第二章 紅い髪
一.
「ぐぬぬぬ……」
雲一つない、青空の下。
男の低い、呻き声が響いていた。
「くっ……何故儂がこんな目に」
山積みになった書物が、ゆらゆらと揺れている。
忠行は、数多の汗を流しながらそれらを抱えて歩いていた。
「いくら儂が上に気に入られておるからといって、面倒ごとを全て押し付けるだなどと、情けない奴等よ」
ふん、と忌々しげに鼻を鳴らし、しかめ面で不平を垂れる。
……つい先程のこと。
陰陽師等に雑用を押し付けられたのであった。
忠行は陰陽得業生であったが、陰陽寮一の秀才として名を馳せていた。そのためか陰陽頭や陰陽助に非常に気に入られていた。
だが、それを妬む者達からの嫌がらせも日常茶飯事であった。
「今日もまた随分と重そうですな」
隣を歩く椿樹が、くすくすと可笑しそうに笑った。
「ならば手伝ったらどうじゃ。御主は儂のお目付役であろう」
「雑用も修行のうちですぞ、忠行殿。私の役目は貴方の成長を見守る事。陰ながら応援しておりまする」
「けっ、こういう時だけ都合良くお目付役を演じおるわ」
忠行は皮肉たっぷりに呟いた。
「――ならば、この俺が貴方をお助け致しましょう」
ふと。
背後から声がした。振り向く間もなく、書物を軽々と取り上げられる。
「……保名」
名を呼び、後ろに目を向ける。
体格の良い若い男が視界に入ってきた。
安倍保名。
……彼を始めて見た人は誰でも武士と勘違いしてしまうだろう。それ程に、がっしりと逞しい身体つきをしている。
だが陰陽寮に直丁として務めている――雑用ではあるが正真正銘の貴族である。
「儂を手伝うのは大いに結構じゃが、自分の仕事は良いのか?」
「はい、もう大体は終わらせております」
そこで保名は、蜜色の瞳を細めて微笑んだ。
「自分の事よりも忠行殿の危機を救う事のほうがよっぽど大切なことですよ」
「そ……、そうか」
あまりにも真っ直ぐな言葉に、さすがの忠行も声を詰まらせた。
「しかしな、保名よ。その堅苦しい喋り方はどうにかならんのか? 子供の頃は普通に軽い口をきいておったろうが」
「そ、そんな滅相もごさりませぬ。今はもう子供の頃とは違うのですから」
「えー。儂、寂しい」
「駄々をこねないでくだされ。気色が悪いですよ」
「気色が悪いとは何じゃ」
忠行はむっとして保名を睨んだ。
堅苦しい喋り方を指摘はしたが、面と向かって悪態をつかれるのはあまり気持ちの良いものではない。
「そういえば、先程誰と話されていたのですか?」
「話を逸らすな、話を……って、え?」
思えば、椿樹の気配がしない。
周囲に視線を這わせたが、その姿はなかった。
「奴め、何がお目付役じゃ」
「もしや忠行殿の式ですか」
「そのようなものじゃ」
椿樹は、主以外の者に姿を見せることをしない。だが、元々は有名な妖だったらしく陰陽寮では結構な話題となっているらしかった。
――ま、儂にも奴が何の妖かは分からぬがな。
「……あ」
保名が、ぴたりと足を止めた。
「どうした、保名」
視線を追う。
向かい側の渡殿から、男が歩いてくるのが見えた。
透き通った白い肌。
烏帽子から僅かに覗く金糸。
伏せられた睫は、女のように長い。
華奢な身体つきもあって、遠目から見ると女と勘違いしてしまいそうだ。
だが、誰をも寄せ付けぬ凛とした、それでいて力強い存在感を彼は纏っていた。
……息をすることさえ、躊躇われる。
「貴方の父君は、いつ見てもお美しいですな」
保名は、ため息をこぼすように、ひっそりと呟いた。
「男にしておくのが勿体無い」
「父上の前で絶対にそのような事を言うでないぞ」
忠行は保名とは別の意味で声を潜めた。
「……大事な所を刀で斬られたくなければな」
保名はきょとんとして忠行を見つめていたが、やがてくすくすと笑みを零した。
「忠行殿も面白いことを言う。あのように美麗なお方がそんなはしたない真似をするわけがありますまい」
――いや、本当にそんなはしたない真似をしたんじゃがな。 忠行は内心で重いため息を吐きながら、乾いた笑みを浮かべるしかなかった。
「――ふ、ふ。なかなかにお目が高いな」
突然だった。
背後から伸びてきた手に、肩を掴まれた。
同時に、低い声がぬるりと耳に滑り込む。
「だが、あれはこの俺のものだ。あまりじろじろと見るなよ」
ふわり。
白い袖が、視界を覆う。
むせかえるような薫物の香りが、鼻孔を擽った。
「誰ぞ!?」
視線を、横に滑らせる。
同時に、大きく息を呑んだ。
白い直衣に身を包んだ男が、目の前にいた。
……醍醐帝。
後に左旋した菅原道真公の祟りによって命を落としたと伝えられる、悲劇の皇帝である。
「し、失礼致しました! 帝が江人殿をお気に召していたとは露知らず!」
保名が、慌てて床にひれ伏した。
それを見て忠行も素早く片膝を付いた。
「忠行、保名。このような色狂いに頭を下げるでない。陰陽寮の誇りが汚れる」
頭上から、低い声が聞こえた。
江人が、帝を真正面から睨みつけていた。
いつの間に、忠行達の元へ移動していたのだろうか。
「む、色狂いとは人聞きの悪い。俺は江人にしか狂うていないぞ」
「そうか、貴殿は色狂いではなく変態だったか」
「はは、余計悪くなってないか?」
冷たい眼差しを向ける江人に対し、帝はへらへらと頬を緩ませている。江人も表情こそは険しいが、口元が微かに緩んでいる。二人の間には身分の差など一切ないように見えた。
「――江人殿にも、忠行殿以外に心を許せる方がいるのですね」
保名が穏やかな表情で言う。
「まるで身分の差なぞ感じさせぬ」
「あの二人は付き合いが長いからのう」
忠行は、ふっ、と目を伏せた。
「深い絆で結ばれておるよ、息子の儂よりもな」
実をいうと、江人と帝は忠行が物心つく頃には既に交流があった。
息子である自分の預かり知らぬところで絆を深めている二人を、当時は妬ましく思ったものだ。
「帝が羨ましいですか」
「なっ、そんな訳あるか!」
予想外の言葉に、思わず保名を怒鳴る。
顔が赤く火照るのを感じた。
「図星ですか、顔が真っ赤ですぞ」
「――!」
何も言い返せず、忠行はくすくすと笑い声を漏らす保名を、ただ無言でぎろりと睨めることしか出来なかった。
「ぎゃあっ!」
突然、帝の口から悲鳴があがる。
見ると、江人が刀を帝の首に突きつけていた。
……溢れんばかりの殺気を全身から放ちながら。
「ち、父上! 気をお確かに! 此処は内裏ですぞ!」
慌てて江人を羽交い締めにしながら叫ぶ。
「離せ、忠行。この変態にはもはや我慢出来ぬ!」
眼光をぎらつかせているその様は、まるで恐ろしい悪鬼。
……相当怒っているようだ。
「良いではないか、今日くらい!」
「良いわけあるか! 何処でも彼処でも迫りおって! だから良からぬ噂がたつのだ、阿呆!」
「江人があまりにも可愛いのが悪いんだ!」
「ば、莫迦か貴殿は! 帝ということを弁えろと言っておるのだ!」
目に涙を浮かべて叫ぶ帝と、般若の形相で言い返す江人。
内容からして端からみたらまるで男女の痴話喧嘩だ。
「――一つ、聞いても良いですか」
ぽつり、と。
疲れた顔で、保名が呟いた。
「お二人は一体、どういう関係なのですか?」
二.
「これは、どういうことでしょう……」
椿樹が、呆れ混じりに呟く。
彼の目の前には、凄い勢いで晩飯を食べる二人の若者の姿があった。
道満と、忠行である。
お互いに熱い火花を散らしながら、強飯をかっ喰らっていた。
……ほんの数分前までは、いつも通りの平和な食事であったのだ。
忠行が、道満に喧嘩をふっかけるまでは。
――よっぽど今朝道満殿に捕まったのが嫌だったんでしょうな。
今朝の出来事を思い出し、椿樹は苦笑した。
――初対面で油断していたとはいえ、元服もままならない童に呪をかけられたのですから、無理もない。
ふと、部屋の入り口に座っている主と目が合った。
この上なく不機嫌そうに顔をしかめている。
「椿樹、あの二人を止めろ。飯が不味くなる」
女のようにぽってりとした赤い唇が、不釣り合いな低い声で呟いた。
「――なんだか台無しですな」
「……何だ、椿樹?」
思った事を口にすると、更に声音が低くなった。椿樹は袖で口元を覆い、目を、つう……、と横に逸らした。
「否、何でも。直ぐに止めまする」
くわばらくわばらと内心呟きながら、忠行等に向き直った。
刹那。
「う……っ」
顔を青くした忠行が、勢いよく立ち上がり、此方へ向かって駆け出した。
……嫌な、予感。
すっ、と反射的に忠行を避ける。
しかし、背後にいた主人の勘は苛立ちで些か鈍ったみたいであった。
「なっ!」
「うぐ……っ!」
身体がぶつかる音と、息を呑む声がした。
その、直後。
何とも言えぬ香りと共に、悲鳴にも似た怒号が耳元まで運ばれてきた。
……怒号は無論、哀れなる被害者・賀茂江人のものである。
「――と、いう訳で」
ごほん、と小さく咳払いをする。
「罰として、貴方達には食器洗いをしていただきまする」
椿樹は、屋敷の奥にある台盤所――現代でいう台所である――に居た。
「え〜、なんで儂が」
隣で周囲をものめずらしそうに眺めていた忠行が、露骨に顔をしかめる。
「……忠行殿」
「ひっ!」
椿樹の青い目がぎろり、と睨めつける。途端に忠行は大人しくなった。
「文句を仰る事は赦されませぬぞ。忠行殿が朝餉を台無しにしたのですからな」
「――じゃあ何で私もなんだ?」
道満が不満げに顔をしかめた。
「こんな雑用、本来は下郎か下位の者の仕事だろう。それに、私は何も悪いことはしておらぬではないか」
「何を仰る。貴方も忠行殿と食べ比べをなさっていたでしょう。貴方も同罪ですよ」
「そうじゃ、そうじゃ!」
横で大袈裟に相槌を打つ忠行を再度睨む。
「……まあ、一番悪いのは忠行殿ですが。後で江人殿に謝罪に行きましょうね」
「い、嫌じゃ! 儂はまだ死にたくない!」
ぶんぶんと大きく首を横に振るその顔は真っ青であった。
「何故江人殿をそんなに怖がるのだ? あんなにお綺麗で優しい方なのに」
首を傾げる道満の言葉に、思わずくすりと笑みが零れた。
確かに道満の言うとおり、怒りさえしなければ、表情は怖いが誰にでも気配りが出来る優しい男ではある。暦学に非常に優れており、また武道の才も武士に引けを取らない。何故今の地位に甘んじているのか不思議なくらいなのだ。
「忠行殿は特別ですからな。あの方の逆鱗に触れることをほぼ毎日やらかしておりますし。本当にもうわざとかと思う程」
「貴様、もしかして良い歳こいて親に構って欲しくて怒られるようなことをしでかしておるのではあるまいな」
道満が心なしか冷たい視線を忠行に向ける。
「今朝の行動といい、貴様は本当に陰陽師を目指しているのか? 仮にも賀茂家の次期当主候補なのだろう。もっと自覚を持ったらどうなのだ。貴様のような愚か者が兄弟子だなどと、我ながら先が思いやられるな。本気で陰陽師になるつもりがないのなら、今すぐに宮務から外れると良い。貴様のような者がいると此方も迷惑なのだ」
「なんじゃと、こら」
忠行の顔色がさぁっと瞬く間に変わった。
「た、忠行殿!」
慌てて間に入り、肩に手を置こうとするが、呆気なく振り払われた。
「先程から何だその口のききかたは。儂は御主よりも上の地位なのだぞ。それに儂は本気で陰陽師を
目指している。御主にとやかく言われる筋合いなぞないわ!」
「私も貴様のような者にとやかく言われる筋合いはない」
「いい加減にしろ、道満!」
忠行が道満の胸倉を掴み、拳を振り上げた。
「お止め下され!」
椿樹は慌てて彼を羽交い締めにした。
「離せ! 儂はもう我慢ならん!」
きっ、と鋭い瞳が睨みつけてきた。それは普段の忠行からは想像出来ぬ程に激しい怒りに燃えていた。
「何故父上もこのような輩を連れてきたのじゃ。顔を常に包帯で覆っているような不気味な奴なのにのう」
ふっ、と歪んだ笑みが浮かぶ。人が他人を嘲る時の、あの冷たい表情である。
「あの髪なんて、どうじゃ。式でもないのに赤いぞ。まるで」
「――やめろ」
殺気に満ちた低い声が、冷え切った空気を切り裂く。
……道満であった。
「此処も、同じなのか」
「道満殿……!!」
椿樹は、大きく息を呑んだ。 道満の声色が、涙で濡れているように聞こえたのだ。
「江人殿を信じていたのに。結局、此処も」
くるりと踵を返して、部屋から駆け出す。
後を追うことも出来ず、二人は立ち尽くしていた。
「――いつまで儂を羽交い締めにしているつもりじゃ」
「……あ」
沈黙を破った声に、慌てて忠行から手を離した。
「何を、しておるのだろうな。儂は」
くしゃり、とかきむしるように髪に触れる。
指先に絡んだ黄金色の髪が、光に反射して輝いた。




