第三十八話 煩悩(一)
まめに休憩は取ったものの、女はじき七ヶ月になろうというのによく歩き、陽がまだ十分あるうちに無事月ヶ瀬村に到着した。
寺男は昼になる前、ここからは月ヶ瀬村まで迷わず行けるだろうという時点で、単身寺へと引き戻っている。
「そなたの叔母とやらの家は、ここから近いのか」
「はい。もうすぐでございます」
山間の小さな村は何とはなしに陰気臭く、あぜ道にいる村人たちは、美しい女と大男の僧侶を盗み見るようにちらちらと見た。
明るく声掛けしてくる者など皆無である。
そういえば、山寺ではいつもうるさいほどの鳥の声も、ここではまったく聞こえない。
『なるほど、鳥すらも鳴かぬさびれた村なのだな』
丞蝉が鋭い視線を向けると、皆こそこそと下を向いた。
女の訪ねる人家は、取り立てて変るところもないよくある粗末なそれで、中から背の低い痩せた中年女があまり嬉しそうでもなく女を迎え入れた。
女は丞蝉を振り返り礼を言うと、
「何のもてなしも出来ませんが、ぜひ一晩お泊まりください」
と付け加えた。
が、痩せた中年女の素っ気無さに気付いていた丞蝉は、それを断ると即座に身を翻し帰路についたのだった。
秋の日は短い。
今からだと、山中を行く頃、完全に陽が落ちる。
だが丞蝉が滞在を断ったのには、もう一つ理由があった。
丞蝉の本能が、これ以上この女と共にいてはいけない、と言っているのであった。
僧侶が女と一つ同じ屋根の下に泊まるなどと、あってはならぬ行いである。
……村に入った時点ですぐに引き返すべきだったかも知れぬ。
だがなぜか、自分は未練たらしく女の後をついてきてしまったのだ。
そう思うと、丞蝉は急にいたたまれなくなり、背後で女が丁寧に頭を下げ自分に感謝の念を送ってくれているのを感じながら、なおも振り向かず、月ヶ瀬村を出て行った。
身を翻した時、ふと、中年女が女に「しの」と呼び掛けるのを耳に受け、それを頭の隅にしまい込みながら。
もっとも丞蝉は、人家に泊まるよりは山中の方がずっとふさわしい男であった。
これも修行と思いつき、脚の怪我にも構わずわざと険しい山道に分け入ってゆく。
蛇行した道を行かず、真っ直ぐ突っ切ろうというのだ。
バサバサッと藪が揺れ、丞蝉は大きな手で枝を掴みながら大股で上ってゆく。
自然のままの岩肌や草の匂いが、しばらく山歩きの行を控えていたせいで忘れていた感覚を取り戻させてくれる。
――煩悩を祓うにはちょうどよい。
やや自嘲気味ともとれる思いを自分に向けながら、丞蝉は往路とは比べものにならぬほどの勢いで歩み続けた。