壊していい理由
夜は、静かだった。
静かすぎて、耳鳴りがした。
魔術科の寮は、規律正しく、無機質で、
眠るには向いているはずなのに――
俺の身体だけが、まったく休まらない。
ベッドに横になっても、
意識は浮いたまま、沈まない。
……セナ。
名前を口に出さなくても、
思考の中心に、ずっといる。
野外訓練。
変成科。
三ヶ月。
知らされていない情報が、
逆に想像を膨らませる。
今、どこにいる?
誰と?
無事か?
胸の奥が、じわじわと痛む。
起き上がる。
部屋の中を一歩、二歩。
意味もなく歩く。
同室の生徒が、寝返りを打った。
「……最近さ」
低い声。
暗闇の中。
「お前、ちょっとおかしいぞ」
返事をする前に、
喉の奥で言葉が潰れた。
おかしい?
――当たり前だ。
セナがいない。
それだけで、世界の前提が崩れている。
机の上。
剣帯。
魔術触媒。
血の匂いが、まだ抜けきらない。
今日も、訓練だった。
壊す。
燃やす。
貫く。
敵役の魔導具が砕ける感触は、
妙に心地よくて。
……嫌な感覚だ。
壊すことでしか、
均衡が保てなくなっている。
ふと、視線が止まる。
外套。
セナがくれたものじゃない。
ただ、以前一緒に買った、
同じ店の、同じ色。
それでも。
布を掴んだ瞬間、
呼吸が、乱れた。
違う。
これは、違う。
香りが、薄い。
上書きされている。
……当たり前だ。
指が、震える。
セナの香りは、
セナのそばにしかない。
つまり――
今、セナのそばに、誰かがいる。
思考が、そこに滑り落ちた瞬間。
――カン。
頭の中で、何かが鳴った。
だめだ。
それ以上、考えるな。
理性が、必死に止めにかかる。
でも。
「……守るって」
誰に?
セナは、強い。
変成科で、生き延びている。
俺がいなくても?
その考えが、
一番、許せなかった。
俺が守る。
俺が戻る。
俺の場所だ。
それなのに。
知らない場所で、
知らない距離で、
知らない誰かが――
胸の奥が、焼ける。
手が、無意識に動いていた。
ナイフ。
鍛錬用。
切れ味は落としてある。
それでも。
壁に、突き立てた。
……ドン。
一度。
……ドン。
二度。
想像の中で、
“セナの隣に立つ影”を、
何度も、何度も。
息が荒い。
止まらない。
壊す。
排除する。
そうすれば、戻る。
――セナは、俺のところに。
そこで、
不意に視界の端で、動いた影。
教官だ。
廊下の向こう。
無言で、こちらを見ている。
一瞬。
本当に、一瞬だけ。
視線が合った。
何も言わない。
ただ、眉をひそめる。
その一拍が、
逆に、決定打だった。
……ああ。
見られた。
それでも、止まらない。
むしろ、はっきりした。
これは、狂気じゃない。
これは、必要な行動だ。
守るため。
取り戻すため。
「……大丈夫だ」
自分に言い聞かせる声が、低い。
セナは、俺を拒まない。
拒まれる理由が、ない。
なら――
壊す理由は、十分だ。
ナイフを、ゆっくり下ろす。
呼吸が、整う。
思考が、一本に収束していく。
……落ちた。
自覚した瞬間、
不思議と、怖くなかった。
むしろ、
これで迷わずに済む、と。
ベッドに戻る。
外套を、胸に抱く。
目を閉じる。
セナ。
戻る。
必ず。
誰が何をしていようと。
ラウル・アインハルト




