第六話「風邪」
お嬢ちゃんとあの場所で会うようになってから二月ほど過ぎ、季節も秋から冬となったある日、おっちゃんは風邪をひいてしまった。
朝起きると頭が重く、意識も朦朧として身体中が痛かった。これは風邪かインフルだなと思い体温計で熱を計ってみると、四十℃近くの高熱を発していた。
おっちゃんはこれではいけないと、力の入らないふらつく身体を無理矢理動かして病院へ行った。同じような患者で賑わう待合室で長いこと待って診察室に入り、検査棒を鼻に突き入れられ結果を待ち、結果、インフルエンザではないとのことだった。
後は薬を貰うだけだと薬局へ行き処方箋を提出して薬を待っているとき、おっちゃんはふと、自分が変わってきていることに気付いた。もし自分があの時の、屋上で身投げしようとしていたときから考えが全く変わっていなかったのなら、絶対に病院になんて来ていなかっただろう。むしろ、これを機に死ねたら幸いだと思って、症状が悪化するようなことをしていたに違いない。だから、今ここにいるのは「ワタシは死にたくないぞ! 生きていたいぞ!」と声高に叫んだ、あの前向きで明るく、向日葵のような可愛らしい無邪気な少女に影響され、自分でも気付かぬ内に生きたいと思い始めてきているからなのかもしれない。
そして、多分、本当はそんな小難しい自分の死生観が変わったなんて理由ではなくて、もっと単純で、風邪を治して早くお嬢ちゃんに会いたいだけなんだろうなと、おっちゃんは一人自嘲の笑みを浮かべた。
おっちゃんは家に帰ると栄養剤と薬を飲んですぐ布団に横になった。朦朧とする頭で、熱を出したときに起こる特有の症状ともいえる、不安感で頭がいっぱいになった。
気弱さも相まってか、無性にお嬢ちゃんのことが心配になった。自分の持っていた風邪をお嬢ちゃんにうつしてしまったらどうしよう、それが元でお嬢ちゃんに何か大事があったらどうしようと、おっちゃんは自分の不調さよりもお嬢ちゃんのことが心配で心配で仕方がなかった。酷いときなどは声を上げて泣き出したくなった。
なんなら夕方に起きてあの屋上に駆けつけたくもあったが、もしお嬢ちゃんが元気ならばかえってうつしてしまうかもしれないと、そんな行くべきか行かざるべきかという思考の堂々巡りを繰り返しながらいつしか眠ってしまった。深夜頃、薬がきれ体調が悪化して目が覚めたおっちゃんは時計を見て、こんな時間じゃ行っても仕方ないかと、また栄養剤と薬を飲んで布団に横になった。風邪のときというものは不思議なもので、平時では信じられないくらい精神的に気弱になるものであるが、多分に漏れずおっちゃんもそうで、暗い家の中、一人深夜を過ごすおっちゃんの頭の中に浮かぶのは、暗い後ろ向きな思考、過去のトラウマ、不安や自虐的なことばかりであった。もっと言えば、元から厭世的で後ろ向きに今まで生きてきたおっちゃんに至っては、常人のそれよりもことさら酷いといえるのかもしれない。どうせお嬢ちゃんは俺なんか待っていないだろう。こんな小汚い中年の自殺未遂のおっさんを、あんな可愛らしい無垢な少女が心配してくれたこと自体が奇跡なのだ。むしろ、あのお嬢ちゃんにとって自分と過ごす時間はただの暇潰しで、自分がいなくなったらなったできっと新しい暇潰しを探すだろう。小汚いおっさんをからかって遊んでいただけだ。むしろあんな純真無垢な娘の青春時代という貴重な時間を、こんなおっさんに浪費させてしまうのは申し訳ない。お嬢ちゃんはきっと自分を待ってはいないだろうと、そんな暗い思考の中、この風邪が完治してからあの屋上へ行こうと、そうおっちゃんは答えをだした。
そして風邪が治り、おっちゃんは四日ぶりにあの廃ビルの屋上へと向かった。今日は天気も良く快晴な日曜日だった。お嬢ちゃんが来る時間はわからないし、お嬢ちゃんが今日来るかも分からない。むしろ、二度とお嬢ちゃんはこないかもしれない。が、もしお嬢ちゃんがきたらと、お嬢ちゃんが何時に来ても会えるようにと、朝の七時には廃ビルに到着した。階段を上り屋上へ繋がる扉を開けると、そこには、自分がいつも腰掛けている場所に、お嬢ちゃんが体操座りでちょこんと座って、朝日を背に受け眠っていた。
「…………え?」
まさかお嬢ちゃんが来ているなんて、さらには自分よりも先にいるなんて欠片も思ってなかったおっちゃんは、信じられないと驚きで思わず声が出た。
「…………ん?」
その声に反応して、眠っていたお嬢ちゃんが薄目を開け、ゆっくりと首を上げおっちゃんのほうを見た。
「…………あ」
最初ぽかんとしていたお嬢ちゃんだったが、ハっとしたような表情をすると立ち上がり、両手を後ろに組んでゆっくりとおっちゃんの目の前に歩み寄った。その顔は、普段の無邪気な面からは全く想像できないほど、どこか危うげな、初めて出会った日のお嬢ちゃんを彷彿とさせる、寂しさと安堵のようなものが混じった笑顔だった。
おっちゃんはお嬢ちゃんがいたことにも驚いていたし、何でこんな早い時間にいるのかとも驚いて、頭の中が混乱し収拾がつかず、どうしていいか分からず、ただお嬢ちゃんを呆然と見つめていた。
「良かった……。もう来てくれないのかと思ったぞ……おっちゃん」
「……っ」
その純粋な一言は、何よりも深くおっちゃんの心を抉った。胸を打つ言葉に息が詰まった。脳に衝撃を受けた。
「俺を……ずっと待っててくれたのかい……?」
搾り出すように発した言葉は、おっちゃんの全ての想いが詰まった一言であった。
お嬢ちゃんは後ろに両手を組んだままくるりと振り返って背を向け、横顔だけおっちゃんのほうに向けた。その可愛らしくも、憂いを帯びた横顔と、透き通るようなブロンドの髪が朝日に照らされ、黄金色の穂のように輝いている。
「キノウも、オトトいも、その前も、ずっとおっちゃんがコないかって、待ってたんだからな」
おっちゃんは言葉が出なかった。ぐるぐると混乱する頭の中で、なんで? どうして? という疑問がばかりが前へ前へと出て、その思いが抑えきれず口から漏れる。
「どうして……」
「……ん?」
「どうして待っていてくれたんだい……? こんな死にたがりの小汚いおっさんといたって楽しくないだろう? なのに、なんでお嬢ちゃんは待っていてくれるんだい……? 時間の無駄だろう……? こんなおっさんと過ごしたってなんにもなんないだろう?!」
「……」
最後のほうは怒鳴るような大声になったその言葉に、お嬢ちゃんは一瞬キョトンとし、次いで悲しそうな顔をしたかと思ったら、おっちゃんのその、親とはぐれて泣きそうな子供のような、そんな顔を見て何かを悟ったのか、優しげな笑みを浮かべた。
「なぁんだ……おっちゃんも不安だったのか……。ワタシと一緒だなっ」
その言葉には、全てが含まれていた。
「おっちゃん、それがワタシが待っていた理由だぞ。ワタシも、おっちゃんがコないんじゃないかって不安だった。だから、ずっと待ってたんだ」
真心というものは、言葉でも伝わるものなのだと、おっちゃんの世界が激しく揺れた――
心打たれた――
お嬢ちゃんの純真を疑っていたことを心底恥じて、自らを深い穴の奥底へと閉じ込めたくなった――
そして同時に、この娘はずっと自分を待ってくれていたというのに、自分はどうして、お嬢ちゃんのことを疑ってしまったのか? ということへの罪悪感で胸が張り裂けそうになった。そしてその健気さに涙がこぼれそうになった。
「ごめんよお嬢ちゃん。ホントのこと話すと、おっちゃん風邪ひいちゃって、来たいけどこられなかったんだ。それと……お嬢ちゃんはもう、おっちゃんのことを待っていてはくれないんじゃないかって思ってた……。だから、待っててくれて、本当に嬉しかった……」
「ホントか……?」
お嬢ちゃんは寂しげな表情でおっちゃんを見つめる。
「……ホントだよお嬢ちゃん。なんだと思ってたんだい?」
「じつはな……おっちゃんはもう、二度とここにコないんじゃないかって思ってた」
「……なんでだい?」
「おっちゃんは……無理してワタシのワガママに付き合ってるんじゃないかって……。だから、それがイヤになって、こなくなっちゃんじゃないかって思ってた」
寂しげな笑顔を浮かべるお嬢ちゃんは、抱きしめたくなるほどの哀愁を秘めていて、おっちゃんは自分のバカらしさに地団駄を踏んで、自分で自分を罵倒し殴り飛ばし大声で叫びたくなった。
「……そんなことないよお嬢ちゃん。おっちゃんは自分がイヤなことに付き合うほど人間ができていないよ。それに、指きりしたろ? おっちゃんが本当に生きたくなったら、お嬢ちゃんの秘密を教えてもらうって。おっちゃんまだお嬢ちゃんから教えてもらってないよ?」
「……ホントか?」
「ホントだよ。お嬢ちゃん」
「……おっちゃん生きたくなったのか?」
「う~んまだだなっ」
「ふふっ……それもどうかと思うぞ」
「約束するよお嬢ちゃん。おっちゃんは死にたくなくなるまで、生きたくなるまで、そして、お嬢ちゃんがおっちゃんのことを嫌になるまで、おっちゃんは、お嬢ちゃんに何も伝えずに居なくなったりしないよ」
その言葉は宣誓であり呪縛でもあった。自暴自棄になって、一人で消えていくはずだったおっちゃんが、初めて自分から、そして心から、他人と約束を交わそうと決めたのだ。もうこの時既に、おっちゃんの心から、死への切望は消し飛んで遥か遠くへ消えてしまっていたのかもしれない。
「じゃあ……ゆびきりだ、おっちゃん」
「おお、もちろんだよ」
そのゆびきりは、おっちゃんとお嬢ちゃん、二人の思いが今までよりも強く深くなって、絡まりあうようなゆびきりであった――