3月
「答辞。卒業生代表、曼珠沙華薫子」
「はい」
堂々とした足取りで壇上に上がった薫子先輩は、全校生徒の顔を一瞥すると、答辞が書かれた式辞用紙を懐に仕舞った。
その瞬間俺は、あっこの人アドリブで話すつもりだな、と思った。
「在校生諸君、先程は心の籠った送辞、誠にありがとう。私がこの学校に入学して、早や三年が経った。思い返してみれば、楽しかったことばかりで、明日からはこの学校に通えないことを、本当に寂しく思う。ただ、物事には全て、始まりがあり、同時に終わりがある。私がここを卒業しても、それは終わりではなく、新しい生活の始まりなのだ。そうして出会いと別れを繰り返しながら、人は大人になっていくのだと、私は諸先生方から教わった。諸君の中には、学校生活に不満を持つ者もいるかもしれない。勉強なんて、将来何の役に立つんだと、投げ出したくなっている者もいるかもしれない。だがここに断言する。諸君が日々、この学校で経験していることは、絶対に無駄にはならない。むしろ、十年、二十年後、ふと自分の人生を振り返った時、思うはずだ。あの頃の自分がいたからこそ、今の自分があるのだと。あの頃の積み重ねが形になった姿が、今の自分なのだと。だからこそ私は、諸君に願う。日々の生活を、決して無意味に過ごさないでほしいと。一日一日を、気高い城の礎を積み重ねるように、大切に生きてほしいと。大人になった時に、諸君と積み重ねたものを比べあえる日を、私は心から楽しみにしている。最後になったが、阿佐田北高等学校の、今後の発展を祈念し、卒業生の答辞とさせていただく。卒業生代表、曼珠沙華薫子」
一拍置いてから、会場中に割れんばかりの拍手が鳴り響いた。
拍手はいつまでも鳴り止まず、薫子ファンクラブのメンバーの中には、顔中が汁という汁で、とんでもないことになっている者までいた。
まったく、薫子先輩は最後まで、薫子先輩だったんだな。
こうして今や、阿佐北の伝説とまでなった薫子先輩は、惜しまれつつもこの学校から、颯爽と羽ばたいていった。
3月14日、終業式。
あの日以来、俺と江藤の間には、透明な膜が張られたかの様で、常に見えない壁を感じていた。
お互い最低限の会話しかせず、それは、すぐそこまで来ている、別れの時に受ける痛みを、少しでも和らげようとする、自衛本能なのかもしれなかった。
本当はもっと、江藤と話がしたい。
江藤と一緒にいたい。
そう思えば思う程、離れ離れになる苦しみが背中から覆い被さり、踏み出す一歩を躊躇わせた。
終業式が終わった後、明日江藤とゲンが開いてくれる、俺のお別れ会の話を教室で二人とした。
ではまた明日ね、と短く言うと、江藤は一人帰っていった。
教室には、俺とゲンだけが残った。
「……閃ちゃん」
「……ん」
「行ってきなよ」
「えっ?」
「江藤さんに渡すもの、あるんでしょ」
「……ゲン、何でお前」
「そりゃわかるよ。一日中、バッグの中チラチラ確認してたし。今日は3月14日だしね」
「……ゲン」
「何?閃ちゃん」
「お前がダチで最高に良かったよ。将来お互いのガキを、一緒のテニスのペアにしようぜ」
「ハハ、いいねそれ」
「……行ってくるわ」
「行ってらっしゃい」
俺は走れない足に鞭を打って、なるべく早歩きで江藤の後を追いかけた。
それでも江藤に追いついたのは、学校を出てから大分経ってからだった。
「江藤!」
「え?戸川君。どうしたのそんな汗だくで?」
「江藤……受け取ってもらいたいものがあるんだ」
「え……うん」
「……これ。ホワイトデーのお返し」
俺はバッグからクッキーの包みを取り出し、江藤に手渡した。
「わあ、ありがとう。可愛い。このクッキー猫の形してるね」
「悪いけど俺のは手作りじゃないけどな。普通に店で買ったやつだし」
「ううん、凄く嬉しいよ。大事に食べるね」
「……あと、これも」
「えっ?」
俺はもう一つの包みを取り出し、江藤の前に差し出した。
「……これは」
「開けてみてくれないか?」
「うん……わあ、マフラーだ」
「江藤に似合うかと思って」
それは街で偶然見つけた、よく見ると細かい猫の形が無数に刺繍されたマフラーだった。
「可愛い……。本当にありがとう戸川君。一生大切にするね」
「どういたしまして。俺もコレ、一生大事にする」
そう言って俺は、手にはめている江藤にもらった手袋を、軽く掲げた。
二人の間に、しばしの沈黙が流れた。
「……江藤」
「……何?」
「頑張って獣医になれよ」
「戸川君」
「俺もずっと北海道から応援してっからさ。いつか北海道まで轟くくらいの、ビックな獣医になってくれよ」
「ふふ、獣医はそういう職業じゃないんだけど」
「あはは、そうだったな」
「……ねえ戸川君」
「んっ?」
「悪いんだけど、明日のお別れ会、私は少し遅れて行ってもいいかな?」
「えっ?ああ、俺は別に構わないけど……」
「ごめんね!なるべく早く行くから」
「うん。でもあんま無理しなくていいぜ」
「ありがとう。じゃあまた明日ね」
「ああ、また明日」
少し足早に去っていく江藤の背中を、俺はいつまでも眺めていた。
そして翌日。
俺のお別れ会にサプライズで駆けつけてくれた、薫子先輩と、琥太狼先生に戸惑いつつも、みんなでカラオケで盛り上がった。
だが、この場に江藤は来ていなかった。
俺は引っ越し作業のため、そろそろ帰らなくてはいけない時間になり、駅のホームで電車を待ちながら、みんなと向かい合った。
「じゃあな戸川。北海道でもジュラハンの腕は磨いておけよ」
「はい、先生もあまり無茶して、クビにならないでくださいね」
「俺がぶん殴りたくなるような生徒が、入学してこなけりゃな」
「あははは」
「戸川」
「?何ですか薫子先輩」
「こんな時に言うことではないかもしれんが、曼珠沙華家に婿に来る気はないか?」
「本当にこんな時に言うことではありませんね。謹んでお断りさせていただきます。あんな家に婿に行ったら、三日ともたずに胃に穴が開いちゃいますよ」
「そうか。だが私は諦めないぞ。いつかお前を攻略してみせるから、覚悟しておけよ」
「攻略って……」
「それにしても江藤さん、どうしたんだろうね?もうすぐ電車来ちゃうのに」
「……そうだな」
ひょっとしたら俺のことなんか、どうでもよくなっちゃったのかもな。
江藤に限ってそんなことはないと思いたいが。
でも、だとしたら江藤は何をしてるんだろう。
「あ、閃ちゃん、電車が」
「ああ、来たな」
「戸川君!」
「!」
振り返ると、そこには江藤が息を切らせて立っていた。
「ハア、ハア。ご、ごめんね。遅くなって」
「いや、それはいいけど、何かあったのか?」
「あの……これ」
「えっ?」
江藤が差し出してきたのは、江藤がいつもちくわの絵を描いていたスケッチブックだった。
「戸川君に受け取ってほしいの」
「でも、これは」
「ううん、いいの。お願いだからこれを、一緒に北海道に連れていってあげて」
「……わかった。ありがたくいただくよ」
「うん」
その時、間もなく電車が発車する旨のアナウンスが流れた。
「ごめん、江藤。俺もう行かないと」
「うん。北海道は寒いだろうから、風邪引かないように気を付けてね」
「江藤も、元気でな」
俺は電車に乗り込んで、みんなの顔を見渡した。
琥太狼先生は、いつもの顔で、ニカッと笑っていた。
薫子先輩は、またいつでも会えるとでも言わんばかりに、凛々しい顔をしていた。
ゲンは泣き崩れてグシャグシャで、「閃ちゃん……閃ちゃん……」と繰り返している。
江藤は――
「あの、戸川君!」
「えっ?」
「私、戸川君のことが――」
プシュー、バタン
ドアが閉まって、定刻通りに電車は出発した。
江藤の眼から涙が零れたように見えたが、その姿はすぐに遠くなり、見えなくなってしまった。
俺は端の席が空いていたのでそこに座り、スケッチブックを開いた。
そこには俺も知らない、いろいろな表情のちくわが描かれていた。
本当に江藤は動物が好きなんだな。
江藤ならきっと良い獣医になれる。
あの頑張り屋の江藤なら。
ちくわの絵は、スケッチブックの半分くらいのページまで描かれていた。
その後も何気なく、紙をパラパラ捲っていると、また何枚も絵が現れた。
それは俺の絵だった。
弁当を食べている時の俺。
ジュラハンで遊んでいる俺。
いつ見たのか、テニス部でボールを打っている絵もあった。
鉛筆の線の馴染み具合から、昨日今日描かれたものではないことは明確だった。
そして最後のページ。
そこだけは明らかに、線が新しかった。
そこにはクラスみんなの絵が描かれていた。
琥太狼先生と薫子先輩もいて、中央には俺と江藤が立っていた。
俺はちくわを抱いていて、江藤は昨日俺があげたマフラーを巻いていた。
もしかして、これをずっと描いていたのか。
細部まで描き込まれており、とても一日で描いたようには見えなかった。
ポタ
絵の上に、水の輪が広がった。
それは一つ、また一つと輪の面積を広げていった。
俺は、周りの目も憚らずに嗚咽した。
こうして俺の初恋は、春の訪れと共に、終わりを告げた。