第十一話
柴田優佳は二人分の洗濯物を植物の蔦を加工して作ったバスケットに入れて、家の屋根に作った物干しへと階段を使って上がった。今日は日差しも良く、程よい風が吹いているから洗濯物日和だった。
洗濯物を干し終えて、物干し場から空を見上げる。三年前から何度も見上げた異世界の青空だったが、青空の力は不思議な物で、たとえ見上げた空が自分達の住む世界の物ではないと判っていても、人間の心を晴れやかにして、前向きにする効果があると優佳は感じていた。上を向き、ポジティブに考えて前に進む事の大切さは、異世界に転移してから身に付け学んだ大切な事だ。その大切な物を胸に秘めながら前に進む、そうして生きてきたら、あっという間に三年間が過ぎてしまったと、優佳は思った。
物干し場から降りようとした瞬間、彼女の家から離れた丘の方で、白い糸くずのような煙が一本、青空に向かって伸びているのが見えた。その丘から伸びる白い煙を凝視すると、優佳はその狼煙の意図が何であるのかをはっきり見抜いた。
「帰って来たんだ!」
優佳は嬉しさをあらわにして、弾むように物干し場を降りた。
アクライ国の中心部から少し外れた、官吏などの住宅が立ち並ぶ地区にジロム・バルガスの屋敷はあった。政商という身分という財力に支えられたその屋敷は、大陸中央部、内海に近い東部の小国であるアクライ国にある建物では王宮の次に大きく、立派な建築材を用いられて作られていた。屋敷には一〇頭近い荷役用のラバを買うことが出来る厩舎に、五〇人以上の賓客を招いても宴会が出来る広場、そして温かい湯につかる事が出来る巨大な湯船も備えられていた。それだけの屋敷を所有して住むという事は、アクライ国で普通に生活していては到底たどり着けない財力を持っている事に等しいことだった。
だが財力を持っていたとしても、一度健康を害して大病を患い、自由に身体を動かすのも簡単にいかない状態になってしまえば、全て無用の長物になってしまうという事を、ジロムは痛感していた、去年の終わりから病気を患い、今年はまだ屋敷から出ていない彼にとって、優しく包み込んでくれる物と言えば、寝室の窓から差し込んで部屋を満たしてくれる柔らかい光と、妻になってくれた渡瀬日菜子くらいだった。
「何か欲しいものはありますか?」
寝台の上で横たわるジロムに日菜子は訊ねた。
「水をくれ」
ジロムが掠れた声で答えると、日菜子は枕元から離れて、サイドテーブルに置かれた水差しに入った水を陶器のコップに注いだ。そしてジロムの状態をゆっくりと起こし、水を入れたコップを彼の口元に運んで、ゆっくりと水を飲ませた。先代国王の愛人の子として生まれ、王位を継ぐ事は無くとも一代で誰もが羨むような財力を手に入れたジロムだったが、強さを表していたその肉体はやせ細り、今では湯殿と便所に行くのもやっとになってしまう程の、弱々しい人間になってしまっていた。
「他に何かありますか?」
水を飲み終えると、日菜子は恭しくまたジロムに訊いた。
「いいや、大丈夫だ。少し横になりたい」
ジロムが言うと、日菜子は彼の身体を支えてゆっくりと寝台に寝かした。少し前まではそのまま日菜子が添い寝をして眠りに着くまで寝床を一緒にしたが、今はそれすらもなくなってしまった。
「ありがとう、ヒナコ。君が居てくれて助かるよ」
「いいえ、感謝されるほどの事などしておりません。妻として当然の義務を果たしているだけにすぎませんわ」
日菜子は淡々と答えた。現代日本のジェンダー観や自分らしさのイメージなど、この屋敷の敷地に入った時に全部捨ててきたと、日菜子は自負していた。
「君を妻に迎え入れてよかった。もし君が居なければ、他人に気遣ってもらう事の大切さや、優しくしてくれる人へ感謝する気持ちを忘れていたかもしれん。最期になってこういう気持ちにさせてくれたのは、君のおかげだ」
「そう言って下さると、私も嬉しいですわ」
日菜子は恭しく答えて、ジロムの手を取り、自らの下腹部に押し当てた。
「もしジロム様がお望みなら、私はあなたの子を身ごもり、産んで育てる事も出来ますわ。ここでもう三年も過ごしたのです。一人の女としての能力は、もう十分にありますわ」
「そんな事はしなくていい。私のような先が短い人間の相手をする事より、もっと大事な事があるはずだ」
ジロムはそう呟き、彼女の手を弱々しく振りほどいて下腹部から手を放した。日菜子は少し残念そうに「そうですか」と呟いた。それと同時に、寝室の入り口の陰に誰かが立つ気配を彼女は感じた。
「どなたですか?」
日菜子が入り口に向かって訊いた。
「私です、マルヤンです」
答えたのは日菜子がこの屋敷に入る以前から住み込みで働いている女中のマルヤンだった。
「何でしょうか、マルヤンさん?」
「先ほど、見張りの丘から狼煙が上がりました。ユーリ様がお帰りになられたようです」
「そうですか」
日菜子はそう答えた。ユーリは護衛の真一やオリオールと共に帰還した後、まずは報告をアクライ国王へ行くのが通例となっているから、出迎えはその後になるだろうと思った。
「ユーリ様のお出迎えには、私が行きます。長旅でお疲れでしょうから、マルヤンさんは湯殿の準備をお願いいたします」
「承知いたしました」
マルヤンは恭しく答えると、そのまま下がって行った。
「ユーリが帰ったのか」
ジロムが訊ねた。
「そのようです」
「出迎えたら、まっすぐこっちに連れて来てくれ。大切な一人息子だからな」
ジロムは淡い光に照らされた天井を見上げながら小さく呟いた。




