第七話「生きたくなったおっちゃんと、死にたくなったお嬢ちゃん」
あの日を境に、おっちゃんの中でお嬢ちゃんに対する想いが大きく変わり、日に日にお嬢ちゃんへの父性のような気持ちが強くなっていった。
この健気で優しい無垢な少女が幸福であるように、この娘が悲しい思いをすることがないように守ってあげたい。それらの愛おしいという保護欲のような、親のような気持ちが強くなっていった。
お嬢ちゃんと接する度に、おっちゃんの顔からは陰が取れ、穏やかな顔つきになっていき、この屋上から飛び降りようとしていた時の妖怪のような顔とは、もはや全くの別人に見えるほどにおっちゃんは生き生きとしていった。おっちゃんはまさしく、今、生きていたのだ。楽しかったのだ。
おっちゃんにとってお嬢ちゃんと過ごす時間は、その苦痛しか記憶に残っていないような苦難に満ちた人生のなかで、初めて訪れた心安らげる、幸せを感じられる、満ち足りた幸福な時間だったのだ。
もう今年も終わろうとしている。あと一週間もすれば、大体の学校で冬休みが始まる頃――
その日のおっちゃんは、ある決意をしてこの廃ビルの屋上へと来ていた。お嬢ちゃんがいつも来る時間よりも随分と前から来て、お嬢ちゃんと初めて会った日に飛び降りようとしていたフェンスの前で一人佇んでいた。あの日と同じように夕日が差し込み、自分を淡く照らして、妙にノスタルジックな気分にさせている――
だが、あの時はフェンスの外に立ち、今回はフェンスの内に立っている。それは、おっちゃんが自分がこれからどちらの道に向かって歩いていくかの、その答えであった。
その答えをださせてくれたのは、思ってもみなかった道を、一度は捨てた道を、また示してくれたのは、お嬢ちゃんだった。お嬢ちゃんと出合ったのはつい最近のことだというのに、随分と昔のことのように思えるような不思議な気分になり、お嬢ちゃんと出会ってから今までの幸福だった日々が、心温まる幸せな日々が、まるで走馬灯のように思い出された。
「ありがとうお嬢ちゃん……。お嬢ちゃんのおかげで、おっちゃんは生きていく決意ができた……。死にたくなくなったよ――」
今日、おっちゃんはその言葉をお嬢ちゃんに伝えたかったのだ。おっちゃんはお嬢ちゃんに内緒で仕事を探し、なんとか内定を貰うこともできた。
全てが嫌になり、ずっと死ぬことばかり考えて、あと一歩で死ぬはずだった死にたがりの自分と決別し、新しい生きるための一歩を踏み出すのだと、その最初の報告は自分をここまで立ち直らせてくれたお嬢ちゃんにと、心からの感謝と共にそれを伝えたかったのだ。
おっちゃんはコートのポケットからピンク色のリボンでラッピングされた可愛らしい小箱をそっと取り出し、手の平に乗せて繁々と眺めた。
「お嬢ちゃん、喜んでくれるかな……?」
それはお嬢ちゃんへのプレゼントで、今までの感謝を込めて、おっちゃんなりに一生懸命選び抜いたものであった。
「っ」
そうしてプレゼントを眺めていると、後ろの扉が開く鈍い音が響いたので、おっちゃんは慌ててプレゼントをポケットに仕舞うと、誤魔化すように声を出しながら振り返った。
「お、お嬢ちゃん今日は早いんだ――」
振り返ったおっちゃんは、扉の前に立つお嬢ちゃんを見て絶句した。
何故なら、そこにいたのは確かにお嬢ちゃんだったが、その姿が、幻覚ではないかと思えるほどにボロボロだったからだ。
雨も降っていないというのに、全身がずぶ濡れで、美しいブロンドの髪はグシャグシャ、制服も引き千切られたり刃物で切り裂かれたりしたような痕が無数にあって、靴だって履いていない。靴下のみの足でここまで歩いてきたのだろうか、白いハイソックスは血が滲みて赤黒く染まっている。
「どっ……どうしたんだいお嬢ちゃん?!」
おっちゃんはすぐさま駆け寄ってお嬢ちゃんの両肩を強く掴み、放心しかけているお嬢ちゃんを揺すった。
「おっちゃん……」
お嬢ちゃんは焦点の定まらない瞳でおっちゃんの顔を見ると、静かに、玉のような涙をその両目から流して、倒れ込むようにおっちゃんの胸に顔を埋め、そして、ポツリと呟いた。
「…………死にたい」
「――――」
お嬢ちゃんの尋常ならざる事態と状況に、おっちゃんは一人で浮かれていた自分の頭が急速に芯まで冷えていくのを感じた。おっちゃんは強く、それでいて優しくお嬢ちゃんを抱き締め、前を向いたままお嬢ちゃんに問いかけた。
「……なにがあったんだい?」
「おっちゃん……ワタシ……ワタシ……っ」
お嬢ちゃんは、嗚咽と共に、おっちゃんの胸の中で全てを語った――
日本に来て両親が事故で死んでしまい、天涯孤独の身になってしまったこと――
それから、クラスメートのとある有力者の娘に目をつけられ、学校でイジメが始まり、今までずっとイジメられ続けていたこと――
色々なことに耐えかねて自殺しようと思ってここに来たら、自殺しようとしていたおっちゃんに出会ったこと――
死のうとしているおっちゃんと自分とを重ね合わせてしまったこと――
おっちゃんと会って過ごす日々に、自分がどれだけ助けられていたかということ――
だがイジメは収まらず日々悪化していき、今日特に酷い仕打ちを受け、もう生きていたくなくなってしまったこと――
「そうだったのかお嬢ちゃん……」
おっちゃんは強く、強くお嬢ちゃんを抱きしめた。
「おっちゃん……ワタシはもう疲れたぞ……。もう生きたくないのかもしれないぞ……」
全てを打ち明けられたおっちゃんは、お嬢ちゃんを強く抱きしめたまま、哀しい瞳をして、口を開いた。
「……お嬢ちゃん、本当に、死にたいのかい?」
「うん……もう、全部がイヤになっちゃったんだぞ……」
「どうしても死にたいのかい……? お嬢ちゃんのためなら、おっちゃんは、なんだってしてあげるよ」
お嬢ちゃんはおっちゃんの胸の中で小さく笑って「ありがとう」と呟いたが、ゆっくりと力無く首を横に振った。
「……おっちゃんと、ここで過ごす時間はホントウに楽しかった……。ワタシ、おっちゃんと出会っていなかったら、あの時にここから飛び降りて死んでた……。だけど、おっちゃんと会えた……。おっちゃんと過ごす時間だけは……ワタシの中で、ユイイツ、幸せな時間だったぞ……。ずっとこうやって、楽しい時間が続けばいいって思ってた……。だけど……もう……ムリだ……ぞ……」
お嬢ちゃんは、次第に涙を滲ませ、声も絶え絶えにおっちゃんの服を強く握って、その思いを全て吐露した。おっちゃんもお嬢ちゃんをもう一度強く強く抱きしめると、意を決したような優しい笑顔を浮かべて、お嬢ちゃんを見た。
「……ならお嬢ちゃん、おっちゃんと、一緒に死ぬかい?」
お嬢ちゃんはゆっくりと顔をあげると、縋るような、それでいて何か諦めるような瞳でおっちゃんを見た。
夕暮れの屋上で、二人の悲しい視線が交差する――
「……いいのか? おっちゃん……?」
「ああ、お嬢ちゃんに貰った命だ。お嬢ちゃんのために使いたいんだ」
おっちゃんはお嬢ちゃんの瞳を真っ直ぐに見返して、とても優しい笑みを浮かべた。
「じゃぁ……」
「けど、今すぐは駄目だよ」
言い方は柔らかかったが、その言葉には冷たく突き放すような、拒絶の意思が含まれているような、そんな響きを持っていた。
「……え?」
「三日後だ。三日後の日曜日、いつもの時間にここへおいで。そうしたら、おっちゃんが一緒に死んであげるよ」
そう言ったおっちゃんの顔には優しい笑みが浮かんでいる。とても穏やかに見える。お嬢ちゃんはそんなおっちゃんの顔を見て、よく分からない不安のようなものを感じた。
「……なんで三日後なんだおっちゃん? なんで今すぐじゃダメなんだ……?」
「身の回りの整理をするんだよ。その間に……もしかしたらお嬢ちゃんの気も変わるかもしれないだろ?」
「そんなことないと思うぞ…………」
「とにかく三日後だよお嬢ちゃん。じゃないと、おっちゃん、一緒に死んであげないよ? あと、おっちゃんも身支度をしなくちゃいけないから、日曜の前にここへ来てもおっちゃんには会えないからね……? わかったかい?」
「うん……。わかったおっちゃん……」
おっちゃんの意志は固いと見て、お嬢ちゃんも不承不承気味に頷いた。
「とりあえず、今日は家に帰るんだお嬢ちゃん。ここにはタオルもないし、そんなずぶ濡れのままじゃ風邪ひいちゃうよ。履きにくいだろうけど、おっちゃんの靴を履いていきな」
「おっちゃん……。一緒にいてくれないのか……?」
悲しげな声でおっちゃんの服の裾を掴み縋るお嬢ちゃん手を、おっちゃんは優しく、けれどもはっきりと首をゆっくり横に振り、裾を掴むお嬢ちゃんの手を包むように握って指を一本一本ゆっくりと解いた。
「……日曜まではダメだよ。とりあえず、今日は一旦帰るんだ。わかったねお嬢ちゃん?」
お嬢ちゃんは捨てられた子犬のような目で縋るようにおっちゃんを見ていたが、暫くして諦めきったような、大人びたような笑顔を浮かべた。
「……わかった……。帰る……。クツ借りるぞおっちゃん……」
「……ああ。またね、お嬢ちゃん」
「うん……。またな、おっちゃん」
おっちゃんから靴を借りたお嬢ちゃんは肩を落としてふらつくように歩き、扉を潜るところで足を止めおっちゃんに振り返った。
「……なぁおっちゃん」
「……なんだいお嬢ちゃん?」
「おっちゃんの……名前はなんていうんだ?」
僅かな沈黙のあと、おっちゃんが口を開いた。
「……ななしの、ななしのごんべえ。お嬢ちゃんの名前は?」
「アリス……、アリス・ウィンチェスター」
「いい名前だね。お嬢ちゃん。お嬢ちゃんにぴったりの名前だよ」
「おっちゃんは……変な名前だな。なんてジを書くんだ?」
「……漢数字の七に、長篠の合戦の篠、権力の権に、兵士の兵。衛兵の衛で、七篠権兵衛だ」
「やっぱり変な名前だぞ……」
「……そうだね。お嬢ちゃんのキレイな名前とは大違いだ。お嬢ちゃん、おっちゃんはお嬢ちゃんの名前が聞けて本当によかった……。おっちゃん、もう、何も思い残すことはないよ」
「ふふっ……ありがと、おっちゃん――」
お嬢ちゃんはそう言って悲しげな微笑を浮かべると、今度こそ振り返らず、哀愁漂う背中を見せて一人、屋上を去っていった。
屋上に残ったおっちゃんは、真っ白になるまで握りしめた拳から血を幾筋にも伝わせ、フェンス越しに睨むように夕陽を眺めていた。
「ごめんよお嬢ちゃん……」
思い返せば、そうではないかと思えることはいくつもあった――
なんで自分はそれに気付けなかったのだろう? なんて自分は馬鹿で間抜けで自分本位なヤツだったのだろう……。お嬢ちゃんが一人で、あの小さな体に不安や恐怖を内に溜め込んで、その心が、心身が擦り切れていく中、自分だけが楽しんでいた。お嬢ちゃんが死にたがりかけていくなか、自分だけが生きたくなっていた。なんて大馬鹿者なんだろうと――
(お嬢ちゃん……ホントは自殺を止めてもらいたかったのかもしれない。ただ優しい言葉をかけてほしかったのかもしれない……。だけど、ごめんよお嬢ちゃん。優しい言葉だけじゃ現実は変わらないんだ。おっちゃんはクズだから、お嬢ちゃんのように優しくはなれないよ――)
「だけど……。おっちゃん、お嬢ちゃんのおかげで、人を好きになるってことが、幸せってことがなんなのか分かったよ。ありがとうお嬢ちゃん――」
おっちゃんのその言葉は、吹き上げる風に乗せられて、フェンスの向こう側へと吸い込まれるように消えていった――




