教える側の理性
セナが前に座っただけで、空気が変わった。
距離は、ほんの一歩分。
それだけなのに、胸の奥に溜まっていた熱が、行き場を失って静かに滲む。
――落ち着け。
これは魔術の基礎訓練だ。
教える側として、必要なことを、必要なだけ伝える。
それ以上でも、それ以下でもない。
そう、何度も自分に言い聞かせる。
「呼吸、一定で」
声を落とす。
低く、余計な抑揚をつけないように。
「焦らなくていい。今は、感じるだけでいい」
セナは素直だ。
言われた通りに背筋を伸ばし、瞳を閉じる。
その仕草一つ一つが、幼馴染のものなのに、どこか新しく見える。
――集中しろ。
視線を逸らし、手元だけを見る。
魔力の流れを説明する言葉を選ぶ。
余計な単語を削って、必要最低限に。
それなのに。
(……近い)
前に座っているはずなのに、近いと感じる。
声を届かせる距離。
呼吸が聞こえる距離。
さっきまで、後ろに回っていた。
腕を回し、手を取って、導いた。
あれは――
必要だった。
セナの感覚は鋭いが、流れを掴むには“実感”が足りなかった。
だから、直接伝える必要があった。
必要だったんだ。
(……本当に?)
胸の奥で、小さく疑問が跳ねる。
触れ方。
声の高さ。
言葉を落とす位置。
全部、無意識に“選んで”いた。
セナが一番集中しやすい距離。
セナが一番拾いやすい音。
……いや。
セナが、一番“俺を意識する”距離。
気づいた瞬間、喉が詰まった。
「……」
セナは、まだ瞳を閉じている。
魔力を探るために、内側へ意識を沈めている。
俺は、その横顔を見ないようにした。
見ると、
触れたくなる。
触れたら、
教える理由が揺らぐ。
「……右手に、集めて」
声が、わずかに低くなる。
自覚はある。
でも、止めない。
止めたら、今度は別のものが溢れる。
これは、必要な距離だ。
これは、必要な声だ。
これは、指導だ。
そう言い聞かせながら、言葉を続ける。
「巡らせる。急がない」
セナの指先が、わずかに震える。
集中している証拠。
――いい。
その瞬間だけ、胸が落ち着く。
教えている間は、
“役割”がある。
役割がある限り、越えない。
越えなければ、壊れない。
「……できそうか?」
問いかける声に、余計な熱が混ざらないように気をつける。
セナは、小さく頷いた。
「……うん」
短い返事。
でも、その一音で、胸の奥がまた温くなる。
(……だめだな)
理性は、ちゃんと働いている。
でも、感情は、理性の“裏側”で育っている。
触れないようにしている分、
触れた記憶が鮮明になる。
声を抑えるほど、
声が残る。
「……休憩しよう」
そう言って、一歩下がる。
距離ができる。
たったそれだけで、空気が冷える。
――ほら。
これでいい。
教える側は、近づきすぎない。
声も、体温も、必要以上に渡さない。
それが正しい。
正しい、はずだ。
でも。
セナが少し振り返って、こちらを見る。
「……ありがとう。わかりやすかった」
その一言で、
胸の奥に溜め込んだものが、静かに脈打つ。
(……これが)
熱が、滲む。
抑えても、消えない。
役割を盾にしても、薄まらない。
それでも、俺は言う。
「……続きは、また」
距離を保ったまま。
声を落ち着かせたまま。
教える側の理性で。
――今日も、ぎりぎりで。




