で同じ毛束を見る。
同じ意見にはならない。
けれど、どこで食い違っているのかが初めて見える。
それだけで、前に進んでいる。
日が傾く頃には、机の上の羊毛は三つの札の下に分かれていた。
上物。
並。
加工向け。
完璧ではない。
納得しきっていない顔もある。
けれど少なくとも、今までのように「何となく全部一緒」ではなくなった。
フィリップが束を見下ろして言う。
「ようやく、帳面に載せられる話になってきましたな」
「ええ」
クラリスは頷く。
「良い毛を決めたんじゃない。混ぜてはいけない毛を決めただけ。でも、それで十分よ」
ルークが机の端に手をついた。
「十分か?」
「最初はね」
クラリスは一番上の束を軽く持ち上げた。
「上を増やすのは、そのあと」
「順番か」
「そう」
ルークは少しだけ笑う。
「やっぱり、そう来るんだな」
「当然でしょう」
エマが、真っ黒になった指を見ながら呟く。
「でも、なんか、ちょっと気持ちいいです」
「何が」
「前は“どれもだいたい同じ”だったのが、ちゃんと違って見えるようになったので」
クラリスはそれに、ほんの少しだけ目を細めた。
「今日は上出来ね」
エマが目を丸くする。
「えっ、本当に?」
「あら、疑うの」
「だって珍しくて……」
「生意気なこと」
ヴァルターがいつの間にか置いていた紅茶から、まだ少し強い湯気が上がっている。
クラリスはそれを見て、一拍置いた。
エマがにやりとする。
「冷ましてありますよ」
「余計な気遣いね」
「今日は働いたので、ご褒美です」
「あら、生意気なこと」
フィリップが咳払いで笑いを隠し、ルークは露骨に呆れた顔をした。
けれど、その空気は朝よりずっと軽かった。
クラリスは紅茶をひと口だけ含み、それから机の上の木板へ目を落とす。
たった三枚の、粗い板。
けれど今日、初めてグレイ領では“羊毛の話を同じ言葉でできる”ようになった。
「分けるだけでは足りませんわ」
誰にともなく、クラリスは言った。
「でも、分けずに守れるものもない」
その言葉に、ルークは静かに頷いた。
グレイ領の羊毛は、まだ売れる理由になりきってはいない。
それでも今日、売れない理由は“なんとなく”ではなくなった。




