距離感
庭は、今日も穏やかだった。
朝の光が芝生を撫で、葉の先に残った露がきらきらと反射している。
風は弱く、洗い立ての布の匂いと、土の湿った匂いが混ざって流れてきた。
――魔術の練習には、最高の環境だ。
そう、環境は。
「……ねえ、エリオス」
縁側に腰掛けたマリンが、紅茶のカップを持ったまま、声を落とす。
「なに?」
穏やかな返事。
その声色はいつも通りで、朝の平和を疑っていない。
マリンは、庭の中央をじっと見つめていた。
「……あの子たち、あんな距離だったかしら」
視線の先。
芝生の上で、セナとラウルが向かい合って座っている。
……いや、向かい合っている、というより。
「近くない?」
「近いな」
即答だった。
マリンの眉が、ゆっくりと持ち上がる。
「魔術の練習、よね?」
「そうだな」
「……手、握ってるわよ?」
「握ってるな」
確認するように言い合ってから、
二人同時に、もう一度庭を見る。
ラウルは真剣な顔で、セナの手元を見つめている。
セナは瞳を閉じて、集中しているらしい。
姿勢は正しい。
呼吸も落ち着いている。
……問題は、距離だけだ。
「ほら、あの声」
マリンが、そっと耳を澄ます。
ラウルの低い声が、庭に落ちる。
「……焦らなくていい。今は、流れを感じて」
必要以上に近い位置で。
必要以上に落ち着いた声で。
「……指先まで、意識を通して」
「……うん」
セナの返事は短い。
でも、その声が、どこか柔らかい。
マリンは、ゆっくりとカップを置いた。
「……ねえ、エリオス」
「なんだ」
「私たち、あのくらいの距離だった?」
エリオスは、少し考える。
「……いや」
即否定。
「もっと、くっついてた」
「そこ張り合わなくていいのよ」
マリンは小さく笑った。
「でもね」
再び庭を見る。
ラウルが、ほんの一瞬だけ、
セナの指先を包む手に力を込めたのが見えた。
セナは驚いたように目を開き、
すぐに何か言い返している。
口元が動く。
多分、抗議だ。
それを聞いたラウルが、
少しだけ困った顔で、でもすぐに柔らかく笑う。
「……ああ」
マリンは、確信した。
「これは、完全に距離感がおかしいわね」
「今さらだろ」
エリオスは、どこか面白そうに言う。
「赤子の頃から一緒だ。
今になって離れるほうが不自然だ」
「それはそうなんだけど……」
マリンは頬に手を当てる。
「“魔術の練習”って言い訳がつく分、余計に堂々としてるのが、ね」
「堂々としすぎてるな」
「でしょう?」
二人は、しばらく黙って眺めていた。
庭では、セナが集中を切らして、
ぷいっと顔を背けている。
ラウルが、慌てたように何か言って、
距離を少しだけ取る。
――少しだけ。
「……焼けるわ」
ぽつり、とマリン。
「何が」
「青春が」
「今さらだ」
エリオスは、マリンの肩に手を回した。
「ほら、見てるだけで楽しいだろ」
「……それは、そう」
マリンは、素直に頷く。
「セナ、私に似てるでしょう?」
「瞳は俺だ」
「そこは譲らないのね」
「譲らない」
くすっと、二人同時に笑う。
庭の向こうで、セナが転びそうになり、
ラウルが反射的に手を伸ばす。
支えた手が、なかなか離れない。
「……あらあら」
「……あらあらだな」
マリンは、エリオスに体を寄せた。
「ねえ。
あの子たちがどうなっても、応援するわよね?」
「当然だ」
即答。
「俺たちは、選んだ」
「そうね」
マリンは、エリオスの腕に、指を絡める。
「じゃあ、今日のお昼は何にする?」
「君の作るものなら何でも」
「……相変わらずね」
庭では、
距離感のおかしい二人が、
今日も魔術の練習を続けている。
縁側では、
距離感ゼロの夫婦が、
変わらずいちゃついていた。
――平和な朝だった。
母マリン&父エリオス




