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ランバートの城壁へ行ってきた。
黒い霧がどれくらいまで迫っているか、知りたかったからだ。
もう、城壁に上るまでもない。
城門の入り口に立てば、地平線の向こうに黒い霧が微かに見えた。
この段階になると、番兵たちも口の周りを布で覆って警護していた。
もっとも、こんな場所に襲撃をかけるバカもいないと思うけど。
あと、何回チャンスがあるんだろうか。
霧はそこまで迫っている。
ランバートの街を飲み込むまで、そう時間はかからないだろう。
だけど。
失敗ばかりを繰り返しながら、ようやくここまで来れた気がする。
振り返ればいろいろな反省点はあった。
だけど、その時その時で精一杯のやってきたように思う。
ワイズから渡されたカバンを担ぎなおす。
城に戻るとすぐに準備を開始した。
時間的には昼頃だ。みんな起きてるし、ものも頼みやすい。
伯にお願いして、装備を揃えてもらった。
剣、斧、全身鎧、盾、連弩、それに酸の入ったフラスコだ。
連弩の矢は多すぎても邪魔になるので、前回と同じ三十本。
フラスコはカバンに入れて、五つとも持っていくことにする。
全身鎧を着るときには、エミリが起き上がって無理に手伝おうとした。
だけど、ベッドから降りようとすると、ミザリが泣きじゃくるので無理だった。
正直、弱り果てたが、代わりにミザリが、つたない手つきで鎧の隙間に布や綿を詰めてくれた。
見かねてマルガが手伝おうとしてくれた。
だが、手伝おうと近寄ってきたマルガを、ミザリはその小さな体でぐいぐいと押して遠ざけた。
まるでこれは自分の仕事だと言わんばかりに。
こんな小さな子が何を考えているかはわからなかった。
自分も役に立ちたいと思っているのか、それともエミリの仕事を奪われないように守っているのか。
子供なりに真剣で、だから大人たちはそんなミザリをただ見守ることにした。
いつもの三倍の時間がかかったが、鎧はきちんと着れた。
ずっとそばで見ていたから、それで覚えたのかもしれない。
子供は物覚えが早い。
ありがとう、と頭に手を置いた。
ミザリは不思議そうに自分を見上げると、ほんとうにうれしそうに笑った。
「準備は終わったかね?」
すべての装備を身に着けると、伯が座って見ていた椅子から立ち上がって歩いてきた。
右手の手袋をとって、差し出してくる。
自分はそれを握り返して、うなずいた。
「私からは特に何も言うことはない。
ただ……」
頼む。
それだけを告げられる。
部屋を出て、廊下を歩く。
後ろからは伯がついてきてくれた。
エミリも、これだけはどうしても、と言って無理に立ち上がって一緒に来た。
足元のおぼつかない彼女をミザリが小さな体で支えて歩く。
廊下の左右にマルガとオルガの姉妹が待っていた。
エントランスに向かって歩きながら、マルガは確認です、と言って今までの占いの結果をもう一度まとめてくれた。
「竜の弱点は、背中側のくびの付け根。そこにある一つだけ向きがさかさまになっているうろこです。
逆鱗は神経が集中しているらしいので、チャンスがあればそこを狙ってください。
あと、体の構造はほとんどほかの生物と変わりません。
これも占いで出たのですが、脳や主な臓器、その他の器官の位置もほぼ同じです。
これがどれだけあなたの役に立つかはわかりませんが……」
目の下に濃いクマを作って、申し訳なさそうに言う。
今、どんな言葉で慰めてもダメだろう。
それに作戦を立てる上での参考にだってなっている。
だから、これだけ。
「ありがとう!」
それで報われると思わないけれど。
「はい!」
マルガは力強く返事をくれる。
一方、オルガは何も言わない。
だけど、彼女にも感謝してるから。
「オルガ」
「ん?」
「君がいなかったら途中で終わってた。
感謝してる」
半分になった体をもとに戻してくれたのはオルガだ。
彼女は、ああ~、とやはり軽い感じで受け流した後、担いでいたカバンを見た。
そこにはワイズからもらったフラスコが入っている。
思い出しているのだろうか。
誰にともなく語り始めた。
「前はさ、すっごいいいやつで、才能もあって、同い年だけど尊敬もしてた。
あんなことがあって、二度と会うことはないと思ってたけど。
わたしの知識とあいつの知識が、あんたのところで一緒になった。
なんか、不思議な感じがするね?」
確かに。
「でも、居場所もわかってるんだしさ。また会えるよ」
オルガが顔を覗き込んでくる。
「ほんと?」
竜を倒して、また会う機会を作ってくれるの?
暗にそう言っているのだ。
苦笑しながら答える。
「ほんと」
エントランスにつくと、親方が待っていた。
「装備の具合は?」
全身の装備を確認しながら、親方が聞いてくる。
「問題ないよ」
「それから、服屋から預かった」
そういって親方はマントを一枚広げて見せた。
「待ちの戦法になるなら、これで全身を覆っておけば、腐蝕の影響を軽減できる」
実際、着せてもらうと動きも制限されない。
端をつかんで体を覆えば、確かに霧から装備を守れそうだ。
「ありがとう、もらっていくね」
親方は満足そうにうなずいた。
城の前庭には隊長がいた。
彼は何も言わずに、肩を叩いてくれた。
「そういえば、名前を聞いてなかった」
いつも隊長隊長と言ってたから。
隊長は少し迷っていたが、
「ラルゴ」
なんかおかしくて吹き出してしまった。
「こら、なんで笑う」
「だって、名前まで強そうなんだもん。
いろいろ教えてくれてありがとう、ラルゴ」
「やめろ、お前に名前を呼ばれるとなんか変な感じがする。
いつも通り、隊長と呼べ」
さらに御者がすでに馬車を止めて自分を待っている。
「もう、霧がそばまで来てるんでロクにお役に立てませんがね。
それでも行けるところまではお送りしますよ」
また、伯の呼びかけに呼応した人たちも見送りに来てくれた。
何百もの人が、城の前庭で自分のことを見つめていた。
何も言わず、ただ黙って自分を見ている。
みんなそうだけど、もうここまで来たらかける言葉も返す言葉もありはしない。
ワイズの言葉が頭をかすめる。
ここにいるのは、街のごく一部の人に過ぎない。
いろんな考えがあるだろう。
仲が良かったり、悪かったりも。
だけど、自分は自分のことを嫌いな人も助けてあげたい。
ここにいない人たちだって困ってるんだ。
怯えていたりするかもしれない。
たとえその人がどんなに悪い人でも、目の前で死なれるのはやっぱり嫌なんだ。
どうせ、救うなら街をまるごとだ。
やってることは変わらないんだし。
「ほんじゃ、行ってくる」
いつものあいさつをして、馬車に乗り込んだ。
街の中央通りには、人影は全くなかった。
時間的には昼を少し過ぎたあたり。
前に来たときは、この時間はたくさんの人でにぎわっていたはずだった。
どこに行っても人、人、人で。
そんな喧噪が今ではとても懐かしい。
さまざまな種類のお店も軒並み「CLOSED」の札を下げ、道端にびっしりと並んでいた露店も今は一つもない。
やがて、城門の近くまで来た時だった。
そこには目を疑うような光景があった。
人が道を埋め尽くしていた。
城で見送りしてくれた人数の比じゃない。
城門を中心に何千と言う人が集まっていたのだ。
ざわざわと。
馬車がゆっくり進もうとすると、わずかに道が開いた。
誰も何も言わなかったが、人々は前を馬車が通るたびに荷台に手を触れていった。
まるで何かを託すような。
数えきれない人の手が、馬車の荷台に触れた。
やがて、門をくぐるとき、城壁の上にぽつんと誰かが一人でいるのがわかった。
こちらを見下ろしている。
ワイズだ。
彼は横を向いていたが、目だけはこちらを見ていた。
小さく手を振ると、応えるように彼も軽く手を上げた。
馬車は少しだけ走った。
やがて、霧が近づいてくるとその足を止める。
「すいません。ここまでです……」
相変わらず申し訳なさそうな声。
「いや、十分だから。
それに、あの日。
自分が半分になったとき、布で包んでくれたこと。
忘れてないからね」
御者は下を向いて黙り込んだ。
「行ってくる」
下りて、ネビルに向かって歩き出す。
何度か振り返った。
霧に隠れて見えなくなるまで、馬車はずっとそこにあった。