第九話 見てるだけでは決まりませんわ
翌朝、クラリス・グランディエルは倉の帳面を閉じると、迷いなく立ち上がった。
「村を見に行くわ」
食堂の長机で帳面を繰っていたフィリップが顔を上げる。
「ルークの村ですかな」
「ルークの村“から”よ」
クラリスはそう言って、机の上に指を二つ置いた。
「一つ見ただけで決めるのは、怠慢でしょう」
エマは湯気の穏やかな紅茶を抱えたまま、ぱちぱちと瞬きをした。
「ええと……たしかにルークさんの村は見ないといけないですけど、それだけじゃ駄目なんですか?」
「駄目ね」
クラリスはあっさり言った。
「今ほしいのは“よくできた村のやり方”じゃないもの。グレイ領全体で、どこがどう違って、どこなら揃えられて、どこが無理なのか。それを見たいの」
フィリップが小さく頷く。
「羊毛の見本便が安く見られた原因が、ルークの村だけにあるとは限らぬ、ということですな」
「ええ。あの商人は“今月はそうでも、来月も同じように出せますか”と言ったわ。なら、まず見るべきは来月も崩れない形があるかどうかでしょう」
エマが小さく息を吐く。
「仕事の話だと、お嬢様ってほんと容赦ないですよね……」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「褒めてません」
ヴァルターが壁際から一歩出た。
「馬は二頭で足りますか」
「足りるでしょう。ルークの村、ベルナ村、それからもう一つ、風の当たり方が違うところを見たい」
フィリップが帳面をめくる。
「なら、東の尾根沿いにあるハルト村がよろしいかと。水は近いが風が弱い」
「結構」
クラリスは頷いた。
「ルークを呼んでちょうだい。案内を頼むわ」
「また俺か」
そう言って現れたルークは、朝からしっかり不満そうだった。
「村まで案内しろ、ならまだ分かる。なんで他の村まで俺が引っ張り回されるんだ」
「口が利けるからよ」
「褒めてねえだろそれ」
「ほとんど褒めているわ」
「ほとんどじゃ困るんだよ」
ぶつぶつ言いながらも、ルークは結局先頭に立った。最初から断る気は薄かったらしい。そういうところも、クラリスは嫌いではなかった。
最初に着いたのはルークの村だった。
前に来た時と同じく、風が強い。家々は肩を寄せ合うように低く建ち、石垣が風を受け流している。羊毛の扱いも、村の暮らしと風の強さに引っ張られていた。
洗い場は川沿いにある。だが川は細く、春先の水は冷たい。泥と草を落とすには足りても、ゆっくり洗い込むには向かない。干すには風が便利だが、飛ばされないよう重しが要る。束ね方も、風で崩れにくいように太く固くなりやすい。
「前に言ってた“湿りやすい分”って、これですね」
エマが毛束をつまんで言う。
ルークが頷いた。
「川から上げた直後はそうだな。風が強い日はすぐ乾くが、曇ると一気に遅い。だからうちは、乾き切る前にとにかく束ねちまう家もある」
「束ねたあとで中が蒸れるわね」
クラリスが言うと、ルークは「だろ」と言いたげに顎をしゃくった。
「じゃあ広げればいい、って言われても、広げる場所がねえんだよ。風に飛ばされるし、子どもが踏むし、犬が潜る」
マルタも出てきて、腕組みで頷いた。
「王都の人は、何でも“ちゃんとやれ”で済むと思ってる顔をする。だがちゃんとやる場所がないんだよ」
「分かってるわ」
クラリスは短く返した。
前回より、ずっとよく分かっていた。
ここでは水より風が問題で、洗いより乾かしと束ねの工程が崩れやすい。
彼女は帳面へ書き込む。
ルーク村:風強。水冷。広げ場不足。風対策が必要。束太め。乾き切る前に結ぶ傾向。
そこからベルナ村へ向かった。
同じグレイ領でも、空気の手触りが違う。
こちらは湿地寄りで、風は弱い。代わりに地面が重い。足元のぬかるみが遅くまで残り、家の裏手も乾きが遅い。薬草を抱えた女たちが多く、羊毛もルークの村ほど量はないが、その分家の中へ持ち込まれる時間が長いのだとすぐ分かった。
「うちは水はあるよ」
ベルナ村の女が、洗い桶を見せながら言った。
「水だけならね。けど乾かない。干し竿を出しても湿気を吸うし、雨が降れば終わりだ。だから少し煙に当てる家もある」
エマが「えっ」と顔を上げる。
「煙に?」
「少しだよ。火を見ておける日だけだ」
クラリスは毛束を近くで見た。たしかに匂いが少し違う。悪いというより、混ざると揃わない匂いだ。
「乾燥のために煙を使うのね」
「薪は惜しいけど、腐らせるよりましさ」
ルークが横から言う。
「うちじゃ絶対やらねえな」
ベルナ村の女は肩をすくめる。
「そっちは風があるだろ。こっちはない」
そこでクラリスは、ルークの村で考えかけていた案をいったん畳んだ。
たとえば共同の干し場を作る。
たとえば風を避ける石垣の内側へ揃える。
それはルークの村には効くかもしれない。
でもベルナ村では、必要なのは風除けより風を通す工夫だ。
同じ形は、そのまま持ち込めない。
帳面へ書き込む。
ベルナ村:水近。湿気高。風弱。干し遅い。煙当てあり。匂い差。
エマは女たちに混ざって、あれこれ話を聞いていた。戻ってくるなり、小声で言う。
「お嬢様、あの、ここ、家の中も狭いです」
「見れば分かるわ」
「いえ、狭いだけじゃなくて、売り物と食べるものが同じ場所にあります。干し根菜も薬草も、毛も、みんな同じ棚の近くなんです」
クラリスはベルナ村の納屋を覗き込んだ。たしかにそうだった。
村に置き場がない。
この問題は、想像していたよりずっと根深い。
三つ目に回ったハルト村は、また違った。
尾根沿いだが、風の通り方が弱く、かわりに薪が手に入りやすい。家はルークの村より大きい。だがここでは、羊毛の扱いに別の癖が出ていた。
「長い毛を惜しんでるわね」
クラリスがそう言うと、村の老人がぎくりとした顔をした。
「分かるか」
「分かるわ」
腹毛に近い短い部分と、長い背の毛が、完全には分けられていない。
だがそれは雑だからではない。
長い毛が少ないから、少しでも量を増やしたいのだ。
老人はため息をついた。
「分けりゃ値が上がるのは知ってる。だが、分けすぎりゃ上物が減る。減れば“うちの売り物はこれだけか”って顔になる」
ルークが低く笑う。
「そりゃ分かる」
「笑うな若造。お前のとこは頭数があるだろう」
「あるが、あっても困るんだよ」
このやり取りを聞きながら、クラリスはようやく腹の底から納得した。
一村だけでは測れない。
もっと言えば、一つの物差しだけでは測れない。
現実の羊毛だって、長さだけでも、見た目だけでも決まらない。長さ、色、強さ、揃い方、その全部で見られる。グレイ領がバラつくのは、誰かが怠けているからじゃない。村ごとの風土も暮らしも違うのに、共通の「品質」の言葉がまだないからだ。
日が傾き始めた頃、クラリスは馬車の脇で立ち止まった。
ルークが腕を組む。
「で、どうする」
「どうする、とは」
「基準だよ。あんた、最初は木の板でも配れば揃うって顔してたろ」
クラリスはルークを見た。
その通りだった。
見えていなかったのはこちらだ。
「配るわよ」
ルークが眉を上げる。
「まだやるのか」
「ただし、今じゃない」
「……は?」
フィリップが静かに笑った。
「そう来ますかな」
「当然でしょう」
クラリスは帳面を閉じる。
「ルークの村だけ見て決めた基準を、ベルナ村にそのまま押しつけたら崩れる。ベルナ村で都合のいいやり方を、ハルト村に持ち込んでも崩れる」
「じゃあ決められないじゃねえか」
「いいえ。決めるわ」
クラリスはあっさり言った。
「でも“今日見たものだけで全体を縛るほど雑ではない”というだけよ」
その一言に、ルークは少しだけ黙った。
マルタが、ふっと肩の力を抜く。
「……なるほどね」
「共通の基準は作る。けれどその前に、どこまでなら全村に求めてよくて、どこから先は村ごとの事情に寄せるしかないかを、見切る必要がある」
エマがぱちぱちと瞬きをした。
「つまり」
「つまり、今日はまだ“決める日”ではなく“測る日”だったのよ」
「そういうの、先に言ってください」
「言ったでしょう。一つ見ただけで決めるのは怠慢だって」
「言われましたけど、もっと分かりやすくです!」
ヴァルターが馬車の扉を押さえたまま、わずかに目を伏せた。たぶん笑いを隠している。
ルークが石垣に寄りかかる。
「じゃあ、うちの村は試し台じゃなかったってことか」
「試し台ではあるわ」
「どっちだ」
「最初に見る村としてはね。でも、最初に見たからといって、お前の村をグレイ領の標準にするつもりはないわ」
ルークは少し考えてから、ぶっきらぼうに言った。
「……そりゃ、まあ、ましだな」
「お褒めにあずかりまして」
「褒めてねえよ」
でもその口調は、前よりずっと軽かった。
帰りの馬車の中で、エマはぐったりと座席にもたれていた。
「今日は、情報量が多すぎて頭がふわふわします……」
「結構よ」
クラリスは帳面を膝に置いたまま答える。
「そういう時に変に分かった気になる方が危ないもの」
「分かった気になると危ないんですか」
「危ないわ。今日みたいな日は、分からないことが増えた方が前に進んでいるの」
エマは「うへえ」と小さく呻いた。
フィリップが向かいで腕を組む。
「では、お嬢様。結論としては」
クラリスは帳面の一頁を開いた。
そこには村ごとの違いが、いつもより少しだけ乱れた字で並んでいる。
「結論は三つ」
指を一本立てる。
「まず、羊毛の質は、倉へ来た時点で半分決まっている。だから村を見ないで倉だけ整えても足りない」
二本目。
「次に、ばらつきの原因は怠慢ではない。風、水、薪、置き場、手の足りなさ。生活の制約そのものが品質を揺らしている」
三本目。
「そして最後に、一村だけ見て基準を作るのは危険。共通の最低線は必要だけれど、それは“どの村でも守れる線”でなければ意味がない」
フィリップが深く頷いた。
「ようやく、標準化の入口ですな」
「ええ。入口よ」
クラリスは小さく息を吐く。
「まだ板一枚で解決できる段階ではなかった。それが分かっただけでも、今日は十分」
エマがようやく顔を上げた。
「じゃあ次は、あの木の板をちゃんと使える日が来るんですね」
「来るわ」
クラリスは窓の外を見た。
夕方のグレイ領は、尾根も谷も同じ色へ沈み始めている。
「でも、今日じゃなかっただけ」
そして、静かにはっきりと言った。
「一村だけでは測れませんわ」
エマが小さく頷く。
「今日も追いつきました」
「ええ。今日は上出来ね」
「褒めました?」
「褒めたわ」
エマが目を丸くする。
「えっ、本当に?」
「あら、疑うの」
「だって珍しくて……」
「生意気なこと」
フィリップが咳払いで笑いを隠し、ヴァルターはいつも通り何も聞かなかった顔をした。
馬車は揺れながら代官館へ戻る。
倉という点から、村という線へ。
クラリス・グランディエルの視線は、ようやくその全体を結び始めていた。




