第一章 雨の中で
一.
「待てーっ!」
澄み渡った晴天の空の下。
人の叫び声と馬の蹄の音が、響いていた。
「はっはっはっ! 追いついてみろーっ!」
馬の上で楽しげに叫んでいるのは、賀茂忠行。
黄金色の鮮やかな髪を持った、見た目麗しき陰陽師である。
その後ろで、幾人かの男達が忠行を追いかけていた。
「困りますぞ忠行様ー!」
「貴方がきちんと勉学に励まねば、私共が江人様に怒られてしまいまするー!」
泣き顔で懇願する男達を、忠行は「喧しい!」と一蹴した。
「儂は忙しいのじゃ! 退屈な勉学なぞしておる暇はないわい!」
「――どうせ貴方のことですから、色事で忙しいのでしょうな」
背後から、皮肉のこもった声が聞こえ、肩がびくりと跳ねた。
視線を、向ける。 赤髪の男が、後ろに居た。
椿樹。
式神である。
「ぬおぉっ! つ、つつつつ椿樹! おおおお御主、いきなり現れるでないぞ! 驚くではないか!」
驚く忠行に、椿樹は侮蔑の眼差しを向けた。
「驚いたのは私の方ですぞ、忠行殿。あれほど修業をしろ、勉学に励めと言っていたのに、貴方ときたら女にかまけて遊んでばかり」
「まあ、そういうな。まだ若いうちに沢山遊んでいたほう得じゃろう。それに、御主も男なら儂の気持ちが分からぬこともあるまい」
「――私にはさっぱり分かりませぬな」 忠行はきっぱりと言い放った椿樹を見つめ、口元に小さく笑みを浮かべた。
「ほう。この間、式が見える程に霊力の強い女を見つけたのじゃが。良い女であったぞ。御主にも紹介しようと思っていたのに、致し方ないのう。……もしや御主、男に興味があるのか?」
「なっ」
忠行は手綱から片手を離し、呆然としている椿樹の頬に添えた。
「儂で良ければ、相手をしてやっても良いぞ……」
囁くように言い、指先をつう……とゆっくり滑らせる。
「っ!」
椿樹は小さく息を呑み、固く目を瞑った。
「冗談じゃーよ、椿樹」
「……え」
ぱちくりと目を瞬かせる椿樹を見、ふわりと微笑んだ。
「先程儂を驚かせた仕返しじゃ」
「忠行殿……、貴方って人は……」
見開かれた蒼い瞳が、段々と怒りの色に染まってゆく。
溢れ出した冷気が、忠行を包み込んだ。
「つ、椿樹……?」
恐る恐る名を呼んだ。
瞬間、であった。
「――氷華」
凛とした声が、響いた。
同時に、ぱきぱきと乾いた音を立てて、地面が凍り始めた。
瞬く間に忠行達を取り囲み、範囲を広げてゆく。やがて走っている馬の足も凍りつき、その場で立ち止まってしまった。
「何ですか、これは」
椿樹は周りを見渡し、眉を顰めた。
「恐らく何者かが呪を使ったのじゃろうよ。儂等と同じ類の力を感じる」
そこで忠行は、すぅっ、と目を細めた。
「……ま。まだまだ不完全ではあるがな」
「もしや、今賀茂家で噂のあの御仁でしょうか……」
「どうじゃろうのう」
ふと下を見下ろし、にやりと笑みを浮かべる。
振り向き、言った。
「椿樹。どうやら御主の勘は当たりのようじゃよ」
視線の先に居たのは、齢十程の少年であった。 肩までおろされた、赤褐色の髪。
漆黒の瞳。
ぼろぼろの薄汚れた水干を身にまとっていた。
着ているものはみずぼらしいが、よく見ると綺麗な顔立ちをしている。
しかし、顔の左半分を覆った包帯が、何とも言えぬ不気味さを醸し出していた。
「赤い髪に、鋭い漆黒の双眸。噂通りじゃな」
忠行は独りごち、馬から地面に降り立った。
少年に歩み寄り、右手を差し出す。
「儂は賀茂江人の息子・忠行じゃ。御主のことは噂で聞いておるぞ。その歳で見鬼の才を持っているらしいな。名は何というのだ?」
「――」
少年は訝しげに忠行を見つめていたが、やがて唇に柔らかな笑みを浮かべ、手を握った。
「播磨の国から参った、芦屋道満だ。宜しく」
「道満、か。変わった名じゃ、な……」
突如、忠行は口を噤んだ。
……否、実際には動けなくなったのだ。
道満の指先が、額に触れている。
其処から、漆黒の光が漏れていた。
――これは、呪か。
驚く忠行をよそに、道満はくるりと後ろを振り向いた。
息を吸い込み、口を大きく開く。
「――賀茂忠行を捕らえましたぞ〜」
随分と、間延びした声だった。
途端に、「でかしたぞ小僧」と歓声を上げながら、男達が走ってきた。
――しまった、追われていたことをすっかり忘れておった。
石のように身動きがとれぬまま、道満を睨みつけた。
道満は口元に笑みを湛え、「自業自得だろう」と楽しげに言った。
「江人殿は、すっかりお怒りだったぞ。奴には重い罰を与えねばならぬ、とな」
――何、じゃと。 冷や汗が、頬を伝う。
憤怒の形相をした父親に睨みつけられる様を想像し、顔から血の気が引くのを感じた。
――椿樹。
助けを求め、目を動かす。
「頑張ってくださいね、忠行殿」
満面の笑みを浮かべた椿樹の顔が、忠行には鬼のそれに見えた。
二.
半刻後。
忠行は部屋の床に額をこすりつけていた。
……所謂、土下座である。
そっと顔を上げると、鬼の形相をした父と目が合い、慌てて目線を逸らした。
此処は、父・江人の寝屋である。
貴族の屋敷内なのにも関わらず、寝具以外に置かれているものが殆どない。
それが江人の性格をよく表していた。 「――忠行よ。我が寝屋に呼ばれたのは何故だか分かっておるな」
江人の低く朗々《ろうろう》とした声が耳を通り、肩がびくりと震えた。
「……は。この忠行が父上との勉学と修行をすっぽかしたからでありまする」
「その通りだ。面をあげよ、忠行」
忠行はゆっくりと顔を上げ、前方に目を向けた。
自分と同じ黄金の髪色を持った男が、此方を見つめていた。
鷹の如く鋭い眼光を放つ琥珀色の双眸。
肌は雪を想わせる程に白く、唇は桜色に淡く色づいている。
一見すると女かと見間違えてしまうくらいの、優男だ。
だが、彼が常に纏う冷気が、周囲の人々に恐怖の念を抱かせているのだった。
「お前ときたら、齢二十にもなって正妻も持たずに女遊びばかり……。もう少し嫡男としての自覚を持ったらどうだ」
江人は、ほう、と悩ましげにため息を吐き、脇息に肘をかけた。
「かような説教も今までに何度してきたことか。お前がそれ程までに色事を好むのであれば、致し方あるまい」
すくりと立ち上がり、忠行の元へ歩み寄る。
「父上……?」
不思議に思い、名を呼んだ。
直後、視界が暗転した。
「う、わ!?」
受け身をとる間もなく、床に倒れた。 ぎらり、と。
頭上で刀身が光る。
「うあぁっ!」
唸りを上げて迫ってきた切っ先に恐怖し、大きな悲鳴が唇から漏れた。
思わず、目を瞑る。
しかし、何時までたっても何も起きない。
恐る恐る瞼を開けると、江人と目が合った。
彼が手にしている刀が、忠行の履いている指貫の丁度真ん中あたりにあてがわれていた。
「な、何を……」
震える忠行を一瞥し、江人はゆるりと瞬いた。
「お前を、不能にしてやる」
「……は?」
俄には信じ難い言葉に、思わず聞き返した。
だが江人は表情一つ変えず、忠行を見下ろしている。
「これに懲りて、女遊びを控えることだな」
江人が冷ややかに言い放つと共に、刀が僅かに動き、かしゃりと音を立てた。
「ひいぃっ!」
忠行は顔を青くしつつ、両手を前に突き出した。
「ちょ、ちょっと待ってくだされ! そんなものでこそぎ取られるのは幾ら何でも嫌ですぞ!」
「お前の女遊びを防ぐことが出来るのだ。安いものだろう」
「何処がですか! そりゃあ男衆に言い寄られてばかりの父上には分からないやもしれませぬが、これを取られたら儂は――」
そこで忠行は、言葉を切った。
背筋が凍る程に冷たい殺気が、寝屋中を包み込んでいた。
「父、上……?」
ゆっくりと、見上げる。
こめかみに青筋を浮かべた鬼が、其処にいた。 数秒後。
悲鳴と、刀が風を切る音が、屋敷を揺らした。
「くっ、父上め……。奴が醍醐帝に言い寄られておるのは周知の事実じゃろうが。あんなに怒らなくても良いものを……」
忠行は無残にも切り裂かれた指貫を見つめ、涙混じりの声で毒吐いた。
「江人殿の前で禁句を口にするからですよ」
椿樹は苦笑しつつ、新しい指貫を差し出した。
「なれど、私が止めに入らねば危ない所でしたな」
「全くじゃ」
忠行は先程の出来事を思い出し、身体をぶるりと震わせた。
「江人殿は少々天然ですからな」「天然どころではない、父上はどうしようもない大莫迦者じゃよ」「またかようなことを言う」
椿樹はくつくつと喉を鳴らして笑った。
「それでも、江人殿を尊敬しておるのでしょう?」
「まあな」
忠行はふっと頬を緩め、目を伏せた。
「父上は特に暦道に関してはずば抜けた才をお持ちの方じゃ。されど、宮中の貴族共は賀茂家を只の下級貴族だと決めつけて、然るべき地位を与えようともせぬ。それどころか、強い霊力を持ち、希有な髪色をした父上を、人の姿を借りた妖だと蔑む始末じゃ」
幼い頃、江人に連れられて内裏に顔を出していた時からずっとそうだった。
すれ違い様に心無いことを囁かれても、人外のものだと噂されても、江人はけして怒らなかった。 凛として、己の道を突き進んでいた。
「だからこそ、儂も父上の後を継ごうと思ったのじゃ。いつか皆が頭を上げれぬ程に立派な位をもらって、賀茂家を嘲っていた者達を見返してやる為にな」
「……成る程」
椿樹はふわりと微笑し、忠行の肩を軽く叩いた。
「ならば、より一層勉学や修行に励まねばなりませぬな。女遊びもほどほどにして」
「否、それとこれとは別じゃよ~」
「忠行殿……」
悠然と言い、からからと笑うと、椿樹ががっくりと肩を落とした。
三.
……同じ頃。
江人は半分程上げられた御簾から外を眺めていた。
皐月。 梅雨の季節である。 先程降り始めた雨が、庭園を濡らしていた。
「ふう……」
江人は浅く息を吐き、傍らに置いてある唐菓子に手を伸ばした。
『男衆に言い寄られてばかりの父上には分からないやもしれませぬが――』
忠行の言葉が、脳裏に浮かぶ。
「ちぃ……っ」
小さく舌打ちをしつつ、次々と唐菓子を頬張った。
――どれもこれも、全ては奴の所為だ。
込み上げる苛立ちを、一人の男にぶつける。
へらへらと笑みを浮かべているその顔を思い浮かべると、更に苛ついてくるのであった。
「どうした、江人。せっかくのかわいい顔が台無しだぞ」
男の声が、耳朶を打つ。
それは、今し方思い浮かべていた者の声であった。
顔を、上げる。
そして、顔を此以上ないほどにしかめた。
「……何故我が屋敷にいるのだ、帝」
帝と呼ばれた男は江人の冷たい眼差しをものともせずに、にっこりと微笑んだ。
お忍び用の狩衣に包まれた身体は、雨でしっとりと濡れている。黒い髪から伝う雫が、彼を殊更艶やかに見せていた。
……醍醐天皇。
現在、平安京の全てを支配する最高権力者である。
「いや、ついお前に会いたくなってな。お忍びで来てしまったのだ」
「供の者も連れずに、か? 大方、徒歩でこの雨の中来たのだろう。莫迦なことをする。只でさえ身体が弱っているのだ。風邪でも引いたらどうするつもりだ」
「す、すまん……」
帝はしゅん、とうなだれた。
その姿に何故だか罪悪感が込み上げ、江人は内心慌てた。
――これではまるで、我が輩が悪いみたいではないか。
ゆっくりと立ち上がり、狩衣を脱いだ。
「これにでも着替えろ、風邪を引く」
乱暴に差し出し、顔を背けた。
頬に熱が集まるのを感じながら、我ながららしくない、と内心苦笑した。
「――それにしてもさっきのお前は凄かったな」
「……何がだ」
眉を潜めて問う江人をちらりと見遣り、帝はくすりと笑った。
「いや~、唐菓子喰ってるお前がまるでねずみみたいでさ。頬にいっぱい詰め込んでるとことか」
「……は?」
「でも、あまり喰ってたら太っちまうから気をつけろよな。只でさえ女みたいなんだからさ」
ぴしり、と額に筋が浮かぶ。
壁に立てかけてあった刀を手に取り、鞘を抜いた。
「いや、でもかわいいからそれはそれであり……か……」
頬に手を当ててうっとりと天を見つめていた帝の声が、止む。彼の瞳に、恐怖の色が浮かんだ。
「ぎゃああああっ!」
屋敷中に、本日二度目の悲鳴が響いた。